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静かな祈り

「そこまでなさる義理は、ないはずですから」

───優しさを感じ取れないほど、冷えた喜伊さんの声。


それは偶然だった。

盗み聞きしようとかではなく、自分の部屋に戻ろうと喜伊さんの部屋の前を通った時に聞こえてきた声。

少し席を外すと言って、スマートフォンをもってリビングを離れた喜伊さん。


「真様は……」

父の名前が出てきて、胸がドキリとする。

思わず、扉の前で止まってしまう。


「……」

それ以上、声は聞こえなかった。

ただ、声のトーンが一つ小さくなった気がした。


私の存在に気が付いたのかもしれない。

私は何事もなかったかを装って、自分の部屋へと向かった。

胸の鼓動を抑えながら。


喜伊さんは何事もなかったかのように、リビングで家事をこなしている。

椅子に座ると、そっと目の前にコップを置いてくれる。

微笑む表情はいつもより硬い……気がする。

電話の後は特に。

喜伊さんとの距離が一歩離れたように感じる。


「喜伊さん」

声をかけると、いつものように傍で微笑んでくれる。


「……大丈夫?」

何度も問いかけた言葉。

その返答も、私は知っている。


「えぇ。大丈夫ですよ」

同じ微笑み。

いつも通り。

それで、終わり。


───だけど。


「喜伊さん、教えて。その”大丈夫”は、私は知らなくていい”大丈夫”なの?」

喜伊さんの動きが止まる。


「それを私は知ったらいけないの?」

喜伊さんの手が腰の前で組まれる。

言葉を選ぶように少し逡巡する。


「お嬢様が知る事により、状況は変わる事はありません。むしろ、選択肢が狭まり、短絡的なお考えや、いらぬ心痛を与えてしまうかもしれません」

冷たい。

けれど、それでも私を思っていると分かる言葉。


「あなたを支える者としては、言わないという選択肢しかございません」

少し考えるように、言葉を一度止めた。


「ですが、お嬢様。それでも、知りたいと仰るのであれば」

喜伊さんの目がまっすぐ私を見る。

私の心を見透かすような瞳。


「お伝えいたしましょう」

あの時と同じ目。

私の覚悟を試すような。

迷いながらも。


「……私は、知りたい」

その言葉に、喜伊さんは目を閉じた。

ほんの数秒にも満たない時間。

私にはそれが何倍にも感じた。


「かしこまりました、お嬢様」

いつものように恭しくお辞儀をする。

それがいつもより、深いお辞儀のように感じた。


「その前に、御髪を整えましょうか。今朝はしていませんでしたね」

私の後ろに回り、髪に櫛を入れる。


その手つきはいつも通り優しいが、少し力がこもっている気がする。

櫛が髪を梳く音が静かに響く。

そのたびに、頭皮がわずかに引かれる。


一櫛、一櫛。


願うように。


一櫛、一櫛。


祈るように。


櫛が黒髪をすべり落ちていく。


櫛に流れる黒髪。

梳くたびに、私の心に何かが積もっていく。

喜伊さんの想い、願い、優しさ。

それが私を強くしてくれる。

その強さと共に、私は羽ばたく為の一歩を踏み出した。


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