奥底のぬくもり
夜が明けるのを待って、喜伊さんは私を連れて外へ出た。
「ついて来て下さい」
それだけを告げて、喜伊さんは歩き出した。
私は理由を聞かず、その背中についていった。
喜伊さんの声の固さに、一抹の不安を覚えながら。
ほどなく歩いて、どこにでもありそうなマンションへと着いた。
そのマンションを見上げる感覚に、デジャブを覚える。
中に入って、その感覚は間違いではなかったと気づいた。
私は通ったことがある。
この階段も、部屋へと続く廊下も。
よくあるマンションの造りだが、それでも、この空気が私の記憶を掘り起こす。
喜伊さんは慣れた手つきで、鍵を取り出し、部屋へと続く扉を開けた。
父さんの部屋にも似た空間。
最低限の物しか置いていない、がらんとした室内。
部屋の真ん中にある机の上には、先ほどまで作業していたかのように、タオルや工具がきちんと揃えられて置かれていた。
今も静かに、使用する主を待つように。
「私、知ってる……」
おぼろげな記憶が蘇える。
足元を照らす小さなライト。
私はそれを頼りに、夜トイレへ行った記憶がある。
部屋に備え付けられた小さなタンス。
私はそれに触れた感触も、覚えている。
「ここは、旦那様が仕事を始める前、そして終えられた時に使用していた部屋です」
私の背中に、喜伊さんの声が届く。
「お嬢様が幼い時、ほんの少しではありましたが、過ごしていた場所でもあります」
その声に、私の思いは間違いなかったと確信した。
「公私を分ける為……いえ、お嬢様を守る為に、ほどなく今の住居へと引っ越しました」
その記憶をなぞるように、タンスへと触れる。
その上に飾られた、小さな写真立て。
幼い私を抱き、微笑む父。
こんなにも、幸せそうな笑顔を、私は見た事がない。
その隣に立つ女性。
喜伊さんではない。
見たことも、会ったこともない。
───けど。
「お母さん……?」
その顔を、その笑顔を見ると、何とも言えない温かな気持ちが私の胸に広がる。
どんな声だったのかも、分からない女性。
それでも、確かな温もりだけが、私の中に残っていた。
「私も、旦那様とその女性の関係については詳しくは知りません。旦那様は……その話を、ほとんどなさりませんでした」
いつのまにか喜伊さんは、私の横に立ち、同じように写真を見ていた。
「ですが、その女性の事は知っています」
はじかれるように喜伊さんを見る。
喜伊さんは私をじっと見返す。
ためらうように、瞳の奥が揺れている。
「旦那様の同業の方で、そして───同じように亡くなられました」
───同じように。
その言葉に、心臓を掴まれた。
息をすることさえ、忘れてしまう。
「お嬢様」
放心する私に喜伊さんは語りかける。
写真立てを強く握りしめる私の手を、そっと包みながら。
その手は、いつもと同じ柔らかさと、確かな強さを持っていた。
「あなたに覚悟は、おありですか?」
確かめるような、強い言葉。
思わず喉が鳴る。
「隠されているものを追い求めるということは、知ろうとすることは、知られたくない者がいるということです。それを防ごうとする者、排除しようとする者もいるでしょう」
喜伊さんは目をそらさずに、私を見る。
「この手の届く範囲であれば、お守りすることはできます。ですが、自ら危険に飛び込もうとすることを守るには限界があります。お嬢様を守る為に、私は───間違いなく死にます」
自分の死を告げる声は、淡々としていた。
まるで他人事のように。
それが当然の結果であるかのように。
「私は、死ぬのが怖いのではありません。私の死によって、お嬢様が生きて下さるのであれば、喜んでこの命を捧げましょう。ですが───」
包む手に、力がこもる。
痛みを伴うほどに。
「ですが、私は……残されるお嬢様が、どのような扱いを受けるのか。どのような苦しみを味わうのか。それが───」
喜伊さんの顔が苦痛に歪む。
「それが、何よりも……つらうございます」
今にも泣きだしそうな声で、すがるように。
お願いだから、ここで終わってほしい。
そんな想いが、痛いほど伝わってくる
「お嬢様……」
それ以上、喜伊さんは何も言わなかった。
言えないのだ。
これが、喜伊さんにとっての最大の懇願。
この立場で差し出せる、精一杯のお願いなのだと。
「喜伊さん」
その手を、そっと包み返す。
これから言おうとする言葉が、どれほど残酷で、どれほど喜伊さんを絶望させるものか。
分かっている。
───それでも、私は。
「それでも、それでもね。私は知りたいの」
喜伊さんの目が悲しく揺れる。
今にも泣きだしそうに、顔が歪む。
「わがままだって分かってる。喜伊さんを苦しめてるって。でも、でもね……」
目をそらさない。
そらすことは、許されない。
こんなにも、自分の気持ちをさらけ出してくれた人に、私も、応えたかった。
私の、決意を聞いてほしくて。
「このまま、何も知らずに過ごすのは、許せないの。何も知らず、見ないふりをするなんて」
私は遠回しに、「死ね」と言ってるのだろうか。
そんな罪悪感が、胸を締めつける。
「そんな私を、私が許せないの」
それでも。
私の中に灯った火は、立ち止まる事を許さなかった。
───ごめんね、喜伊さん。
胸の中で、そう謝りながら。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
徐々に明かされていく、灯の知らない過去。
そして、ゆっくりと成長していく灯。
灯の成長と共に、徐々に関係性が変わっていく喜伊。
それを楽しんでいただければ幸いです。




