ボイス
※今回は最終エピソード+あとがきの更新です。
***ボイス***
ネットゲームで知り合った知人、「あるぱか」さんの体験談だ。
あるぱかさんは、家庭環境の変化や学校でのトラブルを理由に、小学校高学年から不登校になっていた。
中学生になっても一度も登校せず、同級生は高校受験を見据える時期に差し掛かっている。
彼女にも「このままではいけない」という意識はあり、ゆくゆくは外へ出るための訓練をしようと考えた。
まず、人との会話が皆無だったため、話すことに慣れよう。
当時のあるぱかさんは、普段はインターネットで人付き合いをしていた。
文字でのやりとりはできたし、学校に行ってないぶん、そちらで人とのコミュニケーションや常識を学んでいた。
だが、声に出したことばでのやりとりは未経験だった。
通話アプリも使える環境だったが、リアルタイムでの会話は怖い。
そこで目をつけたのが、音声投稿のできるコミュニティサイトだ。
台本やセリフ、歌などの声を録音してアップロードし、それに対して別のユーザーがコメントや評価をつけるというものだ。
ほかにもボイスチャット機能を使ったラジオや、サイトが声劇を企画してオーディションをするなど、歌手や声優を志す利用者の鍛錬の場にもなっていた。
あるぱかさんはまず、ほかの利用者の作成したお題から日常的な会話をチョイスして録音してみることにした。
引きこもりとはいえ買い物くらいには外出している。そのさいに会話が発生するため、まったく声が出せないわけではない。
ただし、こちらから目的をもって誰かに話しかけるということはできない。
いざ何かをしゃべろうとしてパソコンに向き合っても、何をしゃべったらいいか迷い、声の出し方さえも分からなくなってしまう。
誰かがお題を用意してくれているというのは、とても有難いものだった。
ところが、録音環境の問題が浮上した。
あるぱかさんには自室があったが、家族の生活音や暴れている音が頻繁に貫通して聞こえてくるのだ。
それだけならまだしも、自分が誰かと会話していると知られると、家族が踏みこんでくる可能性があった。
今ならば防音ブースは手軽に買える。お金があまり自由にならなくても、防音パネルを組み合わせれば安価に代用品が作れるだろう。
あるぱかさんは仕方なく、布団を被って録音することにした。
さいわい、パソコンはノートタイプで、ちゃぶ台に置いて運用している。
機材は千円ちょっとのスタンドマイク。
ゲームでできた友達が贈ってくれたものだ。
安価で軽量なのが幸いしてか、家族に壁に叩きつけられてもまだ動いた。
なんどか録音を試し、誤読や活舌の問題がないことを確認する。
投稿ボタンにマウスカーソルを合わせ、高鳴る胸を押さえてクリック。
自分でも再生してみて、おかしくないかなんども確認する。
自分の声が誰でも聞ける状態になったのだと実感すると、なんだかすごくいけないことをしているような気がしてきた。
ほぼあり得ない話だが、家族がこれを見つけて部屋に踏みこんでくるのではないか、家族がコメントをつけるのではないかという恐怖が沸きあがった。
――やっぱりやめよう。
いちどだけコメントがついていないか確認して、それで終わりにしよう。
「初投稿お疲れ様です! ハスキーで素敵な声ですね!」
思いのほか早くについたコメントは肯定的だった。
ゲームのこと以外で褒められたのは何年ぶりだろうか。
読んだのは誰かの出したお題だったが、これは自分の肉声だ。
もう少しやってみよう。
あるぱかさんの挑戦が始まった。
次に投稿したのは、自己紹介文だった。
自分が不登校であること、話す訓練をしたいのだということを語った。
投稿してからほかのユーザーの自己紹介を聞いてみると、声優や歌い手志望、演じることが好きだと語っていて、あるぱかさんからは輝いて見えた。
自分なんかがやってもいいものだろうかと、少し気後れをした。
それでも、十件近いコメントがついた。応援してくれる内容のものが多い。
