獣は闇にとける
「今の電話はある協力者からでした」
両手にコップを持った喜伊さん。
片方のコップを私の目の前に置く。
「昨日も、その者からです」
私の真向かい、父さんの席の横に座った。
手に持ったもう片方のコップを自分の目の前に置いた。
その音がいつもより重く、大きく聞こえた。
「内容は、お嬢様───あなたの身の危険に関する警告でした」
背筋に悪寒が走る。
「すぐに、というわけではありませんが、時間はあまりないと思ってください」
喜伊さんの声は固い。
だけど、それはあえて淡々と言っているように聞こえた。
私に不安を少しでも感じさせないように。
「ですので、あまりお一人で外を出歩かないように」
そこで初めて、喜伊さんは少し言葉に詰まった。
喜伊さんの手で包まれたコップの中身が、少し波打つ。
「そう言っておきながら、申し訳ございません……今夜は少し外に出てまいります」
喜伊さんの視線がコップへと落ちる。
分かっている。
時間は有限で、その中で喜伊さんは少しでも抗おうとしていることも。
コップごと喜伊さんの手を包み込む。
「喜伊さん、大丈夫だよ。分かってるから」
少しでも、喜伊さんの心が軽くなるように。
あの優しい微笑みのために。
「それに、私を何歳だと思ってるの? お留守番ぐらいできるよ」
そんな軽口で、笑ってほしくて。
「では、行ってまいります」
深夜に差し掛かる時間。
いつもの格好のまま、喜伊さんは出かける。
「うん、いってらっしゃい」
玄関の前で送り出そうとするが、喜伊さんの動きは緩慢だ。
用意の間も、何度も私に、もしもの話をしてくれた。
今も、何か忘れているのではないかと考えるように私を見ている。
「喜伊さん、大丈夫だよ。それに、なにかあっても私を助けてくれるんでしょ?」
その言葉に喜伊さんは、はにかむ。
「はい、必ず」
お辞儀を一つして喜伊さんは扉を開ける。
思わず身震いするほど冷たい風が通り抜ける。
真っ暗な外。
なぜか、いつもより暗く、怖いと感じる。
喜伊さんは、その闇に溶けていくように歩き出す。
「喜伊さん……気を付けてね」
思わずこぼれた私の言葉に、喜伊さんは何も言わず、会釈だけをした。
扉は、まるで私と喜伊さんの世界を切り離すかのように、閉まっていく。
扉が閉まる瞬間に見えた喜伊さんの顔は、なによりも冷たく、恐ろしく見えた。
───帰ってきてね。
閉じられた冷たく重い扉に触れながら、喜伊さんの無事を祈った。
扉の向こうで、灯お嬢様の気配が遠ざかるのを確認して、足早に目的地に向かう。
月も陰る闇夜。
それに紛れるように動く。
少し肌寒い風が、吹き抜ける。
誰もいない静かな道路。
時折通る車だけが、この世界に音があるのだと感じさせる。
私の足は迷いなく進む。
懐に忍ばせているものに触れる。
冷たい感触。
それが、私を一段と鋭くさせた。
ある家の前に着いた。
二階建ての、周りより少し大きな家。
表札も、家の見た目も、協力者から貰った情報通りだ。
周囲を確認してから、敷地に入る。
障害の類を確認しながら進む。
雨どいをつたい、ベランダへと入った。
窓から室内の様子をうかがう。
人の気配はある。
だが、寝ている。
懐からボーニングナイフを取り出し、ガラスに当てる。
まるで食材を切るように、すっと刃が入り、鍵のある辺りを切り取った。
空いた穴から鍵を開け、音を立てないように室内に入る。
寝室だろう、その部屋に入った。
ベッドにはふくらみが一つ。
ボーニングナイフを懐にしまいながら、近づく。
ベッドでは男───医師が、何も知らずに眠っている。
その呑気な寝顔に、強い衝動が頭をもたげる。
───それは、まだ。
ふっと一つ、息を吐く。
懐に手を伸ばす。
触れる冷たさ。
それは、私にためらいや、慈愛を無くさせる。
音もなく取り出されたそれは、薄明りの中で、鈍く光っていた。




