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君のいない春に、海は近すぎた  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一
第三章 揺れの翌日

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第11話 泉町から南を見る

家の中に長くいると、外の空気が急に気になってくることがある。


 別に息苦しいわけではない。

 親類の家の居間に座っているのが嫌なわけでもない。

 ただ、人の声と湯気と線香の匂いが同じ部屋に長く留まっていると、自分の輪郭までその中へ溶けていくような気がして、ふと外へ出てみたくなる。


 午前の遅い時間だった。

 告別式へ向かうまでにはまだ少し間があって、家の中ではその“少し”を埋めるように誰もが小さく動いていた。茶碗を洗う音、上着を探す声、電話の短い受け答え。今すぐ自分の手が必要なわけでもなさそうだったので、俺は「ちょっと外」とだけ言って玄関を出た。


 戸を開けた瞬間、冷たい空気が顔に触れた。


 昨日と同じようで、少し違う冷たさだった。

 風の芯はまだ冬のままだが、昨日ほど白いものは混じっていない。雪はやんだらしい。それでも空は明るい灰色で、陽が差しているとは言い難かった。


 玄関前の小さな空きに立って、俺は一度だけ息を吸った。


 海は見えない。

 見えないのに、どちらにあるかは分かる。


 風の向き、道の開け方、家と家の隙間の先にある空の明るさ。そういうものが、海の位置をなんとなく教えてくる。昨日ここへ来たばかりのはずなのに、もうそのくらいは身体が覚え始めていた。


 家の前の細い道を少しだけ歩いて、昨日真帆と通ったほうへ曲がる。

 住宅地の中の道は静かだった。遠くで車の音はしているが、この通りそのものは、誰かが庭先へ出ているでもなく、洗濯物が揺れているでもなく、妙に整って見えた。寒さのせいかもしれない。人が外へ出る気になりにくい朝なのだろう。


 少し広い道へ出ると、昨日よりも車の流れがよく見えた。

 地元の人間なら何でもないはずの道路の向きや、交差点の信号の並びが、知らない町にいるとやけにはっきり目につく。


 こっちが南か。


 頭の中でそう確認する。

 昨日、真帆が「まっすぐ行けば植田」と言っていたほうだ。植田。もっと下れば勿来。そこまで行けば、もう茨城が近い。そう考えると、知らない町の中に一本だけ知っている流れが通る感じがした。


 俺は道の先を目で追った。


 植田方面。

 旧六号。

 南へ抜ける流れ。


 言葉だけなら昨日から聞いている。だが、一晩経って改めて町の外気の中でそれを思い浮かべると、頭の中の地図が少しだけ濃くなる。住宅地の細い道は覚えきれなくても、大きい流れは分かる。旧六号に出れば、少なくとも南へは向かえる。その感覚だけでも、知らない町では十分ありがたかった。


 人は、知らない場所にいると帰る方向を確かめたくなる。


 帰りたいから、というより、今いる場所をちゃんと理解しておきたいからだ。どちらへ行けば自分の知っている土地へ近づくのか、それだけ分かっていれば少し落ち着く。


 俺は電柱の影をまたぎながら、通り沿いを少しだけ歩いた。

 信号の向こうに、コンビニの看板が見える。昨日真帆と行った店だ。あの角をさらにまっすぐ行けば、たぶんもう少し大きな道へつながる。そこから先は植田のほう。さらに下れば勿来。勿来の先は北茨城だ。


 北茨城。


 その地名まで頭の中へ来ると、地図は急に自分のものに近づく。

 泉町の細かい道はまだ借りものだが、北茨城の名前が出てくるあたりからは、俺の知っている道になる。


 関南町。

 父方の祖父母の家。

 北茨城高校の近くの高台。


 何度も行った場所だ。

 正確な住所を今すぐ言えと言われたら少し考えるかもしれないが、車で行けばどの辺で海の気配が薄くなり、どの辺から道が少し上がるかは分かる。祖父母の家の周りは低い土地ではない。海の見える町ではあっても、海がすぐそこへ迫ってくる感じの場所ではない。


 だから、あそこまでなら自分で行ける。


 そんなことを、この時点で別に強く思っていたわけではない。

 ただの地理の知識として、自然にそう思えるだけだ。行こうと思えば行ける場所。泉町よりも、ずっと輪郭のはっきりした土地。そういう意味で、関南の祖父母の家は頭の中に確かにあった。


