表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/21

奥底のぬくもり

夜が明けるのを待って、喜伊さんは私を連れて外へ出た。

「ついて来て下さい」

それだけを告げて、喜伊さんは歩き出した。

私は理由を聞かず、その背中についていった。

喜伊さんの声の固さに、一抹の不安を覚えながら。


ほどなく歩いて、どこにでもありそうなマンションへと着いた。

そのマンションを見上げる感覚に、デジャブを覚える。

中に入って、その感覚は間違いではなかったと気づいた。


私は通ったことがある。

この階段も、部屋へと続く廊下も。

よくあるマンションの造りだが、それでも、この空気が私の記憶を掘り起こす。

喜伊さんは慣れた手つきで、鍵を取り出し、部屋へと続く扉を開けた。


父さんの部屋にも似た空間。

最低限の物しか置いていない、がらんとした室内。

部屋の真ん中にある机の上には、先ほどまで作業していたかのように、タオルや工具がきちんと揃えられて置かれていた。

今も静かに、使用する主を待つように。


「私、知ってる……」

おぼろげな記憶が蘇える。

足元を照らす小さなライト。

私はそれを頼りに、夜トイレへ行った記憶がある。


部屋に備え付けられた小さなタンス。

私はそれに触れた感触も、覚えている。


「ここは、旦那様が仕事を始める前、そして終えられた時に使用していた部屋です」

私の背中に、喜伊さんの声が届く。

「お嬢様が幼い時、ほんの少しではありましたが、過ごしていた場所でもあります」


その声に、私の思いは間違いなかったと確信した。


「公私を分ける為……いえ、お嬢様を守る為に、ほどなく今の住居へと引っ越しました」



その記憶をなぞるように、タンスへと触れる。


その上に飾られた、小さな写真立て。

幼い私を抱き、微笑む父。


こんなにも、幸せそうな笑顔を、私は見た事がない。


その隣に立つ女性。

喜伊さんではない。

見たことも、会ったこともない。


───けど。


「お母さん……?」


その顔を、その笑顔を見ると、何とも言えない温かな気持ちが私の胸に広がる。

どんな声だったのかも、分からない女性。

それでも、確かな温もりだけが、私の中に残っていた。


「私も、旦那様とその女性の関係については詳しくは知りません。旦那様は……その話を、ほとんどなさりませんでした」

いつのまにか喜伊さんは、私の横に立ち、同じように写真を見ていた。

「ですが、その女性の事は知っています」

はじかれるように喜伊さんを見る。

喜伊さんは私をじっと見返す。

ためらうように、瞳の奥が揺れている。

「旦那様の同業の方で、そして───同じように亡くなられました」


───同じように。


その言葉に、心臓を掴まれた。

息をすることさえ、忘れてしまう。


「お嬢様」


放心する私に喜伊さんは語りかける。

写真立てを強く握りしめる私の手を、そっと包みながら。

その手は、いつもと同じ柔らかさと、確かな強さを持っていた。


「あなたに覚悟は、おありですか?」

確かめるような、強い言葉。

思わず喉が鳴る。

「隠されているものを追い求めるということは、知ろうとすることは、知られたくない者がいるということです。それを防ごうとする者、排除しようとする者もいるでしょう」

喜伊さんは目をそらさずに、私を見る。

「この手の届く範囲であれば、お守りすることはできます。ですが、自ら危険に飛び込もうとすることを守るには限界があります。お嬢様を守る為に、私は───間違いなく死にます」

自分の死を告げる声は、淡々としていた。

まるで他人事のように。

それが当然の結果であるかのように。

「私は、死ぬのが怖いのではありません。私の死によって、お嬢様が生きて下さるのであれば、喜んでこの命を捧げましょう。ですが───」

包む手に、力がこもる。

痛みを伴うほどに。

「ですが、私は……残されるお嬢様が、どのような扱いを受けるのか。どのような苦しみを味わうのか。それが───」

喜伊さんの顔が苦痛に歪む。


「それが、何よりも……つらうございます」


今にも泣きだしそうな声で、すがるように。

お願いだから、ここで終わってほしい。

そんな想いが、痛いほど伝わってくる


「お嬢様……」


それ以上、喜伊さんは何も言わなかった。

言えないのだ。

これが、喜伊さんにとっての最大の懇願。

この立場で差し出せる、精一杯のお願いなのだと。


「喜伊さん」


その手を、そっと包み返す。


これから言おうとする言葉が、どれほど残酷で、どれほど喜伊さんを絶望させるものか。

分かっている。


───それでも、私は。


「それでも、それでもね。私は知りたいの」

喜伊さんの目が悲しく揺れる。

今にも泣きだしそうに、顔が歪む。

「わがままだって分かってる。喜伊さんを苦しめてるって。でも、でもね……」

目をそらさない。

そらすことは、許されない。

こんなにも、自分の気持ちをさらけ出してくれた人に、私も、応えたかった。

私の、決意を聞いてほしくて。

「このまま、何も知らずに過ごすのは、許せないの。何も知らず、見ないふりをするなんて」

私は遠回しに、「死ね」と言ってるのだろうか。

そんな罪悪感が、胸を締めつける。


「そんな私を、私が許せないの」


それでも。

私の中に灯った火は、立ち止まる事を許さなかった。


───ごめんね、喜伊さん。


胸の中で、そう謝りながら。


ここまで読んでくださりありがとうございます。

徐々に明かされていく、灯の知らない過去。

そして、ゆっくりと成長していく灯。

灯の成長と共に、徐々に関係性が変わっていく喜伊。

それを楽しんでいただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