その声に縋って
起きると、喜伊さんはすでに隣にいなかった。
時計は朝から昼へと差し掛かろうとしている。
───寝過ごしたな。
寝間着のままリビングに入ると、喜伊さんはちょうどダイニングの上に食事を並べていた。
「おはようございます、お嬢様」
手を止め、頭を下げる。
「うん、おはよう。寝過ごしちゃった」
いつも通りの喜伊さんに、ふっと心が軽くなる。
「昨夜は遅うございましたからね」
にっこりと微笑みながら、私が座れるように椅子に手をかけて───その指先が、わずかに止まった。
何かを確かめる様に、窓の方───ベランダへ顔を向ける。
「喜伊さん?」
私の声に応えず、弾ける様に私の腕を掴んだ。
「お嬢様、お早く!」
私の腕を掴む喜伊さんの力が強い。
それが、危機感を表している。
焦り。
不安。
今までのどの表情とも違う、初めて見る喜伊さんの顔。
喜伊さんの部屋へと連れられる。
あまり入ったことのない部屋。
父さんと同じ、必要最低限の物しか置かれていない、がらんとした部屋。
私をクローゼットの前まで連れ、扉を開けた。
吊られている服をかき分け、壁の一部を押し込む。
壁の一部が、パカリと開いた。
「こちらへ」
いつの間にこんなものが。
そんな疑問を言う暇もなく、喜伊さんは私をそこへ押し込んだ。
「いいですか、お嬢様。決してここから出ないでください。必ずです。私がここを開けるまで。私の声が聞こえても。……約束ですよ」
早口でそう言うと、そのまま外から閉じた。
閉じる瞬間に見えた喜伊さんの顔は、何かに縋るような表情だった。
走り去る喜伊さんの足音。
耳が痛くなるほどの静寂。
自分の心音がうるさいほど鼓動する。
空気が薄いかのように、荒い息。
明かり一つない闇の中、膝を抱えて時間を過ごす。
遠くで時折響く、金属が打ち合うような音。
何かが壁にぶつかる音。
まるで、重い物がぶつかったように振動が響く。
今度は何かが倒れる音。
でも、悲鳴一つ聞こえない。
それが何の音なのか。
想像もできない。
だけど、私を守る音だということは分かる。
膝を強く抱き込む。
自分の無力さを噛み締めながら。
しばらくすると部屋の外から足音が聞こえる。
こつり、こつりとフローリングを叩く靴の音。
「灯」
私を呼ぶ喜伊さんの静かな声。
普段呼ばれない名前の呼び方に、心臓がどくりと跳ねる。
違和感を感じながら、その落ち着きように、すべて終わったのかと錯覚をしてしまう。
「……約束は、覚えている?」
喜伊さんとは思えない言葉遣い。
───覚えてる。
胸の中で答えながら、飛び出しそうになる体を抑える。
静寂があたりを包む。
足音もしない。
恐怖のあまり、私の幻聴だったのかと錯覚するほど。
「お嬢様! お早く、そこから逃げて!」
先ほどの静かな声が嘘のように、突然響く、喜伊さんの感情を露わにした声。
だけど、私の知っている声と、何かが違う。
言葉の間。
いつものアクセントの違い。
───本当に喜伊さんなのか?
喜伊さんが、こんなに必死に私の名前を呼ぶだろうか。
私を一人で逃がそうとするだろうか。
迷う。
いや、喜伊さんの声だ。
間違うはずが無い。
でも、喜伊さんは約束通り来ない。
「お嬢様ぁ!」
必死な声。
来れないのか?
なにか酷いケガをしているのか?
血まみれの喜伊さんが脳裏に浮かぶ。
私は堪らず、隠し扉から外へ出た。
闇に慣れた目に、明かりが痛いほど差し込む。
「みぃつけたぁ」
目がくらむ中で聞こえる、かくれんぼで鬼が見つけたような、楽しそうな声。
それは、今までのどの声とも違っていた。
慣れた目が映したのは、部屋の入口に立っている、私より少し年上だろう少女。
艶々した腰まである長い髪。
黒いシンプルなロングドレス。
その裾から覗くミドルヒールの赤いパンプス。
口は笑っている。
だが、目は笑っていない。
お嬢様然としているが、その禍々しい雰囲気が只者ではないと物語っている。
「よかった、早く見つかって。私、探し物って苦手なのよね」
少女は嬉しそうにくすくすと笑った。
くらくらとめまいのような感覚がする。
───私は、間違ってしまった。
喉がひりつく。
「こんなこと、早く終わらせたいのよね。おもしろくないし」
ヒールが床を打ちながら近づいてくる。
コツコツと。
散歩をするようにゆっくりと。
その雰囲気に思わず後ずさるが、すぐに背中は壁に当たった。
「まぁ、お仕事だから……悪く思わないでね」
ゆるりと少女の手が、私に伸びる。
ダークレッドのマニキュアが塗られた鋭い爪。
あの赤いキャップの少女が持っていたナイフのような鋭さ。
───喜伊さん。
助けて。
ひりついた喉は、声を出すこともできない。
私は、ただその爪先を見つめる事しかできなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この章より物語が大きく動いていきます。
新たな登場人物が現れ、目まぐるしく灯や喜伊の環境が変わっていきます。
その動きに灯はどう成長していくのか、喜伊はどう変わっていくのか。
楽しんでいただけると幸いです。




