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トライフォード伯爵家のじゃない方の令嬢の幸福

最後の歌詞が長く高々と歌い上げられ、どうだ、と言わんばかりにぴたりと止まると、一瞬の間を置いて公爵家のサロンは割れんばかりの拍手に包まれた。夢中で手を叩きながら、涙ぐんでいる方までいらっしゃる。


この日のトリを飾った妹のシンシアが恥ずかし気に一礼すると、周囲に座っていた方々が次々と席を立ち、彼女の許へと押し寄せた。


今日の主役に賛辞の言葉を述べることすら長い順番待ちになるだろう。


出遅れた方々は人だかりの少し外側で母を取り囲んでいる。身内はこんな時には自然と妹の代わりとなってしまう。出席者が多いせいで、こちらに集まる人数も多い。


「本当にまあこれこそ天使の歌声ですわ」

「シンシア様はでもピアノもお得意なのでしょう?」

「ありがとうございます」


母一人ではお相手しきれない人数と思い、やむを得ずわたしも支援要員として席を立った。


「まあアリア様。妹さん、噂に違わぬお声でしたわ。こんなに感動したのは何年振りでしょう」

「ありがとうございます。妹に伝えさせて頂きますわ」

そうお応えすると、母と同じ年頃の夫人は少し気遣わし気な微笑みを浮かべた。

「アリア様のピアノも素晴らしかったですわ」


同調するように微笑む母と周囲の方々に「ありがとうございます」と笑顔で一礼する。

自分でも悪くない出来栄えだったとは思うけれど、わたしのピアノにシンシアの歌のように聴く人の心を震わせる力はない。


マコーニー公爵夫人の茶会と併せてこの日開催されたのは、貴族の子弟が出演者となる音楽会。

芸術をこよなく愛する公爵夫妻の歓心を買おうと、息子や娘の腕に自信のある家はこぞって参加を申し出ていた。貴族が領地を離れて王都のタウンハウスに集まる社交シーズンである。そもそもみんな、人脈を拡げに王都に来ている。公爵家とお近付きになれる稀な機会を逃す手はない。


ただ我が家からはシンシアが出演するのだから、本来わたしまで出る必要はなかった。

わたしは本当は一聴衆でいたかったのに、両親に勝手にピアノ奏者としての参加を決められてしまったのだ。


―――――善意なのは分かっているの。


両親は妹ばかりが注目を浴び過ぎないよう、いつもそこはかとなくわたしに気を遣ってくれている。今わたしの演奏を褒めて下さった皆様も。


でもそれが善意で優しさなのだと分かっていても、気を遣われると却って惨めな気持ちになってしまう。変に気を回されるくらいなら家にいたかった、と思う。


四つ年下でデビューもまだにも拘らず、妹のシンシアの噂は社交界に知れ渡っている。今日もシンシアは、公爵家の方から請われて演奏会に出演することになったのだ。


シンシアは何もかもが突き抜けている。


歌ばかりではないのだ。芸術的才能も、頭脳も、天使のような美貌も、あらゆることで平均を大きく上回った。


わたしだって貴族令嬢として決して悪くはない。大体のことは人並み以上に出来たし、容姿も美人と言える部類だと思う。

でも「神の贈り物」とまで言われるシンシアと並べられてしまうと、道端の石ころのように存在が霞んでしまう。


近頃ではわたしは「トライフォード家のもう一人の令嬢」と呼ばれるようになっている。

せめてわたしの方が妹だったなら、「もう一人の令嬢」と言われても少しは言い訳が立ったのに。

残念ながらわたしは姉で、それにも拘わらず「トライフォード家の令嬢」と言えば、今ではシンシアのことだった。


「姉上」

「ブロディ」


やはりシンシアの代わりに主に男性達に囲まれていた弟がわたしに声を掛けて来たのは、それからしばらく経ってから。


そもそもが「夫人同士のお茶会」だった今日の会には本当は演者以外の男性は招待されていないのだけれど、どの家も公爵家との縁を作るために、出演者の付き添いだの友人だのという苦しい名目で跡継ぎ息子を送り込んでいる。我が伯爵家もご多分に漏れず。


