第七話「引かれた線と痛む胸」
ヒリス・イーノンは、空気が変わったことに気づいていた。
気づいてはいたが、それが「何か」をはっきり言葉にできずにいた。
(……最近、静かだよな)
アリスティアのことだ。
以前は注意も指示も、もっと直接的だった。
冷たいくらいにまっすぐで、遠慮がなかった。
……それが今は、どこか壁がある。
「……委員長」
放課後、資材置き場で声をかける。
「この箱、どこ置く?」
「……奥です」
短い返事。
視線は、こちらを見ない。
(……やっぱ、変だ)
ヒリスは箱を運びながら考える。
(俺、何かしたか?)
思い当たる節はない。
ふざけすぎた覚えも、約束を破った覚えもない。
(……ミレナと話してたから?)
その可能性が浮かび、すぐに首を振る。
(いや、それじゃまるで委員長が——)
「ヒリス」
突然、名前を呼ばれ思考が途切れる。
「これ、数が合いません」
アリスティアが帳簿を指している。
「あ、ほんとだ」
「昨日、あなたが確認した分です」
責める口調ではない。
だが、事実を淡々と突きつける声音。
「……ごめん」
「次からは、二人で確認しましょう」
「うん」
それだけ。
だが、ヒリスの胸には小さな棘が残った。
(……信頼、なくした?)
◇ ◇ ◇
その日の帰り道。
夕焼けに染まる道を、一人で歩く。
家に帰れば、いつも通りの騒がしさが待っている。
それは、嫌いではない。
けれど——
(……なんで、こんなに考えてるんだ)
自分でも、不思議だった。
アリスティアの表情。
声の温度。
そして、距離。
(俺、委員長のこと……)
そこまで考えて、慌てて思考を止める。
(いやいや)
自分が誰かに特別な感情を向けるなんて、そんな余裕は今までなかった。
長男で。
貧乏で。
やることが、常に山ほどあって。
(……でも)
あの人と話す時間は、なぜか「忙しさ」を忘れられた。
……それが、今はない。
胸の奥が、じわりと痛む。
◆ ◆ ◆
翌日の昼休み。
ヒリスは、ミレナと並んで歩いていた。
「委員長、最近忙しそうだね」
「……うん」
どこか上の空で、曖昧な返事。
「大丈夫かな」
ミレナは、ちらりと彼を見る。
「ヒリスくん、心配?」
「……まあ」
正直だった。
「仲、いいもんね」
その言葉に、ヒリスは即座に否定できなかった。
「係として、だけどさ」
ミレナはそう付け足して、少しだけ微笑んだ。
その言葉に、ヒリスは違和感を覚える。
(……違う)
反射的にそう思った。
だが何が違うのかは、まだわからない。
◇ ◇ ◇
放課後。
ヒリスは展示棟の片隅で、アリスティアが一人で作業しているのを見つけた。
「……手伝うよ」
努めて平静を装い、声をかける。
「……今は、一人で大丈夫です」
即答。
断固とした拒絶ではない。
だが、線を引かれた感覚。
「……そっか」
ヒリスは無理に笑った。
「じゃ、別のとこやってくる」
背を向けて歩き出す。
しかし——
数歩進んだところで、足が止まった。
(……このままで、いいのか)
振り返る。
だが、アリスティアはすでに作業に戻っていた。
……声をかける理由を見つけられない。
ヒリスは結局何も言わず、その場を離れた。
◇ ◇ ◇
その夜。
家で弟妹が寝静まった後、ヒリスは一人天井を見つめていた。
(……嫌だな)
引かれた線。理由のわからない距離。
(委員長が、遠い)
その事実が、こんなにも胸を重くするなんて。
(……俺)
そこで、ようやく気づく。
(ああ、これ)
名前をつけるのが、少しだけ怖い感情。
だが、確かにそこにある。
(……気になってるんだ。委員長のこと)
結論を出すには、まだ早い。
けれど。
ヒリス・イーノンは、初めて自分から距離を縮めたいと、そう強く思っていた。
◇ ◇ ◇
一方。
同時刻、アリスティアの家では、家族揃って夕飯を囲んでいた。
夕飯の内容は、豪奢ではないが決して質素ではない。
過不足ない、栄養バランスが取れた完璧な食事。
この家に漂う雰囲気のような、厳かなものだった。
「アリスティア」
食事もそこそこに、父が口を開いた。
「最近、ガラの悪い少年と一緒に下校しているそうじゃないか」
ドクンと、アリスティアの心臓が波打った。
「まさか、恋人じゃないだろうね」
責めるような口調ではない。
これは、ただの確認だ。
……否定をするという前提の。
「……ただの、同じ係の方です」
「そうか。それならばいい」
それだけ言って、父は食事を再開する。
母はその会話を黙って聞いていた。
何も間違えてなどいない。
嘘だって吐いていない。
……けれど、自分で吐いた否定の言葉が、なぜかアリスティアの心を重くしていた。




