第一話 名前を呼ばれたあと
東日本大震災から、一週間が過ぎていた。
けれど、家の中に流れている時間は、まだどこにも着いていなかった。
テレビは朝から晩まで、同じようでいて少しずつ違う被災地の映像を映し続けていた。海水に呑まれた町、骨組みだけになった家、泥の残る教室、壁に貼られた行方不明者の紙、体育館の床に並べられた毛布。画面の右上にはいつも同じような地名が並んでいて、そのどれもが、もう以前と同じ意味の土地ではないように見えた。
音を消しても、映像だけで十分だった。
むしろ音がないほうが、あの黒い水の動きだけが際立って、余計に息苦しかった。
居間の隅には、震災の夜から出しっぱなしになっている懐中電灯が立てかけてあった。電池の予備や乾パンの袋や、ペットボトルの水も、なんとなく片づけることができないままテーブルの下に残っている。もう電気は来ているし、水道も使える。コンビニにも少しずつ物が戻り始めている。なのに家の中だけは、まだ「元通り」に戻るきっかけを失ったみたいに、中途半端な非常時の格好を引きずっていた。
母は台所に立っていた。
包丁の音はしているが、いつもの夕方よりずっと小さい。父は新聞を広げているふりをして、ほとんど同じ行を何度も目でなぞっているようだった。紙面の半分以上が震災と原発の記事で埋まっているのだから、読み返しているというより、ただ手の中に何か持っていたいだけなのかもしれなかった。
俺はこたつの脇に座って、膝を抱えるような格好でテレビを見ていた。
見たいわけじゃない。
だが、目を逸らす理由も見つからなかった。
石巻、気仙沼、南三陸、女川。
ニュースキャスターが読む地名は、この一週間で急に遠くて近いものになった。遠いのに、耳の奥に引っ掛かる。知らない土地のはずなのに、そこに自分の何かが置き去りにされているような感じがする。
石巻。
その名前が出るたび、俺は無意識に画面へ目を向けてしまう。
宮城県石巻市。
伊達華怜が住んでいた町。
――住んでいた、なんて、そのときの俺はまだ思っていなかった。
正確には、思わないようにしていた。
又従姉。年は少し上。親戚の集まりで何度か会っただけなのに、俺にとっては妙に特別な人だった。華怜姉ちゃん、と子どもの頃は呼んでいた気がする。中学生になってからは、さすがに口には出せなくなって、心の中でだけそう呼んだ。
一週間、連絡が取れていなかった。
向こうも混乱しているのだろう。
電話なんてつながらないのが普通だ。
避難所にいるのかもしれない。
携帯の電池が切れているだけかもしれない。
石巻はひどいとニュースで言っているが、だからといって全員が死ぬわけじゃない。
そういう言葉を、自分の中で何度も並べていた。
慰めというより、考えることを先延ばしにするための言葉だった。
本当に心配なら、もっと誰かに聞けばよかったのかもしれない。
母に、華怜さんのところはどうなってるの、と。
親戚の誰かに、連絡ついたの、と。
けれど、それを口にした瞬間、返事が現実になってしまう気がして、俺はずっと聞けずにいた。
テレビの映像が切り替わる。
泥に覆われた道路。横倒しになった軽トラック。冷たい色の空。
レポーターが何かを言っている。けれど頭に入ってこない。
画面の下に流れるテロップだけを、目が勝手に追う。
避難生活、安否確認、遺体安置所、行方不明者――
その単語のどれもが、まだ自分とは薄い膜一枚隔てられた向こう側にあるようだった。
台所から、味噌の匂いがした。
だけど腹は減っていなかった。
この一週間、食べたかどうかもよく覚えていない。食べろと言われれば食べたし、寝ろと言われれば横になった。学校は休みになったり再開の見通しがつかなかったりして、曜日の感覚も曖昧だった。夜、布団に入ると、暗い天井の向こうでまだ地面が揺れているような気がした。トラックが家の前を通るだけで、心臓が嫌なふうに跳ねた。
あの日、泉町で聞いた警報音が、いまだに耳の奥に残っている。
あの耳障りな、聞いたことのない音。