二歳年下のブロディの笑顔を見ると、わたしはほっとする。ブロディだけは気遣い抜きの純粋な笑顔をわたしに向けてくれていると感じるから。


「随分囲まれていたわね。どうせシンシアを紹介してくれって言われてたんでしょ?」

「もうほんっとしつこくて。自分の顔見て出直せって言っていい?」

「駄目に決まってるでしょ」


なんて無礼なことをと思ったけれど、日頃から会う男性会う男性にシンシアのことを尋ねられているのだろうブロディの苦労を思うと、同情を禁じ得ない。


シンシアはまだ十五歳だけれど、この先とんでもないお相手との縁談があってもおかしくはない。


さっきまでステージだった会場の前方にいるシンシアの方を見ると、マコーニー公爵夫人がまるで自分が親であるかのようにぴったりとその横に付いていて、周囲を囲む人達の相手をしていた。


主催者がああしてくれていると助かる。


いつも人が集まる場所では、家族の誰かがずっとシンシアのガードをしていなければならなかったから。


シンシアには悪いけれど、お蔭でわたしとブロディは今日は食事を楽しめそう。舞踏会が開かれることもある広いホールには薔薇色のクロスが華やかに掛けられたテーブルが幾つも配されていて、ぎっしりと並べられた銀のトレイには、見た目にも美しいお茶菓子や軽食が盛り付けられている。


と。


「アリア、ブロディ」


母の呼ぶ声がして振り返ると、母の横にフェーカー伯爵夫人がいらっしゃった。


「お久しぶりでございます、フェーカー伯夫人」


姉弟で一礼しながらもう一人はどなたかしらと考える。フェーカー夫人の隣に長身の男性が立っていたのだ。


二十代半ばくらいかしら。柔らかな金色の髪に憂いを含む青紫色の瞳。人目を引く整った容姿をされているけれど、見覚えがない。


「アリア、ブロディ。こちら次期フェーカー伯爵のエッセン様です。ずっと留学されていて先日帰国されたばかりだそうよ」


どうりで見覚えがない筈。

母が「こちら娘のアリアと息子のブロディです」と紹介する声を聞きながら二人で再度一礼した。


「アリア=トライフォードでございます」

「ブロディ=トライフォードです」


次期伯爵同士で交流を深めておくのはいいことね。


わたしはそれから、わたしより更に五つ年上だと言うエッセン様と弟のブロディの間を取り持つように会話を運んだ。


わたしの助けなんてなくてもブロディは話上手で人の懐に入り込むのが上手い子なんだけど、この時はブロディは変に素っ気なくて、わたしは場を盛り上げるのに苦労した。


⍦⍦⍦


「お疲れ様シンシア。お腹空いたでしょう?」

「はいお姉様」


帰宅の馬車の中で妹をねぎらうと、シンシアは疲れた表情で微笑わらった。


「また何も食べられなかったんでしょう?わたしの夕食のデザートはあなたにあげるわ」

「本当?!」


ぱあっと笑ったシンシアは、我が妹ながらとんでもない美少女だ。


水色の瞳に明るいブロンド、白磁のような肌と、全ての色が明るいシンシアがそんな表情かおで笑った時には、まるでそこで光が弾けたかのように見える。


髪も瞳もダークブラウンのわたしは、せめてわたしも金髪だったらよかったのにと思う。わたし達きょうだいは髪の色も瞳の色も下へ行く程明るくて、ブロディは茶味がかったブロンドの巻き毛にとび色の瞳をしている。


「僕のもあげるよ、シンシア」

「本当、お兄様。わたしもうお腹ぺこぺこで」


ブロディがわたしに続くと、シンシアは嬉しいと言うよりほっとした様子を見せた。可哀想に、本当にお腹が空いているのね。


「一度に食べ過ぎではなくて?」


母が苦笑し、車内が和やかな笑いに包まれる。空はもう金とオレンジに染まっていて、帰宅したらすぐに夕食の時間だろう。家の者達もみな心得ているから、シンシアのために今日は早めの準備をしてくれている筈だ。


⍦⍦⍦


帰宅すると、わたし達は着替えのために一度それぞれの自室に向かった。廊下でブロディと二人きりになる機会があることは分かっていたので、そのタイミングを狙ってわたしは彼に声を掛けた。


「ブロディ、エッセン様に何か思う所でもあったの?」


エッセン様に対してブロディはずっとらしくもなく不愛想で、あの態度は失礼にならないぎりぎりの線だったと思う。


「あれは姉上との顔合わせだったんじゃないの」

「えっ」


想像もしなかった言葉に驚く。


もう十九歳なのにわたしには未だに婚約者がない。遅過ぎると言う程ではないけれど、遅い方ではあった。でもそう言えば、と違和感を持ったことを思い返す。珍しくあの時、誰もシンシアの話をしなかったのだ。


