第二話 初恋は海に消えた
泣きやもうとして、やめた。
やめられるなら、とっくにそうしていたのだと思う。
けれど、喉の奥はいちど崩れてしまうと、もう元の形には戻らなかった。息を吸うたびに胸のどこかが擦り切れるみたいに痛んで、吐き出すたびに、声にならない音が混じった。鼻の奥が熱く、目のまわりだけが妙に冷たい。春先の夕方の家の中なのに、自分の身体だけが別の季節に置き去りにされたようだった。
母が「少し横になりなさい」と言った気がする。父が何か言った気もする。けれど、言葉の形までは届かなかった。俺は居間の畳に座り込んだまま、膝に額が触れるほど前かがみになっていた。そうしていないと、身体の中に空いた穴から何かが全部こぼれてしまいそうだった。
伊達華怜。
名前を考えるだけで、また喉が詰まる。
親族が一人亡くなった。
その事実だけでも、もちろん十分に重いはずだった。
けれど俺が泣き崩れているのは、それだけじゃない。
そんなふうに言ってしまうのは、ほかの親族に対してどこか不誠実なのかもしれなかった。だが、どう言い繕っても、俺の中ではもっとずっと個人的な痛みが先に立っていた。
華怜は、俺の初恋だった。
そう口にしたことは、一度もない。
認めたことすら、たぶんなかった。
でも今さら隠しようもない。
好きだったのだ。ずっと、子どもじみた形のまま、勝手に胸の奥へ置いていた。
思い出は多くない。
会った回数だって、指で数えられるほどしかない。
それなのに、失ったと知った瞬間、胸の中に浮かんでくるのは、驚くほど些細なことばかりだった。
たとえば、夏だったか冬だったかも曖昧な、親戚の集まりの座敷。
大人たちが話している脇で、俺は一人だけ落ち着かずに座っていた。小学生だったのか、中学生の最初の頃だったのかもはっきりしない。ただ、自分が半端な年頃で、子どもたちの輪にも大人たちの話にも入れなかったことだけは覚えている。
そのとき、華怜が笑いながら俺の名前を呼んだ。
「恒一くん、そっちお菓子取って」
ただ、それだけのことだった。
けれど、その声だけが妙に耳に残った。少し低くて、落ち着いていて、でも冷たくはない声だった。年上の人の声だ、と思った。母や叔母たちとは違う、まだ若いのにちゃんと大人へ近づいている人の声。俺はうまく返事もできず、無言で皿を寄せただけだった気がする。
華怜は「ありがと」と笑った。
たぶん本当に、それだけだ。
それだけのことを、俺は今でもこんなにはっきり覚えている。
別の記憶もある。
親戚の家の玄関先で、皆が帰る支度をしていたとき、華怜が髪を耳にかけながら靴を履いていた。外は夕方で、家の中より少し寒そうだった。誰かに呼ばれて「はーい」と返事をしていた横顔が、なぜだか綺麗だと思った。
綺麗、なんて言葉をそのころの俺が知っていたのかは分からない。
でも、たぶん似たようなことを思ったのだ。
この人はほかの親戚とは少し違う、と。
歳の離れた又従姉。
会えば優しくしてくれる。話しかければちゃんと聞いてくれる。
ただそれだけの距離だ。
近いわけじゃない。
特別な出来事があったわけでもない。
手をつないだことも、二人きりでどこかへ行ったことも、深い話をしたこともない。
それでも、親戚の集まりのあと、帰りの車の中でふと華怜のことを思い出すことがあった。石巻に住んでいると聞けば、頭の中でその地名にだけ少し違う色がついた。会う機会なんてそうないはずなのに、またいつか会えると思っていた。
また会える。
その前提を、俺は疑ったことがなかった。
親戚なのだから、いつかどこかで会うだろう。
法事か、正月か、結婚式か、何かの拍子にまた名前を呼ばれることがあるだろう。
そのとき自分は、今より少し大人になっていて、昔みたいに黙りこまずに、ちゃんと話せるようになっているかもしれない。
勝手にそんなことを思っていた。
好きだと言う未来までは想像できなくても、また会う未来だけは、根拠もなくあると思っていた。
その根拠のなさが、今になって胸を切る。
石巻で津波に巻き込まれた。
その事実は、どんな思い出より冷たく、重かった。
テレビの映像に映る黒い水。
家を押し流し、道路を呑み、車を積み重ね、何もかも同じ向きに引きずっていくあの水のどこかに、華怜がいたのだ。
想像したくなかった。
けれど、想像しないこともできなかった。
華怜がどこで、何をしていて、どんなふうに津波に遭ったのか、俺は何も知らない。知る術もない。知らなくていいのかもしれない。むしろ知らないままの方が救いなのかもしれなかった。
それでも「石巻で津波に巻き込まれて亡くなった」という一文だけで、人は十分に壊れるのだと、そのとき初めて知った。
