第11話 泉町から南を見る
家の中に長くいると、外の空気が急に気になってくることがある。
別に息苦しいわけではない。
親類の家の居間に座っているのが嫌なわけでもない。
ただ、人の声と湯気と線香の匂いが同じ部屋に長く留まっていると、自分の輪郭までその中へ溶けていくような気がして、ふと外へ出てみたくなる。
午前の遅い時間だった。
告別式へ向かうまでにはまだ少し間があって、家の中ではその“少し”を埋めるように誰もが小さく動いていた。茶碗を洗う音、上着を探す声、電話の短い受け答え。今すぐ自分の手が必要なわけでもなさそうだったので、俺は「ちょっと外」とだけ言って玄関を出た。
戸を開けた瞬間、冷たい空気が顔に触れた。
昨日と同じようで、少し違う冷たさだった。
風の芯はまだ冬のままだが、昨日ほど白いものは混じっていない。雪はやんだらしい。それでも空は明るい灰色で、陽が差しているとは言い難かった。
玄関前の小さな空きに立って、俺は一度だけ息を吸った。
海は見えない。
見えないのに、どちらにあるかは分かる。
風の向き、道の開け方、家と家の隙間の先にある空の明るさ。そういうものが、海の位置をなんとなく教えてくる。昨日ここへ来たばかりのはずなのに、もうそのくらいは身体が覚え始めていた。
家の前の細い道を少しだけ歩いて、昨日真帆と通ったほうへ曲がる。
住宅地の中の道は静かだった。遠くで車の音はしているが、この通りそのものは、誰かが庭先へ出ているでもなく、洗濯物が揺れているでもなく、妙に整って見えた。寒さのせいかもしれない。人が外へ出る気になりにくい朝なのだろう。
少し広い道へ出ると、昨日よりも車の流れがよく見えた。
地元の人間なら何でもないはずの道路の向きや、交差点の信号の並びが、知らない町にいるとやけにはっきり目につく。
こっちが南か。
頭の中でそう確認する。
昨日、真帆が「まっすぐ行けば植田」と言っていたほうだ。植田。もっと下れば勿来。そこまで行けば、もう茨城が近い。そう考えると、知らない町の中に一本だけ知っている流れが通る感じがした。
俺は道の先を目で追った。
植田方面。
旧六号。
南へ抜ける流れ。
言葉だけなら昨日から聞いている。だが、一晩経って改めて町の外気の中でそれを思い浮かべると、頭の中の地図が少しだけ濃くなる。住宅地の細い道は覚えきれなくても、大きい流れは分かる。旧六号に出れば、少なくとも南へは向かえる。その感覚だけでも、知らない町では十分ありがたかった。
人は、知らない場所にいると帰る方向を確かめたくなる。
帰りたいから、というより、今いる場所をちゃんと理解しておきたいからだ。どちらへ行けば自分の知っている土地へ近づくのか、それだけ分かっていれば少し落ち着く。
俺は電柱の影をまたぎながら、通り沿いを少しだけ歩いた。
信号の向こうに、コンビニの看板が見える。昨日真帆と行った店だ。あの角をさらにまっすぐ行けば、たぶんもう少し大きな道へつながる。そこから先は植田のほう。さらに下れば勿来。勿来の先は北茨城だ。
北茨城。
その地名まで頭の中へ来ると、地図は急に自分のものに近づく。
泉町の細かい道はまだ借りものだが、北茨城の名前が出てくるあたりからは、俺の知っている道になる。
関南町。
父方の祖父母の家。
北茨城高校の近くの高台。
何度も行った場所だ。
正確な住所を今すぐ言えと言われたら少し考えるかもしれないが、車で行けばどの辺で海の気配が薄くなり、どの辺から道が少し上がるかは分かる。祖父母の家の周りは低い土地ではない。海の見える町ではあっても、海がすぐそこへ迫ってくる感じの場所ではない。
だから、あそこまでなら自分で行ける。
そんなことを、この時点で別に強く思っていたわけではない。
ただの地理の知識として、自然にそう思えるだけだ。行こうと思えば行ける場所。泉町よりも、ずっと輪郭のはっきりした土地。そういう意味で、関南の祖父母の家は頭の中に確かにあった。