ポケットの中でけたたましく鳴って、画面に地震速報の文字が出て、外へ出ろと身体を押し出した、あの数秒。
助かった、と思ったことはない。
ただ、死ななかった、と思うだけだった。
俺は膝の上で指を組み直した。爪の間に、もうとっくに落ちているはずの泥の感触が残っている気がした。
そのとき、家の電話が鳴った。
今どき珍しい、古い呼び出し音だった。
携帯とは違う、家の空気そのものを震わせるような音だ。
母が包丁を置く気配がした。
父が新聞から顔を上げる。
「もしもし、桐谷です」
母の声は、いつもより少しだけ高かった。
俺は最初、特に気にしなかった。震災以来、親戚や知り合いからの電話は何度もあったし、そのたびに誰かの安否や、物資や、交通のことが話題になっていたからだ。
テレビの画面では、瓦礫の中からアルバムの写真を拾い上げる手が映っていた。泥に汚れた笑顔が一瞬だけ映って、すぐ次の映像に切り替わる。
母は相づちを打ちながら、だんだん言葉少なになっていった。
「ええ……ええ……そう……」
「はい……」
「……そうですか」
その声音に、何かが混じり始めた。
俺は顔を上げた。
母は立ったまま、受話器を持つ手とは逆の手で、食卓の椅子の背を握っていた。指先だけに力が入っているのが、少し離れた場所からでも分かった。
父も新聞を畳んでいた。
紙の擦れる音が、妙に大きく聞こえた。
母が小さく息を吸う。
そして、受話器に向かってではなく、どこへ向けるでもなく、かすれた声で言った。
「……はい、分かりました」
そこで一度、家の中が静まり返った。
テレビの映像だけが動いている。
道路の泥、水に濡れた畳、避難所の体育館。
けれど音は全部、薄いガラスの向こうの出来事みたいに遠かった。
受話器を置いたあと、母はすぐにはこちらを見なかった。
まるで、振り向いてしまうと何かが決まってしまうみたいに。
「……どうした」
先に口を開いたのは父だった。
母は一度だけ唇を噛んで、それから俺のほうを見た。
その目を見た瞬間、心臓のあたりが冷たく縮んだ。
嫌な予感、という言葉では間に合わない。
もっと古くて、もっと原始的な、身体が先に察する種類のものだった。
「……石巻の、連絡が来て」
石巻。
その地名が、急に居間の中へ入ってきた。
テレビの向こうの名前じゃなく、家の中に置かれた名前になる。
俺は何も言わなかった。
言えなかった。
母の次の言葉を、俺の身体のどこかが待ち構えていた。
「華怜ちゃんが……」
そこで一瞬、母の声が止まった。
止まったというより、言葉がその先へ行きたがらないように聞こえた。
そして、やっと続いた一言が、
「見つかったって」
だった。
俺は、その瞬間だけ、息をした。
助かった。
そう思った。考えたというより、そう決めてしまった。
見つかった。
だったら、生きていたんだ。避難所かどこかにいたんだ。連絡がつかなかっただけで、きっと無事だったんだ。一週間もかかったけど、今からでも――
「……え」
自分で自分の声が分からなかった。
かすれて、薄くて、知らないやつの声みたいだった。
「よかった……」
そこまで言いかけて、母が首を振った。
ほんの少しだけ。
でも、その動きで十分だった。
俺の中で、さっきまで一気に立ち上がりかけた希望が、形を変える前に止まった。
母は続けようとして、続けられなかった。
目を伏せ、また開いて、それでもうまく言葉が出てこないらしい。
「……その」
「……身元が」
「確認、されたって」
確認。
その語だけが、やけにはっきり聞こえた。
確認。確認された。身元が。
何の。
「……え?」
今度はもう少し大きく聞き返した。
聞き返したはずなのに、喉の奥が固まって、ちゃんと音になっていなかったかもしれない。
「今、なんて」
母は答えない。
答えられないのかもしれなかった。
父が立ち上がりかけて、それからまた座った。
新聞の端が、握り潰されたみたいに少しだけ歪んでいる。
テレビでは、避難所の名簿が映っていた。
そこに並んでいる名前の列が、急に不気味なものに見えた。
