第十話「変わらない世界と静かな決意」
翌日。
フロートゼ魔法学院は、何事もなかったかのように朝を迎えた。
微風は廊下を抜け、種火はランプを灯し、生徒たちは笑い、騒ぎ、授業を受ける。
――世界は、変わらない。
変わったのは、たった二人の距離だけだった。
◇ ◇ ◇
アリスティアは、いつもより早く登校した。
教室は、まだ静かだ。
椅子に座り、机の上にノートを置く。
(……冷静でいなければ)
昨日のことは、「業務上の衝突」だと整理する。
感情的になったのは、双方の未熟さによるもの。
(……そう、結論づけるべきです)
だが。
ペンを持つ手が、わずかに震えた。
(……なぜ)
なぜ、あの言葉を選んでしまったのか。
「期待する方が、間違っている」
それは、言い聞かせるように自分に向けた言葉。
(私は……何を期待していたのですか)
答えを出すのが、怖かった。
◇ ◇ ◇
一方。
ヒリスは、家を出る直前まで迷っていた。
(……休もうかな)
そんな考えが浮かぶのは初めてだった。
だが、弟妹の顔を見るとそんな弱音は引っ込む。
「兄ちゃん、どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
無理に笑って、鞄を背負う。
(俺が休んだら……)
家の空気が、少し重くなる。
それだけは、避けたかった。
その日は初めて、学院までの道のりが長く感じられた。
◆ ◆ ◆
教室。
ヒリスが入ると、数人がこちらを見る。
「お、ヒリス」
「昨日、委員長と……」
クラスメイトの言葉は途中で止まった。
空気を、察したのだ。
ヒリスは、軽く手を振って席に着く。
(……噂、早いな)
だが、どうでもよかった。
視線は前方の席に向かう。
アリスティアはこちらを見なかった。
(……それでいい)
そう思おうとする。
◇ ◇ ◇
授業中。
黒板の文字は、頭に入ってこない。
ヒリスは、自分でも驚くほど集中できていなかった。
(……なんで、あんな言い方したんだ)
責めるべきは自分だったのかもしれない。
(でも)
胸の奥が、ずきりと痛む。
(……あれは、きつい)
「期待する方が、間違っているのです」
その言葉を、どうしても忘れられない。
◇ ◇ ◇
昼休み。
アリスティアは一人で資料整理をしていた。
いつもなら何人かが声をかけてくるが……今日は、ない。
(……気を遣われていますね)
自覚はある。
それが、少しだけ苦しかった。
(……私は、何を失ったのですか)
係の相棒?
信頼?
それとも――それ以上の、何か?
考えが、そこから先に進まない。
◇ ◇ ◇
放課後。
準備係の作業は、淡々と進んだ。
「……ここ、完了です」
「了解」
必要な会話だけ。目は、合わない。
周囲の生徒は、二人の間に流れる空気を敏感に感じ取っていた。
「……大丈夫かな」
「喧嘩したっぽくない?」
だが、誰も踏み込まない。
◇ ◇ ◇
作業が終わり、各自が帰路につく。
アリスティアは一人教室に残った。
(……まだ、やることがある)
そう理由をつけて。
だが、本当は――帰るのが、嫌だった。
静かな教室。
夕焼けが、机を染める。
そこで、彼女は初めて声に出してしまった。
「……ばか」
誰に向けた言葉か、自分でもわからない。
胸が楽になるかと思った言葉は、しかし、さらに心を締め付けるだけだった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
ヒリスは、校門の外で立ち止まっていた。
(……このままで、終わるのか)
学院祭は近い。
係の仕事は残っている。
『業務だけにしよう』
自分で言った言葉。
だが——
(……俺は、納得できてるか?)
答えはわかっている。
ヒリスは、拳を握った。
(俺は……)
逃げるのだけは、したくなかった。
◆ ◆ ◆
その夜。
ミレナは、二人の様子を思い返していた。
(……決裂)
はっきりとした言葉は聞いていない。
だが、空気がすべてを物語っていた。
(このままじゃ——)
誰も、幸せにならない。
……ミレナは、静かに決意する。
その決意が、自らの恋を完全に終わらせることになるとしても。
こうして。
それぞれが孤独な夜を越え、次の選択へと向かっていく。




