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君のいない春に、海は近すぎた  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️
第三章 揺れの翌日

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第9話 3月10日の朝

 朝は、何事もなかったみたいな顔で来た。


 最初にそう思ったのは、目を開けた瞬間だった。


 見慣れない天井が、昨夜より少し白く見える。障子越しの光はまだ弱く、晴れているのか曇っているのかもよく分からない。ただ、夜ではないということだけが、天井の明るさで分かった。布団の中は自分の家より少し乾いていて、綿の匂いも、枕の高さも、全部が少しだけ違う。違うのに、身体のほうはもう半分それに慣れかけていて、その中途半端さがよけいに落ち着かなかった。


 しばらく、ぼんやりしたまま仰向けでいた。


 家鳴りがひとつ、遠くで鳴る。

 そのあと、台所のほうから何かを置く音がした。鍋の蓋か、茶碗か、湯呑みか。音だけでは分からないけれど、朝の家の音だということだけは分かる。誰かがもう起きていて、火を使っていて、朝の準備をしている。


 俺はそこでようやく、自分が泉町の母方親族の家に泊まっていることを思い出した。


 昨日の通夜。

 真帆との新盆とハワイアンズの話。

 夜の余震。

 母と伯父が鹿嶋へ戻っていったこと。


 そこまで思い出してから、布団の中にいる自分の位置が少しだけはっきりした。

 自宅ではない家の朝。

 そして、今日は本当に母も伯父もいない朝だ。


 布団を抜け出すと、足の裏に畳の冷たさがじかに伝わった。昨日の夜ほどではないが、まだ空気は冷えている。着替えた上着を羽織り、居間から廊下へ出る。知らない家の朝は、夜より少しだけ歩きやすい。暗くないだけで、人は場所を借りもののままでも受け入れやすくなるらしい。


 洗面所で顔を洗う。

 蛇口の水は思ったより冷たかった。手のひらが一瞬で覚めるような冷たさで、眠気がきれいに引いた。鏡の中の自分は、昨日より少しだけ疲れて見える。大したことはしていないはずなのに、見知らぬ家に泊まるだけで顔には出るものなのかもしれない。


 居間へ戻ると、テレビがついていた。


 音量は大きくない。けれど、静かな家の朝にはそれでも十分だった。アナウンサーが落ち着いた声で地震情報を読んでいる。画面の端にはテロップが流れ、震度だの、震源地だの、津波だのという文字が淡々と出ては消えていく。


 昨日の揺れは、ちゃんとテレビの向こうでも続いていたのだ。


 それなのに、家の中は普通に朝を始めている。


 台所では味噌汁の匂いが立ち、焼き魚の皮が少し焦げる匂いが混じり、誰かが茶碗を並べている。居間の隅には昨夜片づけきれなかった湯呑みがまだ少し残っていて、菓子皿の上のままどおるは一つだけ包装が開いたままになっていた。テレビの中では地震の話をしているのに、そのすぐ横で朝食の湯気が上がっている。


 その落差に、俺は少しだけ妙な気分になった。


「起きた?」


 台所から顔を出したのは真帆だった。髪を適当に後ろでまとめただけの姿で、昨日の通夜のときとはまるで違う。家の人間の朝の顔だ。


「うん」

「ちゃんと眠れた?」

「まあまあ」

「何それ」

「見知らぬ家って感じだった」

「それはそうだよね」


 真帆はそう言って笑い、すぐにまた台所へ引っ込んだ。

 その笑い方に、昨日より少しだけ生活の側の空気が混じっている。


 居間の卓の前に座ると、年長の親類の女性が湯呑みを置いてくれた。


「よぐ眠れたかい」

「はい、まあ」

「地震あっても朝は来るもんだない」


 その言葉に、俺は少しだけ黙った。


 地震があっても朝は来る。

 たしかにそうだ。

 間違っていない。

 でも、そのまっすぐさが少しだけ胸に引っかかった。


 昨日の揺れは、まだ身体のどこかに残っている。

 大きな恐怖というほどではない。ただ、足の裏とか、腹の底とか、そういう自分でもうまく説明できないところに、薄い違和感みたいなものが居座っている。なのに朝は、それを待たずに普通に来てしまう。