なぜ思い至らなかったのかしら。もしそうであるなら、ありがたい話だった。


なのに。


「――――――エッセン様が気に入らないの?」

明らかにそんな雰囲気のブロディに尋ねると、弟は肩をすくめて見せた。

「――――――姉上にはもっといい相手がいると思う」


いい相手って、と困惑する。


フェーカー家は我が家と同じ伯爵家で、家格も領地の経済規模も似たようなものだった筈。そこの跡取り息子で年齢も釣り合いが取れていて、更に見目までいいかただなんて、なかなかないくらいのいいお話だと思う。


これ以上って、王族か公爵家を狙えとでも言うのかしら。シンシアならまだしも、とても無理だと思うのだけれど。


この時にはブロディの不機嫌の理由は分からなかった。


そうこうしている内に本当にお父様達からエッセン様とわたしとの婚約の予定を聞かされ、それからひと月の内に、本当にわたしはエッセン様の婚約者となったのだった。


ブロディはやっぱり気に入らない様子でその理由は分からないままだったけれど、自分の結婚に大きな期待をしていなかったわたしはこの縁談の条件の良さに少しだけ浮き立った。


わたしの縁談が遅かった原因とわたしが結婚に期待を持てなくなった原因は、実はシンシアにある。


だって家格や年齢が釣り合うお相手が何人いたとしても、トライフォード家の二人の娘の内どちらが望まれるかと言えばシンシアだったから。


よく考えたら、いっそシンシアの婚約を先に決めてしまった方がわたしにもいい縁談が回ってきたかもしれない。

でも両親は姉のわたしを差し置いて四歳年下のシンシアの婚約を先に決める訳にはいかないと考えていたのだと思う。周囲もそれを察していて、トライフォード家にはなかなか縁談の申し込みがなかった。


取り敢えずいつまでも未婚という訳にはいかないから、先方が高齢とか領地が貧しいとか、何かの引け目があってわたしでもいいと言ってくれる家と話がまとまるのかもしれないと、縁談についてはわたしは半ば諦め始めていたのだ。


シンシアが悪い訳ではない。


もはやこれは運命で仕方のないことであり、どこであっても嫁いだ先で精一杯頑張ろうという境地になっていたくらいだから、エッセン様との婚約はわたしにとっては望外の恵まれたお話だった。


恋愛期間のない婚約だけれど、貴族の結婚はそういうものだ。


挙式は一年後の予定で、それまでは市井の男女のようにデートを重ねて仲を深めていくことも出来る。


婚約者同士としての交際が始まると、エッセン様は婚約者として過不足なく適切に振る舞って下さった。そうやって互いに尊重し合い、誠意をもって向き合えるなら、それで充分だった。


初めて親族以外の男性にエスコートされて出席するパーティー。我が家を訪問して下さった時に、花を添えて渡されるちょっとした贈り物。お返しに何かを贈ろうと頭を悩ますひととき。どれも初めての経験で胸がときめいた。エッセン様は人目を惹く美しいお姿をされていたので、友人達に「羨ましい」と言われるのもこそばゆかった。


家族ではない人がシンシアではなくわたしを見てくれることも嬉しかった。


諦めかけていた幸福の訪れに、わたしは舞い上がっていたのだ。


エッセン様とわたしはいい夫婦になれる。


―――――――――その日まではそう思っていた。


その日わたしは親しくなった子爵令嬢にお茶に招かれ、馬車で子爵邸を訪れた。そして屋敷の玄関先で馬車を降りると馬車回しにもう一台、見知った馬車が停まっていたのだった。


