第一話「堅物委員長とお調子者男子」
全十五話の予定です。
フロートゼ魔法学院はその名の通り、魔法を学べる場所である。
しかし、火は燃え上がらないし、轟音が響くこともない。
この学院において魔法とは「便利であるべきもの」であり、「誰かを圧倒するためのもの」ではない。
だから、生徒たちが扱えるのはせいぜい種火を灯したり、微風を吹かせたり、少量の水を出したりの、「生活を楽にする」魔法。
地味で目立たない。
だが確実に、人の生活を支える力。
この学校の男子生徒、ヒリス・イーノンはその力が好きだった。
「……今日も騒がしいなあ」
彼の家は学院から少し離れた街外れにある。
築年数のわからない木造家屋。
隙間風の寒さをやわらげるために、母親が生活魔法で部屋の温度を調節している。
「にいちゃん! 靴下どこ!」
「朝ごはん食べさせてー!」
「ノート忘れた!」
「はいはいはい!」
ヒリスは家中を走り回りながら、同時に複数の用事を片付ける。
(……今日もいつも通りだ)
勉強なんかをする自分の時間は正直ない。
だが、不満はなかった。
彼にとって「生活を回すこと」そのものが日常だったから。
——一方。
同じ朝、同じ時間の一人の少女。
アリスティア・ウィグサムは、完璧な静寂の中にいた。
アリスティアの朝はいつも同じ順序で始まる。
目を覚ます時刻。
顔を洗う時間。
制服に袖を通す手順。
朝食の量。
全てが無駄なく乱れなく、予定通り。
「……今日の小テストは二十ページまで」
独り言のように呟きながら、長い黒髪を一つに縛り眼鏡をかける。
鏡の中の自分はいつもと変わらない——はずだった。
(……少し、目の下に……)
だが、それも許容範囲だと判断する。
修正すべきほどではない。
朝の食卓に向かえば、すでに両親が座っていた。
ともに教師を勤める両親は同じ学院にはいないが、教育者としての空気は常に家の中に漂っている。
「アリスティア。学業は順調か」
父が新聞から目を離さずに問う。
「はい。問題ありません」
「そうか」
……それだけ。
褒め言葉も、心配もない。
期待は常に前提として存在している。
「それが普通である」と、アリスティアは思っている。
疑問を抱いたことは一度もない。
準備を済ませ学院へと向かう道すがら、彼女は自然と歩調を早める。遅刻など論外だ。
校門をくぐると、すぐに賑やかな声が聞こえてくる。
「ヒリスー! また忘れ物か!?」
「すみませーん!」
耳障りなほどに明るい声。
アリスティアは反射的にそちらを見てしまう。
ヒリス・イーノン。
同じクラスの、お調子者の男子生徒。
制服は少し着崩れていて、鞄の口は半開き。
だが周囲には、自然と人が集まっている。
(……非効率的)
心の中でそう結論づけ視線を切る。
教室に入ると、すでに何人かが着席していた。
「委員長おはよう」
「おはようございます」
クラスメイトからの挨拶は形式的だが、彼女はそれを丁寧に返す。
それが役割だから。
席につき、予習のためにノートを開いた瞬間。
「おはよー」
軽い声が飛んできた。
入口を見ればやはり、ヒリスが立っている。
クラスメイトは彼へ口々に挨拶を返す。
そんな中でふと、ヒリスとアリスティアの視線が交わる。
「委員長も、おはよ」
「……おはようございます」
彼は分け隔てない笑顔で軽く手を振る。
その笑顔が、アリスティアの心になぜだか少しだけ引っかかった。
◆ ◆ ◆
「では、次の議題に移る」
朝会中、教壇に立つ教師の声を、ヒリス・イーノンは聞いていなかった。
正確に言えば、聞ける状態ではなかった。
机に突っ伏し、規則正しい寝息を立てている。
「学院祭準備係の追加人員についてだが」
その言葉に、教室の空気がわずかに引き締まる。
「立候補は——」
「はい」
即座に立ち上がったのは、前列中央の席に座るアリスティアだ。
「私がやります」
いつも通りのよどみない口調。
教室の何人かが、ほっとしたように息をつく。
「ああ、また委員長が全部引き受けてくれるんだ」と。
「では、アリスティア。それともう一人……」
教師は教室内を見渡しため息をひとつ吐いた後、一人の生徒の名前を呼んだ。
「ヒリス・イーノン」
瞬間、教室がざわついた。
「え、あいつ?」
「……最悪の組み合わせじゃないか?」
だが当人はまだ夢の中だ。
「おいヒリス、起きろ」
隣の席の男子生徒が小声で呼びかけ肘でつつく。
「ん〜……あと五分……」
「お、おい——」
「ヒリス・イーノン!」
教師の張り上げた声で、ようやくヒリスが顔を上げる。
「は、はい!?」
「お前はたった今、学院祭準備係に任命された。以上」
「えっ、ちょ——」
抗議の声は決定事項の前にかき消されていた。
アリスティアは一瞬だけヒリスを見た。
眠そうで、だらしなくて、成績も悪い。
(……よりにもよって……)
彼女の胸に、はっきりとした不安が芽生えた。
◆ ◆ ◆
放課後の教室には静けさが満ちている。
窓から差し込む夕日が、机の天板に長い影を落とす。
その中央で、アリスティアはすでに作業を始めていた。
「……まず、学院祭準備係の仕事を整理します」
ノートを開き、几帳面な文字で項目を書き連ねていく。
会場設営、展示内容の確認、生活魔法の安全基準の再確認、予算の管理等。
初めからいる学院祭準備係から聞いたそれらの内容を、今度はヒリスへと説明する。
「……ヒリス・イーノン」
「はい!」
背筋を伸ばして返事だけは一人前。
だが、視線はノートではなく窓の外に向いていた。
「……聞いていますか?」
「聞いてます聞いてます。えーっと……なんかいっぱいやるやつだよね」
アリスティアのペンが止まる。
「『なんかいっぱい』ではありません。作業内容を把握しなければ、効率的な進行は不可能です」
「効率ねえ……」
ヒリスは頭をかきながら、背もたれにだらりともたれかかる。
「でもさ委員長。一人で全部やろうとしなくてもよくない?」
「……というと?」
彼は机に肘をつき、彼女のノートを覗き込んだ。
「これ、全部一人でやる前提で書いてない?」
「当然です。自分が動いた方が確実ですから」
「それじゃ疲れちゃうでしょ」
「疲労は計算に入れています」
ヒリスは一瞬言葉に詰まる。
「いや、そういう意味じゃなくてさ」
アリスティアは顔を上げない。
だが、その横顔はどこか硬い。
「……あなたには関係ありません」
「そう?」
ヒリスは少しだけ真剣な顔になった。
「でも、同じ係だよ? 言うなれば、相棒だ」
その言葉に、アリスティアはなぜか引っかかった。
「あなたは……」
アリスティアはゆっくりと息を吸う。
「責任を軽く考えすぎです」
「そうかな」
「はい」
有無を言わせぬ即答。
「正しく進めることが、最優先です」
ヒリスは少し黙った後、笑った。
「委員長らしいや」
「……それは褒め言葉ですか」
「さあ?」
曖昧な返事に、アリスティアは内心で小さく苛立つ。
(やはり、合わない)
そう結論づけた彼女は、気づいていなかった。
ヒリスが彼女の工程表を意外なほど真剣に眺めていたことに。




