第十二話「解ける心と確かな選択」
放課後の学院は、昼間よりも静かだった。
廊下を抜ける微風の音と、遠くで誰かが使った種火魔法のかすかな匂い。
ヒリスは展示棟の前で立ち止まっていた。
(……ちゃんと見る、か)
ミレナの言葉が、頭の中で反響している。
「ちゃんと見て」
それは、「気づけ」という意味ではない。
なぜならもう、とっくに気づいているから。
(……向き合え、ってことだよな)
逃げる理由なら、いくらでもある。
忙しい。
今じゃない。
係の仕事に集中すべきだ。
だが——
それらはすべて、「傷つくのが怖い」という本音を隠すための言葉だった。
ヒリスは、展示棟の扉を押し開ける。
中には——一人だけ人影があった。
アリスティア・ウィグサム。
資料を抱え、机の上で何かを書き込んでいる。
その背中は、驚くほど小さく見えた。
「……委員長」
声が、少しだけ震える。
アリスティアはぴくりと肩を揺らし、振り返った。
「……何でしょうか」
距離は、まだ遠い。
だが、逃げられるほどではない。
「話したい」
ヒリスは、はっきり言った。
「業務の話じゃなく」
沈黙。
アリスティアは、しばらく彼を見つめていた。
その視線にあるのは、警戒と、迷いと、ほんのわずかな期待。
「……私も、話したいことが」
「……そっか」
二人は、展示棟の端にあるベンチに腰を下ろした。
微妙な距離。
触れないが、離れすぎてもいない。
「……この前は」
ヒリスが、先に口を開いた。
「俺の言い方、悪かった」
アリスティアは、視線を落とす。
「……私も」
「いや」
ヒリスは首を振った。
「俺が、勝手に期待したから」
その言葉に、アリスティアの指がきゅっと握られる。
「……期待は」
彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「悪いことでは、ありませんでした。それを、私は……」
言葉を、探す。
固有魔法は、使わない。
「……怖かったのです」
アリスティアは、正直に言った。
「誰かに、特別な感情を向けてしまうことが……それで、関係が壊れることが」
ヒリスは黙って聞いている。
「でも」
彼女は、顔を上げた。
「もう、壊れました」
恐れていたことのはずだった。
たが、その言葉は不思議と落ち着いていた。
「だから……」
一度、深く息を吸う。
「逃げる理由は、なくなりました」
ヒリスの胸が、強く打たれる。
「……委員長」
「——アリスティア」
彼女は、はっきりと訂正した。
「今は、名前で呼んでください」
ヒリスは少し驚いたあと、ゆっくりと笑った。
「……アリスティア」
その呼び方が、彼女の胸に静かに落ちる。
「俺さ」
ヒリスは、視線を前に向けたまま言った。
「自分が特別だって、思ったことなかった。誰かの一番になるとか、考えたことなかった」
でも、と続ける。
「アリスティアと一緒にいると」
喉が、少し詰まる。
「一番になりたいって思った。誰でもなく、アリスティアの」
……沈黙。
アリスティアは、その言葉を逃がさないように受け止める。
「……私も」
声が、かすれる。
「あなたを、特別だと……」
言葉が、止まる。
けれど、ヒリスは待った。
逃げずに。急かさずに。
「……思っていました」
小さな声。
だが、確かな答えだった。
風が、二人の間を通り抜ける。
「……じゃあ」
ヒリスは、ゆっくりと彼女を見る。
「もう一回、やり直さない?」
「……何を」
「全部」
「……全部……」
アリスティアは、少し考えた。
正しさ。役割。期待。
それらを一度、横に置いて。
「……条件があります」
「なに?」
「逃げないこと」
即答。
そしてそれは、自分にも言い聞かせているかのようで。
「約束する」
「……言葉ではなく」
彼女は、真っ直ぐに彼を見つめる。
「行動で」
ヒリスは、力強く頷いた。
「やる」
その一言は、彼女の胸を確かに温めた。
◇ ◇ ◇
その日から。
二人は少しずつ、以前とは違う距離で準備を進め始めた。
会話は、まだぎこちない。
だが、目はよく合った。
触れない距離の中に、確かな「選択」が生まれていた。
——学院祭までは、あと五日。




