背中の優しさ
目が覚める。
服に袖を通し、最後にエプロンの紐を締めた。
息を一つ吐く。胸の奥の重いモノを、一緒に吐き出すように。
お嬢様が起きないように静かに移動する。
お嬢様の部屋の前で止まり、扉の前で様子をうかがう。
落ち着いた雰囲気が、穏やかに眠っていることを確認し、台所へと向かった。
いつものように朝食を用意していると、起きてくる気配を感じた。
料理の手を止め、出迎える。
「おはようございます、お嬢様」
まだ寝癖の残る我が主に、深く頭を下げた。
席に着いたお嬢様の前に朝食を並べていく。
トースト二枚に添えられたジャム。
ハムエッグとサラダ。
コーヒーにヨーグルト。
と、用意したところで、思わず手が止まる。
「喜伊さん?」
不思議そうに、出されたコーヒーへとお嬢様が目を落とす。
「すいません、お嬢様。……牛乳でしたね」
少し、ぼうっとしてしまっていた。
お嬢様は首を振る。
「いいよ、喜伊さん。ちょっとだけ牛乳を入れて。カフェオレにして飲むから」
いつもしない失態に、少し動揺をしながらも、コップを下げる。
───珍しい。
自分でもそう思う。
いつも通りをしようとして、意識しすぎたのか。
コーヒーの量を調整しながら、牛乳を注いでいく。
昨日の電話の内容が頭をよぎる。
思わず、震えてもいないスマートフォンに触れた。
───そう、今はまだ。
主が不安にならないように。
お嬢様は、いつも通り朝食を頬張っている。
それが何より、嬉しい。
つかの間の平穏。
それをできるだけ長く味わってほしい。
カフェオレを運びながら、そう願った。
表面上は、いつも通りだ。
昨日の電話の事を思い出す。
話し終わった後も、しばらくその画面を見つめていた。
声をかけても、いつも通り微笑んで「大丈夫です」としか言わなかった。
その声がいつもより低かった。
さっきも、いつもは牛乳なのにコーヒーを出した。
なんとなく、分かるようになった。
たぶん、何かが進んだ。
私に関わる何かが。
それも、大きく。
でも、それはまだ、私には言えない。
言っても、私は何もできない。
喜伊さんの微笑みと、沈黙がその答えだ。
優しさと、少し棘のような痛みを伴う。
以前の私なら、その痛みに耐えられず、沈黙の答えを求めていたと思う。
でもね、喜伊さん。
いつかは話して欲しい。
喜伊さんだけではなく、私にもその重みを分かち合ってほしい。
喜伊さんの背中を見ながら、そう願った。




