その手のゆくさき
喜伊さんが出かけて。
寝ようと思い、布団に潜り目をつむる。
だが、一向に眠気は来ない。
どくどくと心臓がうるさいほど脈打ち、何度も寝返りを打つ。
このまま、喜伊さんが帰ってこないのではないか。
最悪の想像が、さらに私の意識を覚醒させる。
それを打ち消すように、布団を頭まで被る。
───喜伊さん、無事でいて。
そう願いながら、目をぎゅっと閉じた。
何時間経っただろうか。
うとうとし始めた頃。
玄関の扉が開く音が聞こえた。
廊下を静かに歩く音。
その音に私は飛び起き、急ぎ足で自室の扉を開けた。
「お、おかえり……」
───喜伊さんだよね?
その言葉を飲み込む。
いつもの喜伊さん。
見た目も、出て行ったままの姿。
だけど、何かが違う。
雰囲気が。
視線が。
「……ただいま戻りました、お嬢様」
私が起きている事に少し驚きつつも、にこりと微笑む。
だが、違和感がある。
人形のような微笑みに思わず、後ずさりしそうになった。
「遅くなってしまいました。お変わりはなかったですか?」
そんな私を知ってか知らずか、いつものように話しかける喜伊さん。
「うん……大丈夫」
目線が合わせられないまま、頷く。
「就寝のところ申し訳ございませんが、少々お話をしてもよろしいですか?」
もうすぐ明け方となる時間。
本来なら、このまま寝てもおかしくない。
それを曲げてまで、私に伝えようとする話。
私の胸がざわつく。
私が頷くと、喜伊さんはリビングへと向かった。
喜伊さんが二人分の飲み物を用意してテーブルの上に置いた。
淹れてくれたけど、飲む気がしない。
空気が重く、ぴりつく。
「私の想定以上に状況が悪いことが判明しました」
喜伊さんの声は固い。
「多少の時間はあるかと思いましたが、想像以上にありませんでした」
喜伊さんは事実だけを淡々と言う。
そこに感情は込められていない。
「お嬢様。何が起こってもおかしくない状況です。すぐに動けるようにお覚悟をなさってください」
どうすればいいのか聞きたい。
けれども、喉がくっついたように声が出ず、頷く事しかできなかった。
「今日からは、念のためお嬢様のお部屋で寝ようと思います」
そう言って喜伊さんは、私の部屋に来てベッドの横に布団を敷きだした。
多くを語らず、そのまま二人で床に就いた。
真っ暗闇の中。
寝息さえもほとんど聞こえない、時計の音だけが響く。
感情が高ぶっているのか、眠れない。
喜伊さんの方へ寝返りを打つ。
喜伊さんは布団に入ったままの姿勢で、身動き一つとっていない。
まるで人形のように。
微かに動く胸元が、生きていることを感じさせる。
「……ねぇ、喜伊さん」
小さな声。
その声に目を開け、顔だけをこちらに向ける。
「どうされましたか?」
薄明りの中。
喜伊さんからは、感情の輪郭がうまく掴めない。
「えっと、そっちに行ってもいい……?」
戸惑いながらも。
いつもの喜伊さんを少しでも感じていたくて。
しばしの無言。
「……どうぞ」
起き上がり、私が眠れるように掛け布団を上げ、少し端によった。
もぞもぞと枕を持ってベッドから抜け出して、喜伊さんの横に寝た。
私に布団をかけてくれて、そのまま同じように横になった。
喜伊さんは何も聞かない。
「なつかしいね、こうやって寝るの」
沈黙に耐えきれず、天井に向かって独り言のように呟いた。
「そう、ですね。お嬢様が幼い頃は、一緒に寝ていましたね」
その時の事を思い出したのか、少し言葉が柔らかくなる。
シングルサイズの狭い布団。
あの時はちょうどよかったサイズも、今ははみ出しそうになっている。
喜伊さんの方を向いて、はみ出さないようにする。
喜伊さんは先ほどと同じ、仰向けの体勢。
こんなに近いのに、寝息もほとんど聞こえないほど静かだ。
ほとんど密着するように寝て、触れる所が温かい。
その温かさだけが、いつもの喜伊さんを感じさせる。
身じろぎをすると、喜伊さんの手に触れた。
柔らかく温かい手。
でも、ほんの少しだけ、いつもより固く感じる。
それを両手で包み込む。
喜伊さんは何も言わない。
一体何をしてきたのだろうか。
どこへ行ってきたのだろうか。
固さの残る喜伊さんの手。
私の為に、大変な思いをしたのかな。
なにかを、犠牲にしたのかな。
でも、無事に戻ってきてくれた。
喜伊さんの手が、じわじわと柔らかくなってくるのを感じる。
───ありがとう、喜伊さん。
その柔らかさを感じながら、私の瞼はゆっくりと落ちていった。
隣から規則正しい寝息が聞こえる。
起こさないように、慎重にお嬢様の方へ寝返りを打った。
寝入った灯お嬢様を見つめる。
穏やかな寝顔。
包まれた私の手。
昔と変わらない。
思わず、頭を撫でようと手を伸ばす。
だが、お嬢様に届くことはなかった。
その穢れた手で、今のお嬢様に触れるのが躊躇われたからだ。
今の私に、そんな資格があるとは思えなかった。
行き場を失った手は、お嬢様の布団を整えるだけにとどめられた。




