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昔のインターネットのコワイ話  作者: 鳥遠かめ
「都」の章

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砕波

***砕波***


 この話は二〇一一年の三月から数ヶ月間のことである。

 この時期の出来事をつらいと感じる方は、読み飛ばしていただきたい。



 職場や学校、その付き合いも浅く、インターネットくらいしか よすが がない。

 世の中にはそういった人間もいる。

 わたしがその典型で、ゲームやチャット仲間との関係に頼りきっていた。

 すがるのと同時に、相手の反応やゲーム内での立ち位置にこころを砕き、コミュニケートによって起きる、押しては返す波に転がされる日々だ。

 もはや、生きるための労働を除くと、すべての時間をそこに注いでいた。


 わたしは昼から夜遅くにかけての勤務だったため、午前中のログインが多かった。

 早朝にも活動する者は多く、付き合いは長く深くなり、そこにいるのが当たり前となっていた。


 男どもを転がす主婦たち。

 登校前にやってくる学生。

 入れ替わりに眠りにつくネトゲ廃人。

 メインの活動は夜だが、寂しさから挨拶だけはしたがるニート。


 コミュニティの参加者たちは住んでいる地域に偏りがあった。

 関東が多いのは日本の人口比的に必然だったが、わたしと同じ関西勢は少なく、岩手や宮城、茨城といった太平洋側に住む者が多かった。


 海に近い町の話をよく聞かされた。

 子供との散歩コースに入る海岸。

 防風林と潮のまじった香り。

 顔見知りになった魚屋の大将からおまけをしてもらったホヤ。


 わたしの暮らす地からでは、潮騒を耳にするには移動に二時間近くを要する。

 ホヤなんて珍味として名を知るだけで、スーパーに並ぶ魚もほとんどが解凍品だ。

 同じ日本で同じゲームをしながら、どこか違う世界の話のようだった。


 学生も田舎のさだめか中学校が遠く、毎日自転車で一時間以上かけて登校しているという。

 高校受験までまだ一年あるというのに、朝のチャットを片手間に眺めつつ、早めの受験勉強に勤しんでいた。

 彼は大学生になったら上京して独り暮らしだと目標を持ち、都会暮らしのメンツの話に希望をもって耳を傾けていた。


 わたしなどとは違い、光のある暮らしだと思った。


 もちろん、私生活をいっさい口にしたがらない廃人や、自身の不幸は世間のせいであるゆえに慰めろと言ってはばからないニートなど、闇の住人もいた。


 光と影のまじりあうこの場所は揺蕩うに心地よく、自身の停滞した人生にとっては時間の浪費だという事実からは、わたしは目を背け続けた。


 あまりにも心血を注ぎすぎたためか、かれらのことを夢に見るようになっていた。

 見えるのはかれらの顔やキャラクターではなく、ゲーム画面とチャット欄の文字だ。

 顔など知らないので当然だろう。ボイスチャットも界隈ではそこまで普及していなかった。

 わたしは親しい人のログインを待ちつつ、常に何かに謝らなければならないという焦燥感に駆られている。

 待ちながら、海底に引きずりこまれるような、夢の中でさらに睡魔に襲われるような感覚にさいなまれ、誰かが現れたら安心して、すべてが消えていく。


 そんな夢をよく見ていた。


 運命の日の二日前。

 この頃はまだ、前震型というパターンが一般に浸透していなかった。

 津波が発生したのにも関わらず、現地に近いかれらはたいして気に留めていないようだった。


 いっぽうでわたしは、得体の知れない不安感に苛まれていた。

 予知? 虫の知らせ? そんな上等なものではない。

 ただ単に病み切ったメンタリティに自然災害という絶対的な圧が加わり、気がヘンになっていただけだ。