 そのことが少し不思議だった。


 味噌汁が運ばれてくる。

 ご飯茶碗が置かれる。

 焼き魚、小鉢の漬物、昨夜の残りらしい煮物。

 朝の食卓としては、たぶんきちんとしている。弔事の家だからこそ、こういうところを崩さないのかもしれない。


 俺は茶碗を手に取りながら、はっきりと実感した。


 母はもういない。

 伯父もいない。

 本当に、自分だけがここに残っている。


 昨日のうちに何度も聞いていたことなのに、朝になるとそれは別の形で胸へ落ちてくる。夜のあいだは、見知らぬ家に泊まっている違和感のほうが先にあった。けれど朝になると、それがはっきり「自分だけ残った」という事実になる。


 知らない土地に一人きり、というほど大げさではない。

 親類がいる。真帆もいる。

 でも、自分を当然のように迎え入れてくれる側の大人が、もうこの家にはいないのだと思うと、朝の明るさの中でそのことだけが少しはっきりした。


「ご飯、足りなかったら言ってね」

 真帆の母親が言う。

「遠慮しなくていいんだから」

「はい」

「男の子は食べるべ」

「またそれ」

 真帆が呆れたように言う。

「雑なくくり」

「でも実際そうだっぺ」

「恒一くん、別にそんながっつく感じしないじゃん」

「しないだけで食うかもしんないべ」

「どういう意味」


 そんな会話が普通に交わされる。

 テレビの地震情報はまだ続いている。

 それでも食卓は止まらない。


 俺は味噌汁を口にした。

 熱さが舌に触れて、少しだけ身体の内側へ落ちた。出汁の匂い、味噌の塩気、湯気。そういうものは、ニュースの重さとは別のところで人を朝へ戻すのだろう。


 人はニュースが重くても、朝を普通に始めてしまう。


 いや、始めてしまうのではなく、始めるしかないのかもしれなかった。誰かが食べなければ皿は減らないし、洗い物は残るし、次の予定も来る。今日は告別式がある。集まる人がいて、出る車があって、時間を見て動かなければならない。


 そうやって日常の動きが前へ進んでいることが、かえって不自然に思える瞬間がある。


 食べながら、俺はテレビのテロップをちらりと見た。

 震度。余震。津波注意報。解除。そんな文字が、食卓の湯気の向こうで淡々と流れている。


「やっぱ最近多いない」

 年長の親類が、魚の身をほぐしながら言った。

「このへんも前より揺れる気すっぺ」

「そうだねえ」

「でもまあ、昨日のは昨日だもの」

「今日まで引きずってもしょうがねえしな」


 そのやりとりもまた、正しい気がした。

 引きずってもしょうがない。

 たしかにそうだ。

 けれど、しょうがないと分かっていても、身体のほうは少しだけ引きずる。コップを持つ手の奥とか、天井を見上げたときの首筋とか、そういうところに昨日の揺れはまだ残っている。


 それでも、誰もそれを大ごとにはしない。

 それでいて、完全に忘れた顔をしているわけでもない。


 その中途半端な感じが、かえって現実だった。


 食事が進み、茶碗の中身が減り、誰かが立ち上がって流しへ向かう。真帆は食べ終えるのが早く、もう自分の茶碗を持って台所へ行っていた。戻ってきたとき、俺の茶碗を見て言う。


「食べるの遅い」

「普通だろ」

「うちの朝が早いだけか」

「それはある」


 そのやりとりに、少しだけ救われる。

 こういう何でもない会話ができる朝なら、まだ日常は壊れていないのだと思える。


 だが同時に、昨日の揺れも確かにそこにあった。

 テレビの中にも、身体の奥にも、薄く残っている。


 朝食を食べ終え、湯呑みを持ち上げる。

 茶の温度が少しぬるくなっていて、ちょうどいいと思った。


 告別式が終われば、帰るだけだ。


 その見通しを、俺はまだ疑っていなかった。

 今日一日をやり過ごして、夕方か夜には鹿嶋へ戻る。昨日までの少し変わった二日間が終わって、またいつもの自分の生活へ戻る。そういうふうに、朝の時点ではまだ素直に思えていた。


 それくらい、3月10日の朝は普通だった。


 普通だからこそ、少しだけ不自然で。

 不自然なのに、ちゃんと味噌汁はうまくて、魚は焼けていて、茶碗は空になっていく。


 俺はその朝を、あとから何度も思い返すことになる。

 前日の揺れが完全には消えていなかったのに、家も町も、そして自分自身も、普通に朝を迎えてしまった最後の朝として。

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