第六話「些細な出来事と見えない溝」
それは、ほんの些細な出来事だった。
誰かが意図していたのか、
それとも、ただの行き違いだったのか。
後から振り返っても、はっきりとはしない。
◆ ◆ ◆
昼休み。
アリスティアは職員室へ資料を届けた後、教室へと向かっていた。
廊下の曲がり角で、聞き覚えのある声がする。
「ヒリスくんってさ」
ミレナの声だった。
立ち止まるつもりはなかった。
だが、聞こえた名前に足が自然と止まってしまった。
「ほんと、誰にでも優しいよね」
別の女子生徒が笑う。
「わかる。勘違いしちゃう人、多そう」
「委員長とか、大丈夫かな」
……よくあるただの軽口。
悪意があるかどうかも、判然としない。
「ん〜、でも、委員長は正しい人だから」
ミレナの声は、柔らかい。
「きっとそういうの気にしないよ」
その言葉が、なぜか、深く胸に刺さった。
(……正しい人)
アリスティアは、何も言わずにその場を離れた。
……足取りは、いつもより少し重い。
(気にする必要は……ありません。私は、係の仕事をしているだけです)
そう、自分に言い聞かせた。
◇ ◇ ◇
放課後。
準備係の作業中。
「この配置、少しずらします」
「了解」
ヒリスは素直に頷く。
だが、その声が今日は少し遠く感じられた。
(……距離がある)
そう思った瞬間、自分がそれを気にしていることに気づき、戸惑う。
「……ヒリス」
「ん?」
「……いえ」
呼び止めて、言葉を失う。
(何を、言うつもりだったのですか)
自分でも、わからない。
ヒリスは不思議そうに首をかしげたが、何も言わなかった。
その沈黙が、かえってアリスティアの胸を締め付ける。
◆ ◆ ◆
数日後。
学院祭の準備が本格化し、放課後に残る生徒も増えていた。
「あれ、委員長にヒリスくん。まだいたの?」
鞄を取りに来たというミレナの明るい声が、静かな教室に響いた。
そしてちらりと、二人の作業を見た後、
「ねえ委員長。仕事もう終わりそうなら一緒に帰らない?」
そう声をかけた。
「……申し訳ありません。今日は、もう少しだけまだ作業が」
「そっか。でも、もう少しなんだよね?」
「……? はい」
「じゃあさ、ごめんなんだけどヒリスくん借りてもいい?」
無邪気さを孕んだ声音。
「え? あ、俺?」
ヒリスが戸惑ったようにアリスティアを見る。
——一瞬。
ほんの一瞬だけ、アリスティアは言葉を探した。
(……駄目です)
そう言う理由は、どこにもない。
「……構いません」
その答えは、正しかった。
正しくて、だからこそ、胸が痛んだ。
「俺いなくて平気なの?」
「……問題ありません。残りの作業は私一人で十分です」
「……そっか」
「ありがと、委員長」
ヒリスとミレナが並んで歩いていく。
二人の声が、遠ざかる。
アリスティアは、資料を前にして手が止まっていた。
(……なぜ)
なぜ、こんなにも――落ち着かないのか。
◇ ◇ ◇
その夜。
自室で、アリスティアは固有魔法を使った。
思考は、静かに棚へと収められていく。
作業計画。
時間配分。
優先順位。
だが――やはり、自分の感情の棚だけが整理できない。
(……嫉妬)
その言葉を、彼女はまだ使えなかった。
(違う。これは、ただの……)
ただの、何なのか。
……答えは出ない。
布団に入っても、眠れない。
ヒリスの笑顔。
ミレナの声。
「正しい人」という言葉。
胸の奥に刺さったままの小さな棘が、抜けなかった。
◆ ◆ ◆
翌日。
アリスティアは、少しだけ無理をしていた。
いつもより早く来て、いつもより多くの仕事をする。
額に浮かんだ汗も手早く拭い、まるで、余計なことは何も考えるなと自分に言い聞かせるように。
ヒリスは、それを見ていた。
(……無理してる)
だが、どう声をかければいいかわからない。
以前のような距離感では、踏み込みすぎてしまう気がしたから。
結果、二人の間にまた一つ、見えない溝が生まれる。
小さく、だが、確実に。