「いいね」に関しては百件近くも集まってしまった。
壁打ちくらいの気持ちでやったため、これは想定外だった。
大したことはしていないはずなのに、それだけで一日のエネルギーの大半を使い切ってしまった。
それでも、彼女は一日にひとつのセリフを読み続けた。
二週間が経過したころ、あるぱかさんは次の段階へと進むことにした。
一般的な定型のセリフ、出されたお題に対して自分で考えたセリフ、それからちょっとふざけて効果音のマネなんかも試してきた。
次は、誰かとの掛け合いをやってみたい。
だが、他人に声を使われたり、不特定多数とやりとりをするのは避けたい。
固定の相方が欲しいところだった。
あるぱかさんは、ネット上では友人がそれなりにいた。
老若男女、どれもゲームで知り合った友人だ。
だが、かれらには頼らない気でいた。
ちゃんと話せるようになってから友人たちとボイスチャットをつなぎ、そしてゲームをしたいと考えていた。
音声投稿サイトのBBS(電子掲示板)を使って募集することに決めた。
あるぱかさんは先に自分が演じれそうな台本をいくつかチョイスし、それに類する単発のセリフをあらかじめいくつか投稿した。
それからやっと募集用の音声を投稿した。この作業に一週間費やした。
下準備が済んだら、募集要項をまとめて投稿する。
自分があまり体力のないことや、話下手であること、演じられる内容が広くないこと、相手は同性がいいことなどを盛りこんでいく。
読み返すと、ずいぶんとわがままで予防線だらけだと思ったが、そのときのあるぱかさんにはこれが精いっぱいだった。
翌日、あるぱかさんは返信を見て目を疑った。
十件以上の立候補があった。
あるぱかさんは、かれらの自身を売りこむ熱量に圧倒された。
それでも、自分で言い出したことだ。
ひとりひとりプロフィールや投稿ボイスをチェックしていくことにする。
ところが、あるぱかさんは女性がいいと指定したつもりだったのに、募集に集まったのはほとんどが男性だった。
しかも、頼みもしていないのにボイトレを手伝うとか、演技指導もしますとか、チャットアプリのIDを交換しようとかの申し出がいやに多かった。
中には、熱量の割には投稿ボイス数が少ない不審者までいた。
あるぱかさんからしてみると、かれらの行為は「直結厨」や「出会い厨」を彷彿とさせた。
ここでの「直結」とは、「生身で直接会うこと」を目的としたり、「性的な、下半身直結の思考をしている」という意味合いになる。
ネットでゲームをやっていると、そういう男性によく遭遇した。
少し遊んで親しくなると、すぐに通話アプリで会話をしたがった。
住んでいる場所が近いと、「会おう」と言われた。
最初のうちは友達ができたと喜んでいたのだが、それを別の友人に話すと大慌てで止められ、真相を教えられた。
親切なゲーム仲間からのアドバイスを受け、一人称を「ぼく」にすることで、ある程度はその手の虫を遠ざけることができていた。
本当は「俺」のほうがいいのだが、それはあまりにも自分と乖離して違和感があったための「ぼく」だった。
しかし、肉声を公開するこのサイトでは、自身の性別を偽ることは難しい。
中には、肉体の性とは違う声を操る利用者もいたが、それは演技や特技の範疇のことであり、別問題だ。
あるぱかさんにとって恋愛や性愛は、いまいちぴんと来ない。
だが、そろりそろりと踏み出そうとしている自分に対して、ずかずかと距離を詰めようとするその姿勢は苦手だ。
そもそも、こちらの自己紹介ボイスをチェックしていないか、したうえでこんなことをする人たちは、NGどころの話ではない。
「私もやってみたいです」
ぎらぎらとした意欲の中に埋もれかけた、ひとことだけのコメントを見つけた。
彼女のユーザー名は「ひな」。
性別は女性。
無防備にも生年月日もオープンにされていて、自分と同い年だと分かる。
それから、サイトの会員登録日が自分よりも少し後だ。
投稿数も同じくらいだったが、ボイスの評価に関してはまったく振るわないようで、コメントもいいねもゼロのものばかりだ。
