主のいない朝
けたたましくなる音。
体を起こすことなく、手だけを動かしてスマートフォンに手を伸ばす。
アラームを止めてから、ゆっくりと体を起こした。
いつ通りの朝。
もやがかかった頭を抱えながら、のそのそと着替える。
制服を整え、リビングへと入った。
主のいないダイニングテーブルに、思わず目がいく。
きれいに折りたたまれた新聞紙が、主に開かれるのを今か今かと待っている。
ひどく空虚に感じた。
その光景に心臓がキュッと掴まれたような感覚を覚える。
「おはようございます、お嬢様」
料理の手を止め、わざわざ台所が出てきた喜伊さんが、深くお辞儀をしながら言う。
「……おはよう、喜伊さん」
花が咲いたような微笑みに、思わず私の口元も緩んだ。
いつも通りの喜伊さんの動きや表情に、張り詰めていたものが、少しだけ軽くなる。
何も言わなくとも、テーブルの上に朝食が並べられていく。
トースト二枚に添えられたジャム。
ハムエッグとサラダ。
牛乳にヨーグルト。
いつも通りの朝食。
それなのに、どうしても食欲が余り沸かなかった。
「ねぇ、喜伊さん───」
「朝ごはんは、一日の始まりですからね。しっかり食べないと力が出ませんよ」
減らして、と続けようとした言葉に、喜伊さんはかぶせるように言う。
にこにこと微笑みながら言われてしまうと、それ以上何も言えなくなった。
「いただきます」
椅子に座り、並べられた朝食に手を伸ばす。
「おいしいよ……喜伊さん」
「それはようございました。お代わりもございますから、たくさん召し上がってくださいね」
いたずらっぽく、喜伊さんは笑う。
そんなに食べたら太っちゃうよ。
そう軽口をたたきながら、ふと目の前の椅子を見てしまう。
いつもなら、ここで新聞を読みながら、微笑んでいるんだろうな。
───どうして、あの日、約束なんてしたんだろう。
「───ッ」
感情が高ぶる。
飲み込んだものがせりあがってくる感覚。
鼻の奥がつんとし、目頭が熱くなった。
「お嬢様」
台所にいたはずの喜伊さんが、音もなく隣にいた。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
固く握りしめていた私の拳を、そっと包み込む。
「喜伊が、おそばにいますからね」
優しい笑みを浮かべたまま、片手で私の頭を撫でてくれる。
「喜伊さん……!」
思わずその胸に顔をうずめた。
嗚咽を噛み締めながら、子供のように、強く抱き着く。
そんな私を、喜伊さんは何も言わず、ただ静かに頭を撫で続けてくれた。
「これから……どうすればいいんだろう」
胸に顔をうずめたまま、呟くように言う。
今まで当たり前だったものが、突然、消えてしまった。
言葉にできない不安と、底の見えない絶望。
「ねぇ、喜伊さん」
すがるように、その顔を見上げる。
喜伊さんなら、きっと何か答えを持っている。
この状況を救ってくれる言葉を、くれるのではないか。
そんな私の思いを見透かしたように、喜伊さんは、いつも通りの笑顔を浮かべた。
「焦ってはいけませんよ」
諭すように、優しく言う。
「答えはすぐに出るものではございません。お嬢様には、心を整理する時間が必要です」
涙で濡れた瞼を、そっと撫でてくれる。
「その答えは、お嬢様自身で見つけなければなりません。どのような答えになっても。どのような結末を迎えたとしても。私の答えではなく、灯お嬢様が答えを出すべきです。───後悔をなさらぬように」
それに、と言葉を継ぐ。
「どのような結末を迎えようとも、灯お嬢様のおそばに、喜伊はずっといますから」
まっすぐな瞳が、私を見つめていた。
「喜伊さん、ありがとう」
もう一度、その胸に顔をうずめる。
花のような優しい匂い。
喜伊さんの匂い。
嗅ぎなれたその香りに、すこしだけ安心する。
何も分からない私は、まだ何も決められない。
そんな私を置き去りにするように、世界は今日も、何事もなかったかのように進んでいった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この章より、灯が立ち上がり、ゆっくりとですが進んでいきます。
その進んだ先に何があるのか。
灯は、喜伊は、何を感じ、何を思い、進んでいくのか。
読んだ方の心に残るように、できる限り丁寧に書いていきたいと思います。
よろしくお願いします。




