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裏側の仕事

「じゃぁ、行ってきます!」


身支度を整えた娘は元気よく家を出ていった。

それを見届けてから、こちらも出かける支度を整える。


「では、娘を頼む」

「かしこまりました。お任せください」


喜伊は恭しく頭を下げ、見送ってくれた。


エレベーターに乗り込むと、下降する間にスマートフォンへ届いたメッセージを確認した。

数字だけが並んだ簡潔な内容。

その番号を頭で反芻しながらマンションのエントランスを抜ける。


外には、一台のタクシーが待っていた。

まるで最初からそこにいるのが当然であったかのように。


メッセージに記されていた番号と、車体のナンバーが一致している事を確認し、後部座席へ乗り込む。

運転手は、何も言わない。

こちらも、何も尋ねない。

車は静かに走り出した。


大通りを避け、抜け道のような路地をいくつも通り過ぎていく。

やがて、少しさびれた工場が立ち並ぶ一角でタクシーは静かに停車した。


ドアが開き、何も言葉を交わすことなく外へ出る。

運転手は料金を告げることもなく、私は振り返りもしない。


背後でエンジン音が遠ざかっていく。

周囲の建物に紛れるように建つ、小さなビルがそこにあった。


目立つ看板もない。


懐からカードキーを取り出し、ビルの中へ入る。

中は外観と同じく古びているが、手入れは行き届いている。


古いエレベーターに乗り込む。

最近のエレベーターとは違い狭く、四、五人が乗れば窮屈に感じるだろう。

開/閉のボタンの下あたりにカードキーをかざす。

すると、何の音も無くエレベーターが動き出した。

階表示ランプは点灯しない。

ただ、下へ、下へと沈んでいく感覚だけがある。

しばらくして、静かに停止した。



扉が開く。

そこは、このビルの外観からは想像できないほど豪奢な空間だった。

まるで、高級ホテルのロビーのようなエントランス。


「おはようございます」


かっちりとしたスーツに身を包んだ初老の男性が、一礼して出迎える。


「こちらへ」


促されるまま、カウンターへ向かう。

受付には、数人の女性が並んでいた。


「おはようございます、ミスター。ご機嫌はいかがですか?」


声をかけてきたのは、その中でも背の高い金髪の白人女性だった。

余分な肉がついていない、引き締まった体つき。

スマート、という言葉がよく似合う。


「あぁ、まあまあだ」


カードキーを手渡すと、受け取った彼女はパソコンにつながった端末へと差し込んだ。

そして、手際よくキーボードとマウスを操作していく。


「昨日はお疲れ様でした。今後のご予定はいかがなさいますか?」


パソコンのディスプレイから目を離し、私に向け微笑みながら尋ねる。


「いつも通りだ。二週間ほど空けて、もう一度」

「お支払いと条件も、前回と同様で?」

「ああ」


彼女は小さくうなずき、入力を続ける。


「では、次回は十三日後、もしくは十六日後が空いておりますが」

「十六日後で頼む」

「かしこまりました。今回も事前情報はお受け取りにならない、でよろしいですね?」

「ああ。その方が、支払いがいいんだろう?」

「はい」


彼女は、どこか楽しげに微笑んだ。


「では、そのように予定を入れておきます。日が近づきましたら、メッセージが届きますので、ご確認ください」


愛想よく笑いながら、カードキーを手渡してくれる。


「よう、ミスター」


その瞬間、後ろから声をかけられた。

振り向くと鍛え上げられた肉体を持つ男が立っている。

服の上からでも分かる筋肉。

背丈は自分より少し低いが、威圧とは違う、人を圧する存在感があった。

首や腕には包帯。

傷だらけの顔には、真新しい痣がいくつも浮かび、腫れている。


「ああ、ヒーローか。──大変だったみたいだな」


真新しい傷や巻かれた包帯を見ながら思わず口を出た言葉。


「本当にね。もう少しスマートに終わらせたかったんだが、そうさせてくれなくてさ」


そう言ってヒーローと呼ばれた男は自分の体を軽く叩いた。

ヒーローは言葉を交わしながら、私と同じように受付の女性へとカードキーを渡す。

彼の担当はアジア系の背の低い女性だ。


「お互い、難儀なものを背負ってるな」


受付と話しているヒーローの肩を軽く叩き、奥の部屋へと進んだ。

私の言葉に応える代わりに、ヒーローはひらひらと手を振った。


久しぶりに、ここで人と会った。

この場所に人が集まるのは、たいてい夜になってからだ。

なにより、娘には「普通の仕事」をしている父親でいる必要がある。

だからこそ、一般的な社会人と同じ時間帯に行動している。

もっとも、会話を交わしたい相手、というよりまともに会話が成り立つ相手がほとんどいないという理由もあった。



