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君のいない春に、海は近すぎた  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️
第一章 泉町に雪が混じる

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3/10

第1話 白いものの混じる風

 三月の風は、もっと柔らかいものだと思っていた。


 少なくとも、俺の知っている茨城の三月はそうだった。冬が完全に去ったとは言い切れなくても、日なたに立てば少しだけ肩の力が抜けるような、そんな中途半端なあたたかさがある。制服の上着を着ていても、もう真冬みたいに首をすくめる必要はない。朝は冷えても、昼には空気のどこかに春の気配が混じる。そういう季節だと、勝手に思い込んでいた。


 だから、その日の風の冷たさには、少し驚いた。


 助手席の窓の向こうを、乾いた白いものが横へ流れていく。最初は埃か何かだと思った。けれど、それが風に巻かれて斜めに舞い、消えたと思えばまた視界の端に現れるのを見て、ようやく雪だと気づいた。


 三月なのに、雪。


 しかも、しんしんと静かに降る雪じゃない。空から落ちてくるというより、風がどこかからかき集めてきた白い欠片を、地面すれすれに投げつけているような雪だった。


 俺は窓ガラス越しにその白さを見ながら、思わず独り言みたいに呟いた。


「……三月って、こんなに寒かったか」


 ハンドルを握っていた伯父が、前を見たまま鼻を鳴らした。


「今日は特別だな。昨日あたりから冷えてる」

「へえ」

「福島のほうって言っても、いわきはまだましなほうなんだけどな」


 まだましで、これなのかと思う。

 車のヒーターはついていたが、足元ばかりが妙に熱くて、胸のあたりは少しだけ寒い。窓の外の景色は、冬の終わりと春のはじまりがうまく入れ替わり切れていないような色をしていた。田んぼはまだ鈍く、木々も裸に近く、空だけがやけに明るい灰色だった。


 鹿嶋を出てから、どれくらい経っただろう。

 時計は見たはずなのに、道に乗ってしまうと時間の感覚は曖昧になる。親類の葬儀でいわきへ行く。目的はそれだけで、今日という日にはそれ以上の意味はないはずだった。けれど、慣れない場所へ向かう車の中にいると、自分が何かの途中に置かれている感じばかりが強くなる。


 後部座席には母が乗っていた。黒いバッグを膝に置き、時々スマートフォンではなく、まだ折りたたみ式の携帯電話を開いて時間を見たり、誰かからの連絡が来ていないか確かめたりしている。親類の集まりというのは、始まる前からすでに細々とした調整でできているらしい。誰が何時に着くとか、線香は足りるとか、誰がどこへ立ち寄るとか、そういう話が朝から続いていた。


 俺はその会話の半分も理解せずに、ただ言われた通りに支度をして車に乗っただけだった。


 葬儀だから、黒い服。

 鹿嶋から、いわきの泉町まで。

 親類の家。

 それくらいしか頭に入っていない。


 助手席の窓を流れていく景色も、自分の生活とは少し切れたところにあるものに見えた。信号、ガソリンスタンド、コンビニ、名前の知らない商店、看板の色、道路脇の家々。どれも誰かの生活の一部なのに、通り過ぎる車の中から見ていると、薄い膜を一枚隔てた向こう側のものに思える。


 それでも、北へ向かうにつれて空気が変わっていくのは、はっきり分かった。


 ただ寒いだけじゃない。

 冷たさの中に、水っぽいものが混じってくる。


 海だ、と気づいたのは、ずいぶん後だった。


 海そのものは見えていない。見えていないのに、近いと分かる。風の匂いが、鹿嶋で嗅ぎ慣れたそれとも少し違っていた。もっと薄くて、もっと広い場所からまっすぐ届いてくるような冷たさ。鼻の奥がすっとする感じがあって、それが土や家の匂いより先にくる。


 このへん、海が近いんだな、とぼんやり思った。


 もちろん、いわきに海があることくらいは知っている。知らないわけじゃない。ただ、地図の上で知っているのと、窓の外の空気で知るのとはまるで違った。土地勘のない場所では、道より先に匂いや風向きのほうが、その土地の形を教えてくることがある。


 伯父が交差点を曲がる。

 大きめの道から、少しだけ流れの緩い通りへ入った。


「もうこの辺?」

 後ろから母が訊く。

「泉町入ってるよ」

「そう」

「斎場のほう、先に寄るんだっけ」

「いや、いったん家。みんな先に集まってるって」


 泉町。


 地名だけは、朝から何度か聞いていた。

 けれど、実際にその町に入ったと言われても、どこからどこまでが泉町なのか、俺には全然分からない。道路標識の文字を見ても、今通った交差点の名を聞いても、頭の中にはうまく地図ができない。ただ、この町には南北へ抜ける大きな流れがあるらしい、ということだけはなんとなく感じた。広い道があり、それに沿うように店が並び、少し入れば住宅地があり、さらにまた別の通りがある。どこかへ向かって、どこかから来る人の気配が途切れない町だ。


 その「流れ」の感覚だけが、最初に身体に入った。


 道の脇にコンビニが見えた。

 その先にドラッグストアみたいな看板があり、少し離れて信号があり、向こうへ抜けていく道路が続いている。地名は分からない。住所も分からない。けれど、もしここで一人降ろされたとしても、まっすぐ行けばどこか大きな道には出られそうだ、という程度の感覚ならあった。