だが、声を聞くぶんには少し舌足らずなくらいで、悪くないように思える。
何かのキャラクターや声優のように聞こえるかと言われればノーで、まったく素人くさいが、会話の練習相手という観点から見ればむしろ都合がいい。
加えて、ファンや直結厨がくっついていないところもプラスだ。
自分より下……といっては悪いが、このほうが気負いしなくて済む。
あるぱかさんは、ひなさんを掛け合いの相手に決めた。
けっきょく、セリフ合わせや台本選びの円滑なコミュニケーションのために、ふたりは通話機能の付いたチャットアプリでやり取りをするようになった。
やりとりを初めて、あるぱかさんはすぐに気が付いた。
彼女もたぶん、学校に行っていない。
平日の午前中からチャットアプリにログインしているのが証拠だ。
それがあるぱかさんにとって、何か害になるわけではない。
だが、ひなさんのほうが気に病んだのか、すぐに事情を話された。
小学校のころに酷いいじめを受けて、それ以来ずっと学校へ行けていない。
勉強は自宅でなんとかやっているが、高校進学は難しそうだ。
将来は声を使った仕事をやってみたい。みたい……無理かも、だけど。
呼応するように、あるぱかさんも自身の事情を話した。
ふたりには大きな共通点があったが、相違点もあった。
ひなさんの不登校は家族に理解されていそうな点だ。
それから、家族が私物を壊したり取り上げたり、暴力を振るったりしないこと。
あるぱかさんは私物をなるべく持たないようにしている。
かつて、祖母がくれた日本人形を部屋に飾っていたのだが、家族が突然入ってきてガラスケースを砕き、ハサミで髪や着物をめちゃくちゃに切り裂いてしまったからだ。
それ以来、物に対する執着心を捨てるようにしている。
服を切られても、教科書を捨てられても、ただ流すようにしていた。
あるぱかさんは、ひなさんを強く応援したい気持ちと、「ずるいな」という感情をいだいた。
誰かを羨ましいと思ったのは久しぶりだった。
だが、ふたりの境遇は似ている。
ひなさんのほうもあるぱかさんに懐き、彼女のために家族の非道に怒ってもくれた。とうぜん、ふたりの距離は縮まった。
この長いやり取りは、すべて文字によるチャットのみでおこなわれた。
音声を投稿する目的で集まったふたりだったが、「通話をしよう」とはどちらからも言い出すことはなかった。
「目標、ランキングに載ること」
ひなさんは大風呂敷を広げていた。
新しく人気のある録音はランキングに載ると、サイトの目立つところに録音へのリンクを掲載してもらえる。
だが、プロ並みを含む数百の新規投稿の中から上位を獲るのは容易ではない。
しょうじき、あるぱかさんは目立ちたいとは思わなかったが、自分たちがコントロールできる領域の話ではないし、まじめにやることは変わらないため、特に反対はしなかった。
こうしてふたりのボイス収録が始まった。
ところが、そうそうに問題が発生してしまう。
録音した音声を再生すると、一部が音飛びをしたり、ノイズが酷かったりしてろくに聞けない状態になっていた。
「これは取り直しやなあ」
「え、どうして?」
「だって、がびがびになってるし」
話がかみ合わない。どうも、ひなさん側には発生していない不具合らしい。
セリフの合わせは、片方が収録してから、そのボイスに重ねて追加する形で収録する方式をとっていた。
だが、ひなさんに先に収録してもらうと、どうしても音がおかしくなるようだった。
通常は最初にセリフを話すほうが先に録音するべきだったが、仕方なくあるぱかさんが先に録音することにした。
「すごい! ドラマCDみたい!」
完成した音声を聞いたひなさんが大喜びをする。
だが、あるぱかさんが聞くと、どうしてもひなさんの声がおかしくなる。
ひなさんに押し切られてそのまま投稿すると、どうやらほかの利用者には普通に聞こえているらしく、ちゃんとコメントがついた。
「あるぱかさん、すごいね。めっちゃ褒められてる」
