小さな奇跡の毎日
それからの日々、ご主人は少しずつ変わっていった。
最初はほんの小さなこと。
布団の上で体を起こして、ぼくの頭をぽん、と撫でてくれた。
その手はまだ少し冷たかったけれど、
触れた瞬間、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
数日後には、キッチンへ向かう足音が聞こえた。
床の上をすり足で歩く、ゆっくりとした音。
ぼくは慌ててついていって、足もとをぐるぐる回った。
「クロ、危ないよ」
そう言って笑う声が、久しぶりに部屋の中を満たした。
ご主人はコップに水を入れて、喉を鳴らして飲んだ。
その音が、ぼくにはまるで“生きてる”っていう音に聞こえた。
やがて、窓が開いた。
冷たい風が入り込み、カーテンをやさしく揺らす。
長いあいだ閉ざされていた空気が、ようやく動き出した。
外の匂い――草と陽の光の混ざった匂いが部屋に広がり、
ぼくはたまらなくうれしくなって、
カーテンの影に顔をすり寄せた。
そして、ある日のこと。
ご主人は小さな音で湯を沸かし、湯気の立つポットを持っていた。
ぼくはテーブルの上に飛び乗って、その様子をじっと見つめた。
湯気の向こう、ご主人の顔がふわりと笑っている。
その笑みは、あの日以来、ずっと見たかったものだった。
「クロ、ちょっと熱いけど……お茶にしようか。」
その声がやさしくて、ぼくは喉を鳴らした。
――もう、大丈夫かもしれない。
そう思った。
ご主人がカップを両手で包むように持つ姿を見ながら、
ぼくはそっと足もとに身体を丸めた。
湯気の匂いと一緒に、幸せの匂いがした。