道の端に立って、もう一度南を見る。
風は冷たい。
けれど昨日より少し乾いている。雪の気配が薄くなったぶん、道や家の形は見やすい。海は相変わらず見えないが、こっちへ行けば植田、もっと行けば勿来、という流れだけは、昨日よりずっと身体に入りやすかった。
「また道見てんの?」
後ろから声がして、俺は少し肩を揺らした。
振り返ると、真帆が家のほうからこちらへ歩いてきていた。上着を引っかけただけの格好で、手には何も持っていない。単に様子を見に来ただけらしい。
「なんとなく」
俺が言うと、真帆は俺の隣まで来て同じ方向を見た。
「迷子になるタイプ?」
「逆」
「逆?」
「迷いたくないタイプ」
「ああ」
真帆は少し笑った。
「分かるような、分かんないような」
「知らない町だとさ、どっちが南かとか、どこ出れば大きい道かとか、ちょっと気になるんだよ」
「へえ」
「別に今すぐ行くわけじゃないけど」
「でも見ちゃうんだ」
「そう」
「変なの」
「昨日も言ったな、それ」
「だって変だもん」
真帆はそう言いながら、俺が見ていた道の先へ目を細めた。
「そっち、植田のほうだよ」
「うん」
「で、もっと下れば勿来」
「うん」
「ほんとに頭入ってんだね」
「茨城側の地名出てくると、急に分かりやすくなる」
「北茨城の人だもんね」
「鹿嶋だけど」
「でも関南の祖父ちゃん家、よく行くんでしょ」
「まあ」
「じゃあやっぱり北茨城寄りは分かんだ」
俺は頷いた。
「関南の祖父ちゃん家、北高の近くだし」
「うん」
「あのへんなら高いから分かりやすいんだよ」
「そっか」
「海の町ではあるけど、泉町みたいな感じとはちょっと違うし」
「まあね。こっちはもうちょっと海近い感じある」
「ある」
その「ある」が、妙にしっくりきた。
海は見えない。
それでも、この町には海の近さがある。
風の冷たさの質もそうだし、道の伸び方にもどこか「海沿いへ続く町」の感じがある。昨日はそれを匂いで覚えた。今日は、道の向きで覚えつつある。
真帆は少しだけ伸びをして、それから言った。
「心配しなくても、今日終わったらちゃんと帰れっから」
「別に心配してるわけじゃ」
「道見てる顔が、ちょっとしてる」
「そんな顔してる?」
「してる」
言われて、自分でも少しそうかもしれないと思った。
大きな不安ではない。
けれど、知らない町にいる以上、頭のどこかで「帰る方向」だけは確かめていたいのだろう。帰る方向が分かっていれば、自分の生活の延長線上にまだつながっている気がする。
「まあでも、南は分かるから」
俺が言うと、真帆は「それならいいじゃん」と軽く返した。
「南さえ分かれば、恒一くんどうにかなりそうだし」
「なんだその雑な信頼」
「雑だけど、わりと合ってるっしょ」
「どうだろ」
「少なくとも私より地図見てるよ」
「見てるかも」
「ほら」
その会話で、少しだけ胸のあたりが楽になる。
知らない町への軽い不安はある。
でも、茨城へつながる道には少し安心できる。
それが今の自分の正確なところなのだと思った。
俺はもう一度、通りの向こうを見た。
植田。
勿来。
旧六号。
南。
その先の北茨城。
関南町。
北高の近くの祖父母の家。
その流れを頭の中でなぞることは、今はまだただの地理の確認にすぎない。
だが、そういう確認を無意識にしてしまうこと自体が、見知らぬ町にいる人間の身体の動きなのだろう。
「そろそろ戻ろ」
真帆が言った。
「また寒くなってきた」
「うん」
家へ戻る途中、俺はもう一度だけ通りの向きを目で追った。
どっちが南か。
どこへ出れば流れが太くなるか。
そのことばかり考えている自分に、少しだけ変な感じがした。
それでも、変だと思いながら確認してしまう。
知らない町にいるからこそ、人は帰る方向を確かめてしまうのだ。
そして、その“帰る方向”だけは、まだ自分の中にちゃんとあるのだと思うと、ほんの少しだけ安心できた。




