静かな獣
近くにかけてあったタオルを手に取る。
それを広げて医師の顔に押し付ける。
何事かと、飛び起きようとする医師の腹に、馬乗りになりながら膝を入れた。
「ぐぅっ!」
くぐもった悲鳴。
丸まろうとする体を、いなしながら、もう一度同じ所へ膝を入れる。
同じような悲鳴を上げながら、医師は咳き込んだ。
医師の荒い息。
時折咳き込む音。
それだけが、この部屋に残った。
「なに……がッ!」
喋ろうとしたので、その口を、タオルの上から塞ぐ。
視界を塞がれ、口を塞がれ、いつ来るとも分からない暴力。
大抵の人間は、それで何も行動を起こさなくなる。
何が正解か分からないから、動けない。
痛いのは、誰だって嫌だ。
ガタガタと恐怖で震える体。
───こんなものか。
馬乗りになったまま、医師の指に、シェフナイフを当てる。
その冷たさと大きさに、反射的に動こうとする腕を抑えた。
「いいですか。あなたは、私が求めた答えのみ言葉を発するのを許可します」
そこではじめて私は声を出した。
その声に医師は大きく反応する。
「ハウス……ッッ!」
医師の声は、自分の指から響いた、乾いた音で止められた。
叫び声が漏れないように、タオルの上から医師の口をふさぐ。
「いいですか。あなたは、私が求めた答えのみ言葉を発するのを許可します」
痛む手をバタバタと震わせている医師に、一言一句、同じ調子で言う。
医師は大げさに首を何度も縦に振った。
「よろしい。聞きたい事は二つ。組織は灯お嬢様をどう見ていますか?」
口をふさいでいた手を、医師の喉元に滑らせる。
いつでも、声を奪える位置に。
「……いなくなれば……ハウスキーパーが戻ってくると確信している」
声を震わせながら、息を絶え絶えに医師は言った。
確信、その言葉に胸がざわつく。
───そこまでお嬢様の事を。
「……組織はどう動く」
さらに温度を落とした声で、問いを重ねる。
「もう、動き出している。……私が知っているのは、レッドキャップの後に、マリオネットとサタンに声をかけたと───ッ!」
思わず喉を持つ手に力がこもった。
最悪だ。
組織はそこまで本気になるとは。
予想以上に、時間はない。
その内容に満足し、医師から手を離した。
「……ハウスキーパー、悪い事は言わない。戻ってくるんだ」
よろよろと体を起こす。
タオルがはがれた医師の顔は、涙や涎でぐしゃぐしゃだ。
「まだ、あなたには利用価値があると組織は考えている。すべてを捨て、戻れば命は助かる」
私の背中に医師は声をかける。
───私を説得しているのか?
いや、そんな義理は無い。
「何をそんなにこだわっているのですか。契約上の話だったんでしょう?」
必死な声で言葉を紡ぐ医師。
時間稼ぎか。
あるいは少しでも情報が欲しいのか。
「ミスターソードの結末も、白瀬 真の結末も。すべて分かっていたことでしょう? なぜ、そこまであなたは……」
振り向き、ゆっくりと近づく。
あれだけ饒舌だった医師は、私の顔を見るなり固まる。
動くことも、声をあげる事もできず。
私は、触れるほど医師の顔に顔を寄せた。
「二度目だ」
見つめたまま、ナイフを医師の指に走らせる。
軽い、乾いた音。
医師の指先で、何かが静かに弾けた。
医師は手を抑えうずくまり、声にならない声を上げている。
私は再び、ベランダへと向かった。
荒い息と呻き声だけが、私を見送る。
途中でくるりと振り返った。
「報告したければ、どうぞご自由に。灯お嬢様を守ることに変わりはありません。ただし、覚悟はしてください」
医師はうずくまりながら、私を見上げる。
「その日があなたの最期の夜になります」
そして恭しく頭を下げた。
「それでは、ごきげんよう」
私は振り返る事無く、闇へととけていった。




