名も無き者
ーーーその男は特徴のない顔を悩んだこともあった。
他の顔を羨んだこともあった。
だが、今は満足している。
この仕事に、これほど適した顔はない。
自然に接近でき、自然に処理できる。
目撃されても、雑踏の中でいつの間にか忘れられていく。
誰も知らない。
誰も気づかない。
背景の一部。
雑踏に紛れるモブの一人。
だから、誰も気にしない。
気に留めない。
そうだろう?
脇役の名前や顔など、重要だと思わない。
だから、誰もその男に気づかない。
気づけない。
気づくとしたら、それは死の淵に立った時だけだ。
ずぶり、と。
男が握ったナイフが私の背中に突き立てられた。
まっすぐ、心臓に向かって。
「選ぶといい。振り返り、私とやり合うか。それとも、このまま進むのか」
静かな声だった。
誇るでもなく、驕るでもなく、ただ淡々と。
私は振り返らず、先へと進もうとした。
この傷が致命傷であることは分かっている。
結末も、想像がつく。
それならば──娘の、灯のもとへ行きたい。
「それがいい。もう会うことはないだろう。残された時間を十二分に楽しむといい。悔いのないようにね。これは餞別だ」
パキリ、と。
ナイフの先だけが折れて、体内に残った。
抜くこともできただろう。
だが、抜かない。
血止めとなるその刃先は、男なりの慈悲だったのかもしれない。
男は懐にナイフの柄をしまい、振り返ることなく雑踏へ消えていった。
振り返る必要がない事を、彼は知っていたからだ。
その背中が消えた時、すでに物語は、取り返しのつかない場所へと踏み込んでいた。