 そんなことを考える自分を、少し不思議に思った。


 別に俺は方向感覚に自信があるわけじゃない。むしろ知らない町ではすぐ不安になるほうだ。なのに、その日はなぜか、交差点の形とか、コンビニの位置とか、道路がどっちへ伸びているかみたいなことだけが目についた。


 緊張していたのかもしれない。


 葬儀に向かうとき特有の、居心地の悪さ。

 悲しいのに、悲しいだけでは済まない感じ。

 久しぶりに会う親類に何と言えばいいのか分からない感じ。

 そういうものが全部混ざって、視線だけが妙に外の風景へ逃げていたのかもしれなかった。


「今日は冷えるねえ」


 母が、窓の外を見ながら言った。


 その声は独り言のようでもあり、誰かに同意を求めるようでもあった。


「ほんとに」

 伯父が頷く。

「三月なのにねえ」

「今年は変な天気続くな」


 俺はさっき自分が呟いたのと同じことを、今度はちゃんと口にした。


「三月って、こんなでしたっけ」


 伯父が少し笑った。


「この辺は海風あるからね」

「海風で雪って、なんか変な感じしますね」

「海が近いと、寒さの質が違うんだよ。刺さるみたいなやつ」

「へえ」


 刺さるみたいな寒さ。

 たしかに、と思う。


 窓の向こうをまた白いものが横切った。

 それは一瞬で視界から消えたが、次の信号待ちで止まったとき、今度はフロントガラスの向こうにも細かい粒が見えた。降っている、というより、風に乗って移動している。誰かが見えないところで紙片を撒いているみたいに、不規則で、行儀の悪い雪だった。


 親類の家は、道路から少し入ったところにあった。


 曲がる角を一つ、二つ間違えそうになりながら進んでいく。住宅地に入ると道幅が少し狭くなり、家と家の距離も近くなる。それでも、いわゆる古い町並みという感じではない。新しい家もあれば、少し古い木の家もあり、駐車場の白線がやけに新しく見える場所もある。どの家の窓も閉まっていて、外の冷たさだけがよく分かった。


 途中で、また少し大きな道が見えた。


「あれ、何の道?」

 俺が訊くと、伯父は横目でちらりとそちらを見た。

「旧六号に出るほうかな」

「旧六号」

「昔からの道。南に抜けるならあっちの流れだな」


 旧六号。


 名前だけが、頭の中に残った。


 六号国道、という言葉なら聞いたことがある。茨城から福島へ上がっていく大きな道、くらいの認識だ。けれど「旧」がつくと急に、地図の中ではなく生活の中にある道の名前になる。昔から人が使ってきた道。今もきっと、地元の人間は何でもない顔でその名を口にするのだろう。


 そのときの俺にとっては、ただの知らない道の名前だった。


 ただ、知らないなりに、ああ、さっきからなんとなく感じているこの町の南北の流れは、あの道へつながっているのかもしれない、という気はした。


 車は住宅地の中をゆっくり進み、やがて親類の家の前で止まった。


 玄関の前には、すでに何台か車があった。

 黒っぽい車が多いのは、今日の用事が用事だからだろう。家の前に並んだ見慣れないナンバーや、半分だけ見覚えのある車体を見ていると、ここに来ている人間たちの関係まで全部、車の配置の中に表れているように思えた。


 エンジンが切られる。

 その途端、車の中の暖かさが急に頼りないものになる。


 ドアを開けると、風がその隙を待っていたみたいに入り込んできた。

 頬がひやりとする。

 思わず首をすくめた。


「うわ、寒っ」

 と俺が言うと、伯父が苦笑した。

「だから言ったろ」

「これはちょっと予想以上です」

「今日は特にねえ」

 母が後ろでコートの襟を直しながら言う。

「風が強いから余計に」


 家のほうへ向かう数歩のあいだにも、白いものがまた目の前を横切った。地面に積もるような雪じゃない。舗装の色は見えたままだし、屋根にもうっすら白く残るほどではない。なのに、風に混じっているそれだけで、町全体が少しだけ冬に引き戻されているようだった。


 玄関先で靴を脱ぎながら、俺はなんとなく来た方向を振り返った。

 見知らぬ町並みが、冷たい空の下に並んでいる。

 さっき通ってきた交差点も、コンビニも、旧六号へ出るという道も、もうこの角度からは見えない。ただ、道路がどこかへ続いていて、その先にまた別の家や店や道があるのだろうということだけは分かる。


 帰りはどの道を通るんだろうな、と、そのとき何気なく思った。


 別に深い意味はなかった。

 来た道をそのまま戻るのか。もう少し違う通りへ出るのか。泉町から鹿嶋へ帰るには、どの順番で道路がつながっていたのか。そんな程度のことだ。


 ただ、知らない町へ来ると、帰る道のことを少しだけ気にする。

 それはたぶん、早く帰りたいからではなく、自分が今どこにいるのかを確かめたいからなのだと思う。


 母が先に玄関を上がって、「失礼します」と少し声を張った。

 家の奥から人の動く気配がして、足音が近づいてくる。


 俺は靴を揃えながら、もう一度だけ外の風の音を聞いた。


 細く、冷たく、海の気配を混ぜた風だった。


 そしてそのときの俺は、数日後どころか、数日も経たないうちに、その風の冷たさを別の意味で思い出すことになるなんて、少しも考えていなかった。

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