「これはアリア様」


すっかり顔馴染みとなっていた御者が、慌てて御者台を降りて一礼してくれる。


「エッセン様がこちらに?」

「はい。今こちらのご子息様とあちらの方に」


手で示してくれた方を振り返って見たけれど、エッセン様の姿は見付けられなかった。

子爵家のタウンハウスはささやかな大きさだったけれど庭が見事で、前庭にも大きな植栽や飾り柱が幾つもあり、それが視線を遮っている。


子爵令嬢にはお兄様がいらっしゃった。エッセン様とそのお兄様が友人だったのも、この時エッセン様がその方を訪ねて子爵邸にいらしていたのも、全くの偶然だった。


そんな思わぬ偶然にわたしは心が躍ってしまい、「驚かせてやろう」なんて思ってしまったのだ。まさかの遭遇を「喜んでくれるかしら」、とまで。


玄関先まで出迎えに来てくれた女中さんに事情を話し、わたしは友人に少しだけ待って貰うことにして、エッセン様を探して前庭を歩いた。


迷路のような植栽の中をしばらく歩くと、人の話し声が聞こえた。背の高い植え込みの間から同じ年頃の男性ばかり四人の姿がちらりと見える。


エッセン様と子爵令息のほかに二人も男性がいるとは思わなかった。


貴族社会では紹介されてもいない相手に声を掛けるのはマナー違反。エッセン様にお二人を紹介して貰うという形式ばった段階を踏まなければ、挨拶すらも交わせない。


悪戯いたずらを仕掛けられる状況ではないわ。


引き返した方がいいかもしれない。と、思った時に彼らの会話が耳に入ってしまった。


「まさかお前がトライフォード家の姉の方と結婚するとはな。結婚するなら断然シンシア嬢の方だろう?」

「仕方ないだろう、年齢的に。俺だって妹の方がよかった」

「そんな年齢としまで留学してるからだよ。どうせ向こうでも遊んでたんだろ」


体も心も凍り付く。


数秒経ってからそれでもわたしは、彼らに気付かれないように来た道を引き返した。



ああ、まただ―――――――――――――



みんなシンシアを見ている。



分かってはいる。仕方のないことなんだって。別の家に生まれていれば、せめて性別が違っていればこんなに比べられなかったのにと思ってもそんなこと、神様でもなければどうすることも出来ない。


数年前までは、成長するにつれてあらゆることでわたしを追い抜いて行くシンシアに自分の立場を脅かされる恐怖を感じていた。


その頃は嫉妬に苦しんでいたけれど、でも自分でも得意と自負していたピアノの腕前でさえあっさりとシンシアに追い抜かれた時、いい意味で諦めが付いたのだ。


受け容れざるを得なかった。世の中には努力で埋められないものがあるのだと。


自分を磨く努力を投げ出そうとは思わなかった。


ただシンシアを妬む気持ちや憎む気持ちはその時に捨て去った。


今ではシンシアはわたしの可愛い妹だ。



だけど夫となる人に「妹の方がよかった」と思われている結婚生活を送るのは辛い。



吐きそうだった。



貴族の結婚は家同士の約束だから、簡単に婚約破棄なんて出来ないと分かっている。


でもわたしはもう、彼を愛することは出来ない。



⍦⍦⍦


姉上の様子がおかしい。


結婚が決まってからそれなりに幸せそうにしていたのに。


ここ数日は暗い顔をして、何をしていても上の空だ。エッセンが訪ねて来ても表面的な笑顔を浮かべているだけで、どこか事務的だ。


最初からいい結婚相手とは思えなかったけど、あいつ姉上に何しやがった。


演奏会の時たまたまあいつの顔が見える位置に座っていて、知らない顔があると、紹介される前からエッセンの存在が気に留まってはいた。


シンシアが歌う姿をあいつは食い入るように見ていた。それは誰もがそうだったから、それだけなら俺も問題とは思わない。


問題はそのあとの、あいつを紹介される前。母上とフェーカー伯夫人が姉上と俺の方を見ていることに、俺は少し前から気付いていた。

フェーカー伯爵夫人の隣にエッセンがいるのを見て、もしや姉上の縁談かと、その時点で思った。


そして二人の母親に促された時、あいつが一度嫌そうな顔をしたのを見てしまった。それからあいつはいかにも渋々といった様子でこちらの方に歩いて来たのだ。


姉上の何が不満なんだ、と思う。


学業も礼儀作法も、姉上は何をやらせても優れていたし、姿だって綺麗だ。

シンシアが突き抜け過ぎているせいで目立たないだけで、冷静に見れば姉上程の令嬢はそういないと分かる筈なのに。


何より姉上は優しくて強い人だ。

貴族の夫人として家を任せれば立派に取り仕切るだろう。


なんでそれが分からないんだ。


姉上の価値が分からない男なんかに姉上を渡したくないのに!