コメントには名指しで彼女の声質を褒める者が多かった。
収録内容全体を褒める声もあったが、ひなさんを名指したものはない。
あるぱかさんは選んだ題材の問題だろうと思った。
題材は「かまってちゃんな彼女と、ぶっきらぼうな彼氏」というシチュエーションで、あるぱかさんが彼女役、ひなさんが彼氏役だった。
台本を持ってこられたとき、てっきり反対の配役だと思っていたのだが、ひなさんが彼女役のセリフの多さに日和って、こうなってしまったのだ。
最初の投稿はもうひとつ伸び悩んだものの、ひなさんはやる気を出したらしく、さっそく次の台本を探し始めた。
反してあるぱかさんは、録音が正常に聞こえないことを言えずにいて、いたたまれない気持ちになった。
この時点で、あるぱかさんは掛け合い収録はあまり会話の練習にならないことに気が付いていた。
せっかくふたりともマイクがあるし、こっちの家の状況にさえ気をつければ通話ができるはずだ。
ゲーム仲間とは別の友人だから練習相手としてもいい。
それに何より、普段チャットで話しているような内容を声に出して話したい。
ひなさんの話を聞きたい。ひなさんに、ぼくの話を聞いてもらいたい。
だが、そう言いだす勇気はなかった。
ゲームに誘ってみたことはあったが、それも断られてしまっていた。
何本か掛け合いを投稿していくうちに、いいねやコメントの数が増え始めた。
数字の伸びやコメントの内容に一喜一憂するひなさん。
反して、相変わらずひなさんの声が聞こえないあるぱかさんは、なんだか騙しているような気がして、どんどんと申し訳なくなっていった。
いつもコメントで褒められるのは自分のほうなのも気まずく、いつの間にか一人での投稿はしなくなっていた。
なんとなくだが、このまま続けていると、彼女を傷つけるような気がしていた。
ひなさんは小学校時代のいじめで「居ないもの」として扱われた。
いま投稿している掛け合いでも、ひなさんの声に触れる者はいない。
ひなさんは個人でもせっせとセリフや効果音を投稿しているが、そちらもほとんど聞かれている様子はなかった。
そちらの録音は聞くことができたが、掛け合いだけがどうしても聞こえない。
あるぱかさんはこの状態が苦しくなっていた。
ひなさんとのやりとりを放置して、別の友人とゲームに興じることも増えた。
このすれ違った関係は、すぐに終焉を迎えることとなった。
「見て見て見て見て見て見て!」
ひなさんからURLが送られてきた。
クリックすると投稿サイトのランキングページが表示され、一番下にふたりで録った掛け合いが載っていた。
――すごい!
あるぱかさんは素直に驚いた。
醒めていたはずのところに強い喜びの感情が湧いて、そのことにも驚いた。
ふたりはテンションをMAXにし、次はどんな台本でやろうかと盛り上がる。
盛り上がった拍子に、
「ねえ、通話していい?」
ひなさんのほうから声が掛かった。
あるぱかさんは天にも昇る気持ちだった。
だが、すぐに消沈してしまう。
隣の部屋から壁を殴る音が聞こえていたからだ。
事情を話し、自宅の状況が落ち着いてから、夜に通話しようと約束を交わした。
家族に投げ寄こされた夕食を腹に入れ、お風呂ではなんとなく念入りに髪と身体を洗い、約束の時間までに済ませることをぜんぶ済ませておく。
普段なら、この長く伸ばし放題の髪を乾かすのも煩わしく思う。
美容院に行ければいいのだが、予約の電話や美容師との会話という高いハードルがある。
ノートパソコンの前で正座をしていると、背後で扉が開いた。
侵入者は脱ぎっぱなしの服を蹴飛ばし、万年床を蹴飛ばし、あるぱかさんの背中を力いっぱいに踏みつけた。
息ができなくなりながらも、なんとかパソコンは守らねばと、ちゃぶ台に覆いかぶさる。
多少のものは近所に暮らす祖母にせがめば買ってもらえるが、パソコンだけはそうはいかない。
引きはがそうとする腕があるぱかさんの胸を押しつぶし、乱暴に探り、何かを引き抜いた。
「ごちゃごちゃやかましいわ!
