表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/15

第六話「些細な出来事と見えない溝」

 それは、ほんの些細な出来事だった。


 誰かが意図していたのか、

 それとも、ただの行き違いだったのか。

 後から振り返っても、はっきりとはしない。


◆ ◆ ◆


 昼休み。


 アリスティアは職員室へ資料を届けた後、教室へと向かっていた。

 廊下の曲がり角で、聞き覚えのある声がする。


「ヒリスくんってさ」


 ミレナの声だった。


 立ち止まるつもりはなかった。

 だが、聞こえた名前に足が自然と止まってしまった。


「ほんと、誰にでも優しいよね」


 別の女子生徒が笑う。


「わかる。勘違いしちゃう人、多そう」

「委員長とか、大丈夫かな」


 ……よくあるただの軽口。

 悪意があるかどうかも、判然としない。


「ん〜、でも、委員長は正しい人だから」


 ミレナの声は、柔らかい。


「きっとそういうの気にしないよ」


 その言葉が、なぜか、深く胸に刺さった。


(……正しい人)


 アリスティアは、何も言わずにその場を離れた。

 ……足取りは、いつもより少し重い。


(気にする必要は……ありません。私は、係の仕事をしているだけです)


 そう、自分に言い聞かせた。


◇ ◇ ◇


 放課後。

 準備係の作業中。


「この配置、少しずらします」

「了解」


 ヒリスは素直に頷く。

 だが、その声が今日は少し遠く感じられた。


(……距離がある)


 そう思った瞬間、自分がそれを気にしていることに気づき、戸惑う。


「……ヒリス」

「ん?」

「……いえ」


 呼び止めて、言葉を失う。


(何を、言うつもりだったのですか)


 自分でも、わからない。


 ヒリスは不思議そうに首をかしげたが、何も言わなかった。

 その沈黙が、かえってアリスティアの胸を締め付ける。


◆ ◆ ◆


 数日後。

 学院祭の準備が本格化し、放課後に残る生徒も増えていた。


「あれ、委員長にヒリスくん。まだいたの?」


 鞄を取りに来たというミレナの明るい声が、静かな教室に響いた。

 そしてちらりと、二人の作業を見た後、


「ねえ委員長。仕事もう終わりそうなら一緒に帰らない?」


 そう声をかけた。


「……申し訳ありません。今日は、もう少しだけまだ作業が」

「そっか。でも、もう少しなんだよね?」

「……? はい」

「じゃあさ、ごめんなんだけどヒリスくん借りてもいい?」


 無邪気さを孕んだ声音。


「え? あ、俺?」


 ヒリスが戸惑ったようにアリスティアを見る。


 ——一瞬。

 ほんの一瞬だけ、アリスティアは言葉を探した。


(……駄目です)


 そう言う理由は、どこにもない。


「……構いません」


 その答えは、正しかった。

 正しくて、だからこそ、胸が痛んだ。


「俺いなくて平気なの?」

「……問題ありません。残りの作業は私一人で十分です」

「……そっか」

「ありがと、委員長」


 ヒリスとミレナが並んで歩いていく。

 二人の声が、遠ざかる。


 アリスティアは、資料を前にして手が止まっていた。


(……なぜ)


 なぜ、こんなにも――落ち着かないのか。


◇ ◇ ◇


 その夜。

 自室で、アリスティアは固有魔法を使った。

 思考は、静かに棚へと収められていく。


 作業計画。

 時間配分。

 優先順位。


 だが――やはり、自分の感情の棚だけが整理できない。


(……嫉妬)


 その言葉を、彼女はまだ使えなかった。


(違う。これは、ただの……)


 ただの、何なのか。

 ……答えは出ない。


 布団に入っても、眠れない。


 ヒリスの笑顔。

 ミレナの声。

 「正しい人」という言葉。


 胸の奥に刺さったままの小さな棘が、抜けなかった。


◆ ◆ ◆


 翌日。


 アリスティアは、少しだけ無理をしていた。

 いつもより早く来て、いつもより多くの仕事をする。


 額に浮かんだ汗も手早く拭い、まるで、余計なことは何も考えるなと自分に言い聞かせるように。


 ヒリスは、それを見ていた。


(……無理してる)


 だが、どう声をかければいいかわからない。

 以前のような距離感では、踏み込みすぎてしまう気がしたから。


 結果、二人の間にまた一つ、見えない溝が生まれる。

 小さく、だが、確実に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