 その不安を表明しなければならないという強迫観念はあったものの、訳の分からないことを言って引かれたくないという気持ちが勝っていた。


 二〇一一年三月十一日、十四時四十六分。

 わたしはバイト先へ向かう少し前だった。

 たかだが震度三。仮眠の最中で、めまいか揺れかの判断がつかなかった。


 今なら速報もナシに、揺れの感覚だけで震源までの距離や震度をおおよそ当てられるだろうが、当時はパソコンでもケータイでも、緊急地震速報の運用は浸透していなかった。


 出勤直前にテレビをつけると、ニュースがやっていた。

 揺れはしたものの、まだそれ以上の情報のないタイミングだった。


 わたしはスーパーマーケットの店員だ。

 店に行くと、従業員が揺れたか揺れなかったという話で盛り上がっていた。

 客も平常運転だ。

 ここから七年後の大阪の地震では、客が押し寄せパニック状態だった。

 震源との距離のこともあるが、ひとびとの認識に大きな違いがある。

 だが発生から数日後には、不安からの食糧確保と関東の知人へ届けるための購入で、飲料水や保存の利く食品はすべて棚から消え去った。


 夜になり、被害情報が伝わり始めた。


 副店長が、閉店作業のために残っている従業員に対して事の重大さを伝え、被災地への安否確認を勧めた。

 なんの情報も得ていなかったわたしたちは、ぽかんとしていた。


 帰宅しニュースを見て、マズいことになっているとようやく理解する。

 わたしは慌ててゲームにログインした。

 金曜の夜だというのに、プレイヤーの数が少ないように思えた。

 普段はパソコンを立ち上げっぱなしで固定で露店を出しているプレイヤーの何人かがいなくなっていた。そのまま戻らなかった者もいる。


 ゲーム内の掲示板では、掲示板のタイトルを使って地震に関することや、何かの祈りのようなものが貼りだされていたと記憶している。


 運営も後日、異例の保証をおこない、課金関係やハウジングシステムの期間延長などの対策をとった。


 東北組は誰もログインしていなかった。

 もともと夜間は来ない朝組が多かったため、それが被災のためかどうか判断がつきにくかった。

 SNSによって安否確認ができた者は数名。

 この頃はSNSはまだ若者かオタクのツールで、ネットゲームに入り浸るような人間でもやっていない者が少なくなかった。


 チャット欄は心配一色で塗りつぶされていた。

 空気感に堪えられず、しばらくログインしないと告げる者もいた。

 いつも通りか、あるいは不安をかき消すためか、ゲームプレイに打ちこむ者の姿もあった。


 一日二日と経過すると、事態はどんどんと悪くなっていった。

 多くの遺体が流れ着き、町が丸ごと消えたことが分かり、海が燃え、原発事故によるパニックが広がった。誘発か連動か、震源地から離れた地でも大きな地震がいくつも起こった。

 今やオールドメディアと揶揄される新聞やテレビのニュースは、重要な情報源だったが、コメンテーターや専門家が多くのデマやあてずっぽうをばらまいていた。多くのバラエティ番組やCMも自粛され、あえて電源を切る者も少なくなかった。

 当時はまだ最盛期のうちだった大型掲示板では、不幸を数えて喜ぶ者と何事につけても不謹慎だと騒ぐ者が罵りあっていた。

 わたしもまたそれに参加し、ゲームや寝食の合間にF5キーを連打して、怒涛のように押し寄せる情報におのれを曝し続けていた。


 喉もと過ぎれば……いや、まだ過ぎてもいないうちに、一部のゲーム仲間の態度が変わり始めていた。

 ニートの男は初日こそは心配顔だったが、親しい者の安否確認が済んだためか、「日本が終わるぞ、世界が終わるぞ」と言って喜び始めた。

 彼は普段はだらしなくも、人と人の筋に関してはしっかりしていたはずの人間だった。彼はわたしを名指しで「一緒に終末を楽しもう、滅びるのを望んでるんだろう?」といった意味のことをオープンに語りかけた。