 道の端に立って、もう一度南を見る。


 風は冷たい。

 けれど昨日より少し乾いている。雪の気配が薄くなったぶん、道や家の形は見やすい。海は相変わらず見えないが、こっちへ行けば植田、もっと行けば勿来、という流れだけは、昨日よりずっと身体に入りやすかった。


「また道見てんの?」


 後ろから声がして、俺は少し肩を揺らした。


 振り返ると、真帆が家のほうからこちらへ歩いてきていた。上着を引っかけただけの格好で、手には何も持っていない。単に様子を見に来ただけらしい。


「なんとなく」

 俺が言うと、真帆は俺の隣まで来て同じ方向を見た。

「迷子になるタイプ?」

「逆」

「逆?」

「迷いたくないタイプ」

「ああ」


 真帆は少し笑った。


「分かるような、分かんないような」

「知らない町だとさ、どっちが南かとか、どこ出れば大きい道かとか、ちょっと気になるんだよ」

「へえ」

「別に今すぐ行くわけじゃないけど」

「でも見ちゃうんだ」

「そう」

「変なの」

「昨日も言ったな、それ」

「だって変だもん」


 真帆はそう言いながら、俺が見ていた道の先へ目を細めた。


「そっち、植田のほうだよ」

「うん」

「で、もっと下れば勿来」

「うん」

「ほんとに頭入ってんだね」

「茨城側の地名出てくると、急に分かりやすくなる」

「北茨城の人だもんね」

「鹿嶋だけど」

「でも関南の祖父ちゃん家、よく行くんでしょ」

「まあ」

「じゃあやっぱり北茨城寄りは分かんだ」


 俺は頷いた。


「関南の祖父ちゃん家、北高の近くだし」

「うん」

「あのへんなら高いから分かりやすいんだよ」

「そっか」

「海の町ではあるけど、泉町みたいな感じとはちょっと違うし」

「まあね。こっちはもうちょっと海近い感じある」

「ある」


 その「ある」が、妙にしっくりきた。


 海は見えない。

 それでも、この町には海の近さがある。

 風の冷たさの質もそうだし、道の伸び方にもどこか「海沿いへ続く町」の感じがある。昨日はそれを匂いで覚えた。今日は、道の向きで覚えつつある。


 真帆は少しだけ伸びをして、それから言った。


「心配しなくても、今日終わったらちゃんと帰れっから」

「別に心配してるわけじゃ」

「道見てる顔が、ちょっとしてる」

「そんな顔してる?」

「してる」


 言われて、自分でも少しそうかもしれないと思った。


 大きな不安ではない。

 けれど、知らない町にいる以上、頭のどこかで「帰る方向」だけは確かめていたいのだろう。帰る方向が分かっていれば、自分の生活の延長線上にまだつながっている気がする。


「まあでも、南は分かるから」

 俺が言うと、真帆は「それならいいじゃん」と軽く返した。

「南さえ分かれば、恒一くんどうにかなりそうだし」

「なんだその雑な信頼」

「雑だけど、わりと合ってるっしょ」

「どうだろ」

「少なくとも私より地図見てるよ」

「見てるかも」

「ほら」


 その会話で、少しだけ胸のあたりが楽になる。


 知らない町への軽い不安はある。

 でも、茨城へつながる道には少し安心できる。

 それが今の自分の正確なところなのだと思った。


 俺はもう一度、通りの向こうを見た。

 植田。

 勿来。

 旧六号。

 南。

 その先の北茨城。

 関南町。

 北高の近くの祖父母の家。


 その流れを頭の中でなぞることは、今はまだただの地理の確認にすぎない。

 だが、そういう確認を無意識にしてしまうこと自体が、見知らぬ町にいる人間の身体の動きなのだろう。


「そろそろ戻ろ」

 真帆が言った。

「また寒くなってきた」

「うん」


 家へ戻る途中、俺はもう一度だけ通りの向きを目で追った。

 どっちが南か。

 どこへ出れば流れが太くなるか。

 そのことばかり考えている自分に、少しだけ変な感じがした。


 それでも、変だと思いながら確認してしまう。


 知らない町にいるからこそ、人は帰る方向を確かめてしまうのだ。

 そして、その“帰る方向”だけは、まだ自分の中にちゃんとあるのだと思うと、ほんの少しだけ安心できた。

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