やっぱりこの婚約には反対するべきだった。


一度婚約を交わしてしまった以上どうすることも出来ないのかと思うと、じりじりとした焦燥感で胸が灼かれた。



⍦⍦⍦


青紫色のドレスを着せて貰い髪も結って貰って、支度はすっかり終わっていたけれど、わたしは自室の椅子に座ったまま立てずにいた。


今日は我が家が主催の晩餐会。


親しい方達に改めて婚約を報告する目的もあり、予定の時刻にはまだだいぶ早いけれど、主役の片方であるエッセン様はもう到着されていると聞いている。


でも顔を合わせたくなかった。気分が悪いと伝えて貰って、エッセン様には応接室で待機して頂いた。


それでも時刻が迫り、お客様が着き出すとさすがに席を立たない訳にはいかない。


この先もこうやって、表面だけ笑って伯爵夫妻として振る舞わなければならないのかしら。こんな思いで生きていくくらいなら、いっそ婚約を破棄して尼寺にでも入った方がましでは。


そんなことまで考えながら重い足取りで応接室に向かった。そういう会なので、エッセン様とわたしが揃っていなければ格好がつかない。


ところが応接室のドアを叩くと返事がなく、扉を開けてみると中には誰もいなかった。戸惑っているとすぐに女中がやって来て、「エッセン様はお庭に出られています」と教えてくれた。


既に何度も我が家を訪れている彼は、我が家の勝手を知っている。


「ありがとう」とお礼を述べて、彼を迎えに庭へと向かった。


もう日が傾き出していたけれど、庭園に咲き乱れる花の色はまだ目に鮮やかだった。


ここをエッセン様と散策したりガゼボでお茶を飲んだりすることが、ほんの少し前までは楽しかったのに。「思い出」と言うには近過ぎる記憶が甦り、胸が痛くなる。


このままここから逃げてしまおうかしら。


エッセン様がなかなか見つからなかったら、本当にそうしてしまっていたかもしれない。でもわたしは婚約者の姿をすぐに見つけてしまった。


何種類もの薔薇に囲まれたこの一画は、我が家の庭の中でも一、二を争う見どころと言える場所。お客様が庭に出られることを見越して意図的に晩餐会場の近くに配されており、ゆっくりと時を過ごせるようにベンチも幾つか置かれていた。


エッセン様は薔薇の茂みの反対側にいた。黄色い薔薇越しに見えた人はただし、一人ではなかった。


「まさかここで君にお会い出来るとは」


うやうやしく頭を下げる彼の前にいたのは、薄桃色のドレスをまとったシンシア。薔薇と、あでやかな薫りがその場所を包んでいた。


「今日はわたしと姉君のために歌って下さるのだそうですね」

「はい。お二人の幸せを祈って歌わせて頂きます」


シンシアがか細い声で応える。そんな妹に向けられた婚約者の視線は、ねっとりと絡み付くようだった。


「マコーニー公爵邸で初めてあなたの歌う姿を見た時、天使が舞い降りたのかと思いました。あなたが義理の妹になるなんてわたしは幸運だ。シンシアと呼んでも?」

「………」

「わたしのことはエッセンと呼んでくれないか」

「あの……」


微かに体を引いたシンシアの表情には、おびえと緊張が入り混じっていた。目に見えなくとも明らかに存在していた壁を無視して、男が一息で距離を詰める。エッセンの右腕がシンシアを抱き寄せ、左手がシンシアの手を握った。


は?


その時湧きあがった感情は、嫉妬とは全く違うものだった。





わたしの可愛い妹に何してくれてるの?





「手をお離しなさい!」


一喝するとエッセンが弾かれたように飛びのいた。


「お姉様!!」

「誤解だ、わたしはただ……」


皆まで言わせなかった。つかつかと歩み寄ってシンシアとエッセンの間に入ると、わたしは男の左頬を思いっきりひっぱたいた。



⍦⍦⍦


ぱんっ。


鈍い音がしてフェーカー伯爵令息がよろめく。


わたしをかばって真っ直ぐに立つ背中は凛としていて気高くて、女神様と言うより物語の騎士様のようだった。


お姉様との間にぎくしゃくしたものを感じた時期はあった。


理由も分かっていて、自分でも居心地が悪かった。


どうしてか何をやってもすぐに出来るようになってしまって、沢山の方が称賛して下さる一方で、ねたみやそねみの感情を感じることも少なくなかった。他人ひとの視線が怖くて、何かをする時に正直、わざと手を抜くこともある。