 わたしが懇意にしていた女性プレイヤーも避難民になっていたが、ある親しい男性プレイヤーは「弱ってるときがチャンスだ」などと囁きかけた。


 異常だと感じた。これは震災の威力による狂乱なのだろうか。

 彼らの本性なのだろうか。

 なんにせよ、責めることはできなかった。

 地震という災害の性質上、距離という防壁がありわたしは安全地帯にいた。

 震源から離れたところでも道路が割れ、海に遺体や瓦礫が流れ着き、放射性物質が漂うとされていたが、それすら無縁だった。

 同じ世界、国にいるはずなのに、決定的に違った。

 誰かのネガティブを拒む権利はなかった。

 実際に、安全地帯に住んでいることを咎められもした。

 それでもわたしは、かれらから離れられなかった。


 震災から一週間だったか、二週間だったか。

 ある朝組の女性プレイヤーが早くも避難所から帰還した。

 彼女の家は一階が浸水したものの、自身と近しい家族は無事だった。


「身元確認に行ってきます」


 彼女は以降、毎日のようにログインし、わたしにそう告げた。

 離席などでグループチャットでわたしが反応ができなかったときは、個別チャットにログを残してまでそうした。

 震災以前のように遊び話すのだが、時間になると必ずそうした。


 わたしはそれを聞くことは義務で、何かの償いなのだと自身に課していた。


 身元確認のスパンはじょじょに延びていったが、彼女の友人や遠戚がすべて見つかるまで続けられた。

 わたしが「お疲れ様」と声を掛けたのは、三ヶ月後くらいのことだったと思う。


 ニートの男は、被災者がいる場面では心配と励ましを口にし、いない場面ではわたしに破滅を願う仲間であることを求めた。

 わたし自身、震災など関係なしに自分の人生に絶望していたのは事実だったし、他者の不幸が自分を相対的にマシに見せる錯覚を拒絶しきっていたわけでもなかった。だが、決して賛同することはできなかった。


 闇ばかりでもなかった。

 ある女性プレイヤーが仙台の病院で新たないのちを産んだ。

 もっとも、思い出せる明るい話題なんて、そのくらいしかないが。


 被災者や破滅願望者、そんなかれらでも触れなかったことがある。

 居なくなった者のことだ。

 音信不通だった者の中には、よく話していた者もいた。

 かれらのことは初めから居なかったように、触れられることがなかった。

 海の見える道を自転車で走り登校していた彼は、どうなっただろうか。


 わたしは彼に頼まれて作成していた装備品を倉庫に眠らせていた。

 ときおりそれを見返しては、祈った。


 こういった日々が、かれらを俯瞰することが、おのれの中の歪みのようなものを矯正していくのを感じた。

 時が経つにつれ、いわれなき罪の意識が薄らぎ始め、わたしはまともだという気がしてきた。

 夢も見なくなっていた。

 距離をなくすはずのインターネットの世界だったが、現実の突きつけた距離こそがわたしの依存を緩解させつつあったのだ。

 かれらのことを知るほどに、知らぬ領域の広さを実感する。相対的に下がる親密感をよそに、わたしはそれまで通りを装った。


 だが、緩解の先にあるのは完治ではなく、寛解に過ぎなかった。

 喉もと過ぎればというのはわたしも例外ではなく、寄りかかる相手やコミュニティは移ろったものの、ゲームを引退することはできなかった。

 依存は打ち寄せては引く波のように、少しづつ弱くなりながら繰り返された。


 今はもはや、ログインのためのアカウントIDやパスワードも思い出せないが、また何かのきっかけで波が押し寄せる日が来るかもしれない。

 その時のわたしは、かれらのうちのどの立場になるだろうか。


 遊び仲間にしろ話し相手にしろ、つながりを増やすことが怖くなった。

 SNSが広まり切ってからも変わらなかった。

 それでも一人で埋没することの恐ろしさとまずさは知り尽くしているから、消えることもできない。


 わたしは今日もインターネットと現実の狭間で、砕波のもたらす変化を怯えつつも求めて揺蕩っている。


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