指先の温度
雨が降りそうな曇天の中。
喜伊さんは私の斜め前を歩く。
どこに行くの?
何度も聞こうと思ったが、それを躊躇うようなピリピリとした空気を纏っていた。
私のわがままに怒っているのではない。
何かが起ころうとしているのを、警戒しているように思える。
たまに目が合うと、微笑みを返してくれるが、会話らしい会話はない。
雑踏の中で二人だけ、違う世界に来たかのような疎外感を感じた。
これから何が起きるのか。
何が待ち受けるのか。
喜伊さんの背中を見る。
いつもの背中。
だけど、いつも以上に頼もしく、大きく見える。
───お嬢様の武器は、喜伊であることをお忘れなきよう。
私は使えるのだろうか。
躊躇なく「打ち倒せ」と言えるのだろうか。
今はまだ、答えは出ない。
そんな私の考えとは裏腹に、歩く速度は変わらず、目的地へと進んでいく。
住宅街からオフィス街へ。
オフィス街から歓楽街へ。
まだ明るい事もあり、人気はほとんどない。
「お嬢様」
父さんの家を出てから初めて、喜伊さんは立ち止まった。
振り向かず、前を向いたまま口を開く。
「これから向かう場所は、私も入った事がない、聞いたことがあるというだけの場所です」
一拍、間が空く。
私は黙ってその背中を見つめた。
「もしかしたら、得るものがないかもしれません。ですが、きっといくべき場所だと思います」
迷いが滲むような声。
私は迷うことなく、その背中に「行こう」と声をかけた。
薄暗い路地をしばらく歩くと、ぽっかりと地下へと続く階段が見えてきた。
電灯はあるが、電気が通ってないのか、暗いままだ。
壁面は落書きだらけで怪しげな雰囲気が漂っている。
十段ほど階段を下りると木の扉が見えてきた。
まるでその扉の部分だけがタイムスリップしたかのように年代を感じさせる古い扉だ。
だが、素人目にも分かる上質な木材で作られており、上等な彫刻まで彫られている。
そのドアに吊り下げられたcloseの看板。
「少々お待ちください」
そう言って喜伊さんは扉のノブのあたりをカチャカチャし出した。
数分もしないうちに、ガチャリと音がして鍵の開く音がした。
「では、入りましょうか」
驚いている私に気にすることなく、扉を開いた。
薄暗い店内。
喜伊さんは天井付近をキョロキョロしながら奥へ進んでいき、ブレーカーらしきものを見つけ、パチンっと操作した。
その途端、薄暗い店内に明かりがついた。
5、6人ほど入ればいっぱいになる手狭な店内。
年代を感じさせられる一枚板で作られたカウンター。
カウンター奥の壁面に沿わすように並べられた棚。 その棚に所狭しと並べられた酒瓶の数々。
BARだ。
人が入らなくなって数年とかではないだろう。
もっと長く出入りがないことを、カウンターに積もったホコリが物語っている。
その空間を見渡す。
初めて来たはずだ。
なのに、なぜだろう。
なにか懐かしいような温かい気持ちと、少しだけ切ない気持ちになる。
「ここは、旦那様がよく仕事帰りに寄られたお店だと聞いております」
店の奥から喜伊さんが現れた。
手に持った写真立ての埃を払う。
「そして、ここの主がこの方だと」
渡された写真に目を落とすと、父さんと、見覚えのある女性が写っていた。
父さんの家で見た写真より、二人とも少し若い気がする。
私であろう赤子は写っていない。
「ここで、父さんが……」
カウンターに指を滑らせながら歩く。
数歩で店の奥に着いてしまうほど、狭い店内。
店の一番奥の席の、背もたれに触れた。
父さんのマンションとは違って、見たことも触れた記憶もない。
なのに、なぜだろうか。
この空間にいればいるほど。
物に触れるほど。
なぜ、私はこんなにも胸が熱くなって、涙が溢れそうなほど切ない気持ちになるのか。
写真に目を落とす。
「この人が……」
父さんと女性。
私の知らない顔をした、父さん。
その隣で笑う女性。
「旦那様は灯お嬢様の出自については何も言いませんでした。ですから、私にはなんとも……」
何も答えられなくて申し訳なさそうに、歯切れが悪い。
そんな喜伊さんの言葉に首をふる。
「ありがとう、喜伊さん。連れてきてくれて」
決定的なことは、何もわからない。
だけど、何かが、わかった。
私の中の、心のピースが一つ埋まったような気がした。