俺は、好きだったと一度も言わなかった。
言うつもりも、たぶんなかった。
もし次に会えたなら、もう少しちゃんと話せるかもしれない、くらいのことしか考えていなかった。そんな曖昧で、子どもっぽくて、自分に都合のいい未来のまま、気持ちを保留にしていた。
だからこそ、失ったあとに何もできない。
告白できなかった後悔ですらない。
もっと前の段階で、ただ「また会える」と思い込んでいたことそのものが痛かった。
人はまた会えるとは限らない。
明日も来週も来年も、当然のようには続かない。
そんな当たり前のことを、俺はたぶん、あの日まで本当に知らなかった。
涙は、派手には止まらなかった。
少し落ち着いたと思うと、また別の記憶が浮かんで、そこで途切れる。華怜本人の顔よりも、声とか、横顔とか、笑ったときの目元とか、そういう断片だけが妙にはっきりしている。記憶の数が少ないぶん、一つひとつが余計に鋭かった。
理想化していたのだろう、と自分でも思う。
実際の華怜がどんな人だったのか、俺はほとんど知らない。
優しかった記憶ばかり残っているのは、会う機会が少なかったからだ。嫌なところも、気の強いところも、疲れて黙り込むところも、たぶんあったはずだ。人間なのだから当然だ。
でも、だからといってこの喪失が軽くなるわけではなかった。
むしろ逆だ。
ちゃんと知る前に失った、ということが余計に苦しかった。
知るはずだった。
もっと話すはずだった。
いつか、親戚の集まりなんかじゃない場所で会える日も、もしかしたらあったかもしれない。
そういう、まだ起きていない未来まで、まとめて海に持っていかれた気がした。
俺は顔を上げた。
テレビではまだ、被災地の映像が流れている。アナウンサーは落ち着いた声で数字を読み上げ、行方不明者の数や救援物資の状況や、どこそこの避難所の様子を伝えていた。
数字。
人数。
被害。
華怜も、そのどれかに入っていたのだろう。
行方不明者の数の一人であり、確認された遺体の一人であり、津波被害の一人。
だが、俺にとってはそんな括りでは足りなかった。
華怜は、華怜だった。
親戚の集まりで笑っていた、たった一人の人だった。
俺の初恋は、海に消えた。
そう思った瞬間、また喉が鳴った。
泣き声なのか、咳なのか、自分でも分からない音だった。
初恋、なんて言葉は、どこか青くさくて、少し気恥ずかしい響きがある。
もっと平和な場所で使う言葉のようにも思う。卒業式とか、放課後とか、告白がどうこうとか、そういう話の中でならまだ似合う。
でも俺のそれは、何も始まらないまま終わった。
いや、始まる前に、海の方へ消えてしまった。
居間の向こうで、母が静かに鼻をすする音がした。
父はまだ何も言わなかった。
誰も俺の「初恋」までは知らない。ただ、親族の死に打ちのめされている高校生がそこにいるように見えているだけだろう。それでよかった。こればかりは、うまく説明できる気がしなかった。
俺は涙を拭って、また少しだけ顔を伏せた。
石巻。
津波。
華怜。
その三つの語が、もう切り離せなくなってしまっている。
今後どれか一つを聞くだけで、ほかの二つも同時に胸へ戻ってくるのだろう。
そして、そのたびに俺は思い出すのだ。
自分は生き延びたのだと。
泉町で、あの警報音を聞いた。
広い駐車場へ出た。
海沿いを避けて南へ歩いた。
植田を抜け、窪田を抜け、勿来を越え、暗い山道を通って、関南町の祖父の家に辿り着いた。
停電した家で、ラジオの声を聞きながら、長い夜を越えた。
越えたのだ。
ちゃんと、生きて。
それなのに、自分は誰も救えていない。
華怜を助けに行けたわけじゃない。
石巻にすらいなかった。
名前を呼ぶことも、手を伸ばすこともできなかった。
助かった俺と、死んだ華怜。
その距離は、何で埋めればいいのか分からない。
ただ「あの夜を越えた」という事実だけが、今はかえって重かった。
越えた先で、こんなふうに名前を失うのなら、俺はあの夜を何のために越えたのだろう、とさえ一瞬思ってしまう。
もちろん、そんな考えが身勝手だということは分かっていた。
それでも、喪失の直後の頭の中には、正しさより先に痛みがある。
俺はようやく息を整えながら、滲んだテレビの画面を見た。
流れているのは知らない町の瓦礫の映像なのに、そこに華怜の不在だけが見える。
そしてその不在は、少し遅れて、泉町の記憶とつながっていく。
あの日の一週間後、俺は初めて、自分が助かったことを許せなくなった。
だが、その夜が来る前、俺は泉町で雪を見ていた。




