名を継ぐ者
私は歩く。
暑い日だった。
日差しは強く、汗を拭う人々が行き交う。
私もジットリとした汗をかいている。
暑さではない。
苦しさだ。
少しでも気を抜けば倒れる。
それを支えているのは、気力と、灯を思う気持ちだけ。
背中と胸が燃えるように熱く、心臓は氷のように冷たい。
汗とは違う液体が、じわじわと背中を濡らす。
気づけば、約束の場所が近づいていた。
どうやって歩いてきたのか、覚えていない。
「遅いよ、もー」
「すまんな」
声は出ただろうか。
口は動いた気がする。
背景はぼやけている。
だが、灯だけがくっきりと見えた。
まるで、その子だけにピントが合った世界。
「まぁ、来てくれただけでも嬉しいよ。また、急な仕事で来れなくなるより、ずっといいからさ」
「すまん」
声が、心地よく耳に入る。
「大丈夫?」
「あぁ」
心配そうに覗き込む顔。
あの人に似ているはずが無いのに、どこか似ている。
「無理しすぎなのよ。最近は怪我してないみたいだけど、少し働きすぎ」
「そうか?」
「そうよ。私のためって言ってくれるのは嬉しいけどさ、父さんが無理してるなら嬉しくないんだから」
そう言って、そっぽを向く。
頬が赤い。
「そんなに無理しなくても、私は十分幸せよ。お金なんてなくたって、父さんの娘で幸せ」
その言葉は、疑いも迷いもなく、まっすぐだった。
守ってきたつもりの毎日が、すでに報われていたのだと、今さら思い知らされるほどに。
「だから……いつも、ありがとう」
耳まで赤くなっている。
「そうか───俺も、お前の親になれて幸せだよ」
よく育ってくれた。
よく、ここまで……。
視界がぼやけていく、灯の姿も背景と同じように。
涙か、それとも───。
「ね、行こう。今日はいっぱい付き合ってもらうんだからね!」
歩き出す灯。
「ああ」
だが、足は動かない。
あぁ、そうか。
ここまでか。
見慣れた、あの人の姿がぼやけた視界の先に立っている。
もう、いいのか。
ここで、立ち止まっていいのか。
俺は───父親であれたのだろうか。
肩にのしかかっていた荷物が、すべて消えたかのような感覚。
「父さん?」
灯が覗き込む。
「すまん……すまんな」
何への謝罪だったのか。
もう一緒にいられないことなのか。
もう守ってやらないことなのか。
それは自分にもわからなかった。
「父さん……!」
私は立ち尽くす。
背中を濡らすものが、止まらない。 足元に、赤黒い水溜りが広がる。
「なんで、どうして! うそ、うそよ! 父さん!」
灯の悲鳴。
灯は傷口を確かめる様に体をまさぐり、背中の傷口に触れる。 細く白い手が血を止めようと傷口があるところを抑えた。
だが、手が赤く染まるだけで止まることはない。
「……いいんだ。もういいんだよ。充分生きた。恵まれた人生だった───」
私は満足げに笑った。
「お嬢様! 旦那様!」
遠くから喜伊の声。
「旦那様……どうして……しっかりして、真様!」
泣き叫ぶ灯の声が、重なる。
あぁ───
お前も、こんな気持ちだったのか。
幸せと、悔しさ。
焦りと、諦め。
そして、少しでも何かを形として、記憶として残してあげたい気持ち。
そうだ、だから最後は、笑ってほしい。
だから、私は笑ったんだ。
どうだ……私は、笑えているか?
ニュースの一報。
ありふれた殺人事件。
顔も名前も、すぐに忘れられる。
明かりの少ない部屋、
物言わぬ人の前で、
決意する。
「いこう、喜伊さん」
灯の言葉に、喜伊は深く頭を下げる。
「かしこまりました、お嬢様」
私は、もう振り返らない。
泣きべそをかく、子供はもう終わりだ。
なにが、父を殺したのか。
なにが、帰る場所を壊したのか。
なにが未来を奪ったのか。
それを知るまで。
報いを受けさせるまで。
私は止まらない。
その時、彼女はまだ名を持たなかった。
だが、もう───
父の娘という居場所には、戻れなかった。
───そしてこの日、世界はまだ知らない。
自分たちが、何を生み出してしまったのかを。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
ここで、第一章の終わりです。
次回から第二章が始まります。
目まぐるしく変わっていく灯の環境、そして決意の物語へと進んでいきます。
少しでも、読んだ方の気持ちを揺さぶることができたら幸いです。