「……遺体で、って」
母が言ったのか。
父が言ったのか。
あるいは、誰もそんなふうにはっきり言っていなかったのかもしれない。
ただ、意味だけがそこに落ちた。
見つかった、という言葉の中身が、そこでようやくひっくり返った。
助かったんじゃない。
避難所にいたんじゃない。
これから連絡がつくんじゃない。
今度、会えるんじゃない。
石巻で。
津波で。
華怜は。
「……あ」
言葉にならない声が漏れた。
テレビの中の海が、また画面いっぱいに映った。
黒い水が、車を、家を、人の暮らしを、何もかも押し流していく映像。
この一週間ずっと見ていたはずのそれが、初めてただの映像ではなくなった。
あの水のどこかに、華怜がいたのだ。
その事実が、遅れて、遅れて、遅れて、ようやく胸の真ん中に落ちてきた。
「……うそだろ」
誰に言ったのか分からなかった。
母は泣いていなかった。父も黙っていた。
家の中は静かなままで、その静けさが逆に残酷だった。
「うそだろ……」
もう一度言ったところで、言葉は何も変えなかった。
膝の力が抜けた。
立っていたわけでもないのに、身体の支え方が分からなくなって、俺はこたつの脇に手をついた。指先に畳の感触がある。硬いのか柔らかいのかも分からない。ただ、そこに触れていないと、自分がどこかへ落ちてしまいそうだった。
呼吸の仕方が分からない。
胸の真ん中だけが熱くて、喉の奥は冷えていた。
華怜。
名前を頭の中で呼んだ瞬間、駄目だった。
親戚の一人の名前としてじゃない。
石巻の行方不明者の一人としてじゃない。
テレビの中の誰かとしてじゃない。
幼い頃、親戚の集まりで笑っていた横顔。
名前を呼ばれたときの、少しだけ低い声。
俺が子どものくせに妙に緊張して、ろくに話せなかったあの感じ。
そういう断片が、一斉に胸の奥から浮かび上がってきた。
ああ、俺は、あの人のことが好きだったんだ。
そんなことを、一週間後の今さらみたいに思い知る。
好きだった、じゃ足りない。
たぶんずっと、どこかで特別だった。
でも一度も言っていない。言えるわけがないと思っていたし、言わなくてもいつかまた会えると思っていた。
会えると思っていた。
その当たり前が、もうどこにもない。
涙は、最初から大きく出たわけじゃなかった。
ただ視界が急に歪んで、テレビの光が滲んで、それから鼻の奥が痛くなって、次の瞬間には頬が濡れていた。
そこで初めて、自分が泣いているのだと分かった。
止めようとしたつもりはなかった。
止まる種類のものでもなかった。
肩がうまく息に追いつかなくなって、喉が潰れたみたいな音が出た。
情けないほど子どもっぽい泣き方だった。
母が何か言って、父が立ち上がって、でも二人ともすぐには俺に触れなかった。
その距離がありがたかったのか、余計につらかったのか、自分でも分からない。
ただ、華怜の名前だけが何度も何度も頭の中で響いた。
華怜。
華怜姉ちゃん。
華怜。
もう返事の来ない名前になってしまった。
テレビでは、避難所の外でインタビューを受ける人が口元を押さえていた。
俺の家の居間でも、似たような泣き方をしている人間が一人いる。
同じ震災のはずなのに、ずっと向こう側だったものが、その瞬間、俺の膝の上まで来ていた。
いや、違う。
向こうから来たんじゃない。
華怜の名前を聞いたとき、あの日の揺れがもう一度、俺の中で始まったのだ。
泉町で聞いた警報音。
立っていられなかった駐車場。
裂けたアスファルト。
旧六号を南へ歩いた足の痛み。
関南町の祖父の家の暗い居間。
ラジオの声。
眠れなかった夜。
その全部の上に、石巻の海が重なった。
助かった。
死ななかった。
それだけでは、もう済まない。
俺が生きている一週間のあいだに、華怜は「見つかった」。
その事実を、どうやって受け止めればいいのか、俺には分からなかった。
ただ泣いて、息を継ぐたび胸が痛くて、畳に落ちる涙の形だけが妙にはっきり見えた。
その日、東日本大震災は初めて、俺ひとりの傷になった。