でもアリアお姉様だけは、ぎくしゃくしていた時期でさえ公平だった。いつもわたしとお兄様を大切にして下さり、何かが上手に出来た時にはしっかりと褒めて下さった。


それでも今、フェーカー伯爵令息に手を握られてそれをお姉様に見られたと思った時には怖かった。

まさかお姉様の婚約者と言う立場にある人がそんなことをするとは思わなかったし、その行動はただ恐ろしかっただけ。わたし自身は全く望んでいなかったことだ。


だけどお姉様にどう思われてしまうだろうかと。



―――――――でもアリアお姉様は、やっぱりアリアお姉様だった。



「誤解だと言ってるじゃないか!」


大声で喚く伯爵令息の前で、お姉様の背中は微動だにしなかった。



⍦⍦⍦


「誤解だと言ってるじゃないか!」


言い訳が見苦しいと思ったけれど、目撃者がいない。このままだと何ごともなかったかのようにこの男と結婚させられてしまう。


でも妹に手を出そうとした男を、しかも二十四歳で十五歳の子供に手を出そうとするような男を許すことは出来ない。


その時、すぐ横のベンチの上に置かれたグラスが目に入った。微かな香りと色でお酒と分かる。シンシアはまだ飲めないから、エッセンがグラス片手にここまで来たのだろう。


もうお客様がいらしているのに主役が現れないなんて、トライフォード家とフェーカー家の両家にとって恥になる。覚悟の上でわたしはグラスを手に取った。水ならまだ乾けば誤魔化せるかもしれないけれど、お酒は無理。着替えや洗髪の世話を我が家でしなければ取り繕えない。


エッセンが顔を引き攣らせて体を後ろに引いたけれど、逃がさないわ。


ばしゃあっ!


婚約者の頭を目掛けて中身をぶちまける。



「な………!」



エッセンが愕然とした表情で短く声を上げ、それっきり絶句した。


これでもうわたしにまともな縁談は来ないわね。


こちらにとっても大事件だけれど、向こうにとっても大事件。


頭からぽたぽたとお酒をしたたらせたエッセンが思わずと言った様子でわたしに手を伸ばしてきたのと、どよめきが聞こえたのは同時だった。エッセンがはっと後ろを振り返る。全く気が付いていなかったわたしも驚いていた。


色とりどりの薔薇の間に、今日の招待客の方が何人か立っていらっしゃった。


「エッセン君、まさかご婦人に手を上げるんじゃあるまいね。わたし達もだいぶ前から見ていたが」


お父様の友人の伯爵様がおっしゃるとエッセンは一度赤くなり、それから青くなった。


まあ、目撃者がいたなんて。「だいぶ前」だなんて、もしかしてわたしより前なのでは。ではいよいよ取り繕いようがないわね。ごめんなさい、お母様お父様。


「あなたとの婚約は破棄します。お帰り下さい」


きっぱりと言い渡すとエッセンは一度周囲を見渡して、さすがに恥ずかしかったのだろう。それから人々の視線から逃げるようにわたしが来た方向に向かった。


そのまま退場かと思いきや。


エッセンの進路にブロディが立っていた。


次期伯爵同士が無言で向かい合う。


どうなるのかしらと心配になった次の瞬間。なんとブロディの左拳がドスリとエッセンのみぞおちに突き刺さった。呻き声と共にエッセンが崩れ落ち、そのままそこにうずくまる。


まあ。日頃から武芸の腕を磨いているものね。さすがだわ、と驚く。



「お姉様、お兄様……!!」

「大丈夫?シンシア」

「シンシア大丈夫?」


元婚約者は放置して二人で可愛い妹に歩み寄る。


これから大変なことになるだろうけど、もういいわ。妹の方が大切だもの。

お父様とお母様が尼寺へ行けと言うなら行きましょう。


「トライフォード家のもう一人の令嬢」がいなくなったところで誰も困らない。



⍦⍦⍦


わたしはすっかり覚悟を決めていたのだけれど、それから事態は想像もしなかった方向に進んだ。


「アリア様の毅然としたお姿が素晴らしかった」


その日の出来事は社交界であっと言う間に広まって、なぜだかわたしの評判が凄まじく高まったのだ。


ブロディが「シンシアへの狼藉ろうぜき」を誇張気味に話してくれたお蔭で、わたしは家でも罰されなかった。尼寺行きも覚悟していたのにまさかお父様とお母様に「よくやった」とか「誇らしい」とか言われるなんて。