「医務室」と書かれたプレートが掲げられた扉を開ける。

近くにいた看護師にカードキーを渡すと、しばらくして、さらに奥の部屋へ通された。


診察室。

よく見るありふれた造りだ。


「おはようございます、その後はいかがですか?」


椅子に腰掛けた白衣の初老の男性───顔見知りの医師が、温和な笑みを浮かべて迎えた。


「大きな痛みもなく、突っ張りも感じない」


向かいの椅子に腰を下ろしながら答える。


「傷の疼きや、吐き気はありますか?」


医師はカルテと私を交互に見ながら問いかける。


「多少の痛みはあるが、特に問題はない。吐き気はないが、倦怠感は少しある」


受付をしてくれた看護師が、トローリーを押して近くまで来た。


「では、服を」


促され、上着を脱いでトローリーに置く。

上半身裸になり、包帯に覆われた体が露わになった。

慣れた手つきで医者が包帯をほどいていく。

体中に刻まれた、まだ完全に塞がっていない無数の傷。

一つ一つ確かめるように顔を近づけていく。


「……さすがですね」


医師は顔を上げ、にっこりと微笑んだ。


「縫うほどの深い傷はありません。どれも薄く皮膚を切られた程度です


「念のためもう一度消毒を。明日までは包帯を巻いてください」

「入浴は明日の夜からで。シャワーは構いませんが、強くこすらないように」


看護師から消毒液を受け取り、医師は手際よく処置を進めていく。


「抗生物質を出しておきます、今朝は飲まれましたか?」

「いや、昨夜だけだ」

「では、昼食後に。倦怠感は疲労からでしょう。今日ご予定がなければ休憩室で休まれてください」

「もとより、そのつもりだ」

「結構」


会話を続けながらも、処置はあっという間に終わり、包帯は元通り巻かれていた。


医師は、やや真剣な表情になる。


「以前より傷の数が増えています。無理もきかなくなってきているでしょう?」

「分かっている」


その言葉に思わず、胸───心臓のあたりに、自然と手が伸びた。


「本来であれば立つことさえ許されない場所です」

「ああ……そうだな。不幸にもまだ俺はここにいる」


胸の奥に、鈍い痛みが広がっていく。


「本当に、気を付けてください」


医師は白髪交じりの髪をかき上げ、少し困ったように笑った。


「もう、いい年ですからね」

「そうだな」

「お薬は?」


医師が無意識に抑えた胸を見ながら言った。


「いらん。分かっているだろう? これは治りようのない古傷だ」


そう言って立ち上がり、胸の鈍い痛みを振り払うように服を着る。

振り返る事無く医務室を後にした。


「先生……彼は大丈夫なんですか?」


看護師が、控えめに問いかける。


「まあ、僕が何を言っても無茶をせざる得ない立場であるし」


今まで相対した男の環境を考える。

書類上でしか見ていないが、ここではなかなか特殊な例だ。


「本当に、よく生きていると思う。いつ死んでもおかしくない綱渡りみたいなことをしていて」


医師はカルテを手渡しながら、静かに呟いた。


「願わくば……不幸にも、その古傷に殺されないといいんですが」


祈るようにそう言って、医師は男が出ていった扉を見つめた。


「よう、デクノボー」


背後から不意に声がかかる。

振り向かずともわかる。

幼く、中性的な声。

少女とも、少年ともとれる。

振り向きたくもない。

だが、無視するわけにもいかず、振り返った。


「元気そうじゃねぇか」


赤いキャップを目深にかぶったその姿から、こちらに見えるのは大きく歪められた笑みを浮かべる口元だけだ。

自分の胸元までも届かない小さな体。

白いブラウスに、赤いプリーツスカート。

白いハイソックスに黒いローファー。

──公園にでもいそうな少女。

会いたくもない相手だ。


「ああ」


素っ気なく返すが、相手は気にも留めない。


「アバズレは元気か? 最近ちっとも見ねぇからよ」


その言葉に、胸の奥がわずかに軋む。

見た目や声からは想像できない、乱暴な言葉。

本来なら、大人が注意すべきだ。

だが、この少女を知る者は、誰も何も言わない。

言えない、という方が正しい。


「そういう名前じゃない」

「アバズレはアバズレだろ。ここから逃げて男のところに転がり込んでるんだからよ」

「……私が仕事を依頼しているだけだ」

「ふん。どうだかな。夜の相手で忙しくて、出歩けねえのか?」

「それだけなら、行くぞ」


これ以上の会話は不要と、拒絶の意味を込めて背を向ける。


「アバズレに伝えておけ」


その背中に向けて少女は、愉快そうに笑う。


「勝ち逃げは許さねぇ。あれは、まぐれなんだとな」


返事はしない。

休憩室へと歩き出す。


「チッ……つまんねぇなぁ」

心底退屈そうな声が、背後に残った。


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