パソコンでくっちゃべる余裕があるんやったら、学校にでも行ってこいや!」
スタンドマイクを奪われた。
あるぱかさんはマイクで何度も殴打され、ケーブルで首を絞められ、ちゃぶ台から引きはがされる。パソコンが。
「やめろ!」
こんなに大きな声を出したのは久しぶりだった。
相手は反抗されるとは思っていなかったのか、舌打ちをしてマイクを布団に叩きつけると退室していった。
マイクの本体は無事だったが、ケーブルが根元からちぎれてしまっていた。
時間きっかりに、ひなさんが通話を掛けてきた。
あるぱかさんは通話を許可する。
「あるぱかさん初めまして……は、ヘンかな?」
セリフ収録とは違った、緊張した声だ。
あるぱかさんはキーボードを叩き、事の次第を伝える。
「……そっか、それは残念」
あるぱかさんは「そのまま続けてもらっていい?」と打つ。
願いは了承され、音声と文字でのやりとりが始まる。
ヘッドフォンやイヤフォンを使わず、あえて大きな音量でひなさんの声を流す。
そしてあるぱかさんは文字を打ちこみながらも、それを読み上げるようにして声に出して話した。
また襲撃があるかもしれなかったが、そんなことは構わなかった。
収録する時のように、はっきりと、大きな声で話すのだ。
たとえ、ネットの向こうの彼女に届かなくとも、話すのだ。
もしもし、聞こえてますか?
うん、聞こえてる。
ランキングに載ったね。私、声の仕事ができるようになるかな?
でも、あるぱかさんのほうがいい声だからなー。
ランキングに載ったのは、ぼくたちふたりの力だよ。
ぼくは、やりたいことなんてないからなあ。ひなさんが羨ましいよ。
私も、あるぱかさんの声が羨ましいな。
でも正直、あなたよりは恵まれてるから、わがままだね。
わがままなんてないよ、きっと声の仕事ができる。
ぼくも、頑張るから。
……。
締め切ったカーテンの隙間から、日差しが入りこんでいた。
あるぱかさんは寝落ちしてしまったと慌てて起き上がり、パソコンを見た。
「えっ」
チャットアプリのメンバー一覧から、ひなさんの名前が消えている。
愛想をつかされてブロックされたのかと思ったが、ブロックでは名前は消えず、ただログイン状況が分からなくなるだけのはずだ。
アカウントまで消してしまったのか?
そんなに傷つけるようなことをしてしまったのだろうか?
あるぱかさんは、ひなさんを求めて音声投稿サイトへと飛んだ。
こちらでも声を上げて驚くようなことがあった。
ひなさんのアカウントが見つからないのだ。
それどころか、ふたりで収録したはずの掛け合いボイスが、初めからあるぱかさんひとりで収録したかのように変わっていた。
再生してみると、自分の声だけが聞こえ、ひなさんのパートは無音になっている。あの不可解なノイズや音飛びすら、きれいさっぱりになくなっている。
めまいがした。
同時に、キーボードに乗せた指がぬるりと滑った。
血だ。
血と大量の髪の毛が指に絡んでいる。
やにわに、身体が痛み始める。
背中や肩に鈍痛。別の種類の鋭い痛みも差した。腕に切り傷がある。
周囲を見回すと、乱れた布団の上に無数の小さな血痕と、たくさんの髪の毛が散らばっていた。
頭に触れると、髪がぐちゃぐちゃになっている。
パジャマも大きく裂かれ、立ち上がると切られた下着が垂れた。
そうだ。
あるぱかさんは思い出す。
あれで終わりではなかったのだ。
あるぱかさんは、ひなさんとチャットしてなどいない。
襲撃者は退室した後、ハサミを手に舞い戻ってきたのだ。
ノートパソコンだけは視界に入らないように隠したが、代わりにあるぱかさん自身がずたぼろにされたのだった。
ため息は出るが涙は出ない。最後に泣いたのはずっと前だ。
――そんなことより、ひなさんは?
あるぱかさんは彼女の痕跡を探したが、ついに見つけられなかった。
ひなさんは初めから居なかったのだろうか?
それとも、居なくなっただけなのだろうか?
分からなかった。
何も、残らなかったのだろうか?
あるぱかさんは洗面所に行くと血を洗い落とし、着替え、めちゃくちゃにされた髪を手櫛で整えた。
それから部屋へと戻り、祖母に持たされていた携帯電話を手にした。
「もしもし、美容室の予約をしたいんですけど」
ちゃんと、話せた。
それから数年後、音声投稿サイトが閉鎖したとき、あるぱかさんはひなさんを呼んで泣いたそうだ。
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