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帰る場所

私の家には、母親はいない。

俗にいう父子家庭だ。


父親は工場に勤めているらしい。

「らしい」というのは、詳しいことを何も教えてくれないからだ。

次世代の素材や技術を扱っていて、もし情報が流出すれば会社だけでなく社会にも影響が出る。

そんな仕事なのだそうだ。

機密が多すぎて、家族にも話せないのだと。


冗談半分に、FBIとかCIAみたいだね、と言ったことがある。


父は苦笑いをしていた。

言った私自身も、さすがにそれはないな、と思って笑ってしまった。


仕事はデスクワークが中心だが、現場に出ることも多いらしい。

扱いの難しい素材や装置もあり、細かい傷が絶えない。

幸い、大きな怪我をすることはなく、紙で切ったような薄い傷ばかりだ。

加工の際に飛んでくる火花や破片で切るのだと聞いた。


私が物心ついた頃から、父の手はごつごつしていた。

岩みたいだ、と子供心に思った。

それでも、その手の記憶は、いつも優しくて温かい。


今でも。


そんな仕事をしているからか、我が家は比較的裕福だった。

理由は単純で、お手伝いさんがいるからだ。


喜伊さん。


私にとっては、母親代わりと言っていい存在だった。

物心ついた頃には、もうそばにいた。

落ち着いた雰囲気で、声を荒げることも、慌てることもない。

どちらかといえば、雇われているより、雇っている側のような空気をまとっている。

髪が乱れる事も、疲れて服装が乱れることもない。


「私の見た目や言動一つで、旦那様やお嬢様がどう見られるかが決まりますから」


そう言って、完璧を当たり前のように保っていた。


「もちろん、それに見合うお給金も頂いておりますけれどね」

いたずらっぽく笑って、そう付け加える。


私が小学校に上がる頃から、喜伊さんは住み込みになった。

父の仕事が深夜に及ぶことが増えたからだ。

最初は深夜の時だけだった。

それがある日、父から言われた。


「喜伊さんが、この家に一緒に住んでもいいか?」


子供ながらに結婚するのかと思った。

でも、そんなことはなかった。


雇用主と従業員。


その関係は、最後まで変わらなかった。

それでも私は嬉しかった。

喜伊さんが好きだったから。


「ねえ、喜伊さん」

「はいはい、どうされました?」

料理の手を止めることなく、穏やかな笑みで応える。

「今日のご飯はなあに?」

「キッシュとスープ、それからサラダです。おいしそうなカボチャがありましたので」

「あー、いいね。喜伊さんのキッシュ大好き。スープはカボチャ?」

「えぇ。大きなカボチャでしたから、カボチャ尽くしにしてしまいました」

サラダもですよ、と少しだけ幼い笑顔で笑う。


父には見せない、その表情が、私は好きだった。


一度だけ「お母さんになって」と言ったことがある。

母親がいないことが、つらかった。

父は優しかったし、不自由なかった。

それでも、友達の母親を見ると、どうしても羨ましくなった。


喜伊さんは困ったように笑って、少し黙った。


「……旦那様がいない時でしたら」


そう言ってくれた。

言葉遣いは変わらなかった。


けれど、それから少しだけ、距離が縮まった気がした。

子供の頃は二人だけの時は「お母さん」と呼んでいた。

けれど、大きくなるにつれて、自然と「喜伊さん」に戻った。

照れくささもあったけれど、それ以上に喜伊さんの一歩引いた距離が、それを許さなかったのだと思う。


「おかえりなさいませ」

帰宅した旦那様に、深く頭を下げる。

「お嬢様は二時間ほど前にお部屋に入られ、一時間ほど前にご就寝されました」

鞄と上着、ネクタイを受け取りながら、淡々と報告する。


「助かる。変わったことは?」

「特にございません……が」


一拍、言葉を置く。

リビングの扉を静かに閉め、旦那様を見上げた。


「少々、お嬢様を気にかけて差し上げて下さいませ」

旦那様は顎に手を当て、考え込む。

「朝早く出て、夜遅く帰る。その繰り返しに、お嬢様は───あなたとの時間に、飢えておいでです」

「……分かっている」


旦那様はそう言いながら、視線をそらした。


「分かっておられるのであれば」


声の調子は変わらない。

けれど、言葉だけが、確実に踏み込んでいく。


「”分かっている”という理由で、お嬢様が寂しくならないわけではございません」


旦那様は何も言わない。


「どこか連れて行け、と申してるのではございません。ただ───」


まるでレストランのウェイターのように、静かで正確な所作で、前菜とグラスを並べる。

雫一つこぼさず、酒を注ぐ。


「おはよう、おやすみ。それだけで一日が終わってしまうことを、避けていただきたいのです」

「……少々、立て込んでてな」

きしむダイニングチェアに身を預けながら、旦那様は言った。


「それは、存じております」


即答だった。


「ですが、私は理解していても───何も知らないお嬢様には、関係のないことでございます」


一瞬だけ、空気が張り詰める。


「旦那様は、お嬢様にとって唯一の家族であり、父親です」


そこで初めて喜伊は言葉を切った。


「それは、代わりのきかない立場だということを……どうかお忘れになりませんように」


旦那様は、返す言葉を探しているようだった。


「手紙でも、メールでも、構いません。一言あれば、それで救われる夜もございます」

「……気を付ける」

短く、そう答えた。

「えぇ、お願いいたします」


それ以上、責める言葉はなかった。

台所へもどり、温めなおした主菜を、静かに差し出す。

「いつも、すまない」

「いえ」


少しだけ声が和らいだ。


「それ相応のお給金も頂いておりますし」


けれど、その言葉の裏にあるものを、旦那様はきっと理解している。

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