相対的にエッセン=フェーカーの評判は凄まじく悪化した。


こちらも頭からお酒を掛けてみぞおちに一撃入れるなどという随分乱暴なことをしたにも拘わらずフェーカー家からわたしやブロディへの抗議はなく、両家は互いに慰謝料を求めない約束で婚約を解消することとなり、わたしはエッセンの妻となることを免れた。


元婚約者は廃嫡されて再び国外へ出るとかいう噂で、一度の出来心が高くついたわねと少し同情しないでもなかったけれど、エッセンが将来ブロディの敵となるのではと不安を覚えていたわたしは、正直その話にほっとした。



全てが予想外に丸く収まったけれど、婚約者に頭からお酒を被せて結婚が破談になったわたしにもうまともな縁談は来ないわね、と結婚についてはわたしは完全に諦めていた。


―――――――でもそれから程なくして、信じ難いことに、わたしに新しい縁談が持ち込まれたのだ。



―――――――――――――マコーニー公爵家から。



⍦⍦⍦


何度かお父様を介して、つまりは家同士でやり取りを交わした末に、ドミニク=マコーニー様が我が家にいらっしゃった。


社交シーズンは終わりに近付いていて、もうすぐ領地に帰らなければいけないという頃だった。


「二人にして頂いても」


応接室でドミニク様と二人きりで向かい合うことになってしまったのは、ドミニク様がそうおっしゃったから。お父様とお母様は一言の異も唱えず、あっさりと退席してしまった。

わたしは顔を上げられない。


ドミニク=マコーニー様。


次期マコーニー公爵。


あまりに突拍子もないお話に、嬉しいとかそんな気持ちにはなれなかった。


なぜわたしと?

シンシアではなくて?とひたすら困惑し続けていたわたしに、ドミニク様が遂に自ら会いにいらして下さったのだ。


親しいお付き合いはなかったけれど、子供の頃からお会いしたことなら何度もあった。

演奏会の時もマコーニー公爵夫人と共にシンシアに付き添われていたお姿を見ている。


濃いブラウンの髪に黒い瞳のドミニク様は吸い込まれそうに美しい顔立ちをしていて、まともに顔を見ることが出来ない。


「あなたが婚約した時」


まさか最初に前の婚約の話を持ち出されるとは予想していなかったわたしは、どきりとして思わず視線を上げた。ドミニク様とが合うと、なぜだか今度は胸にずん、と衝撃を感じた。


「嫌な話を思い出させてごめん――――――ただあなたが婚約した時、もう取り戻せないのかと思いました。自分は遅過ぎたと後悔したんです。わたしはずっと前からあなたを見ていたので」


わたしを―――――――――――――――――――――?



「ずっとあなたを想っていました」



もう胸が破裂しそうで、頭の中が真っ白になった。


⍦⍦⍦


王都に貴族が集まる社交シーズンは、礼儀作法の実地訓練や交流目的で子供も他家を訪問したりする。


わたしの場合は、どこかに音楽や文学の才能がある子供がいると知ると会いに行きたがる母のお供をさせられることも多かった。


中でもトライフォード家のタウンハウスには、アリアのピアノ目的の母に何度か連れて来られたことがある。


アリアやわたしのピアノで小さな演奏会をしたあとは大抵子供同士で過ごす時間があり、トライフォード家の三きょうだいとは数回一緒に遊んでいる。


その頃からずっと、アリアはわたしにとって気になる存在だった。


幼い弟と妹を可愛がり、常に目と気を配っている優しいアリアは三つ年下なのに大人びて見えて、その姿にどきどきした。


それは子供の頃の思い出で、マコーニー家とトライフォード家にそれ以上の付き合いがあった訳ではない。だが月日が経ち、「そろそろ身を固めることを考えなければ」と言われた時に真っ先に頭に思い浮かんだのはアリアだった。


「意中の相手がいるか」と訊かれて素直にアリアの名を告げた時、トライフォード家の了承さえ得られれば特別問題のない話だと思っていた。なのにこの話は、そこから長く保留されることとなった。


父と母がシンシア嬢との結婚を望んだためだ。


当時シンシア嬢の名前は既に社交界で知らