一房のぬくもり
一櫛、髪に櫛を入れる。
肩まで伸びる長い髪。
今まで何度、私はこうしてきたのだろう。
そして、あと何度できるのだろうか。
想いを。
願いを。
震える手を、必死に抑える。
これからの苦難を。
これから味わう心痛を。
少しでも和らげるように。
───真様。
あなたのお嬢様は、こんなにも。
つやつやと輝いていく黒髪。
あなたのように、ただ守ろうとした。
依頼の通り。
でもそれは、間違っていたのかもしれません。
一櫛、髪に櫛を入れる。
そのたび、お嬢様の決意が熱のように伝わる。
仄かな、風で消し飛びそうな小さな種火。
でも、そこにしっかりある。
あなたの代わりに、私はなれない。
私がするべきことは───。
その種火を守るように。
私は、私の思いを込めて髪を梳く。
髪を梳かし終えるころ、タイミングを見計らったかのように、スマートフォンが振動する。
それが聞こえたお嬢様が振り返る。
私は躊躇いながらも震えるそれを取り出した。
「席を外します」と言いかけ、その言葉を飲み込み電話に出た。
「用件だけ伝えます」
答える間もなく、電話口の女性は焦ったように言葉を発する。
荒々しい息遣い。
それさえも押し殺すように、微かな声で。
「気を付けて……」
遠くから微かに聞こえる、慌ただしい足音。
探すような複数人の声。
「もう宝に手を───ッ!」
ぶつりと小さな悲鳴を残して、通話は途切れた。
それに言いようのない不安が胸をざわめかせる。
───宝。
もうなにも言わない画面を見つめる。
視線を上げると、お嬢様の瞳とぶつかった。
「喜伊さん。大丈夫って言わないで」
何も知らない、お嬢様。
「私は、聞きたいの」
その言葉に、胸が熱くなる。
「いつかじゃなくて、今───」
手に持つスマートフォンに力がこもる。
───真様。
あなたから受けた依頼を、後悔したこともあった。
慣れない育児に、戸惑ったことも。
でも。
受けてよかったと、そう思う。
梳いた髪を、そっと一房持ち上げた。
さらさらと指の間をこぼれていく。
微かなぬくもりの残る手をゆっくり閉じる。
そのぬくもりを零さないように。
「かしこまりました……灯お嬢様」
頭を下げず。
お嬢様との未来を抱えて。
ぬくもりの残る手を胸にあてながら。




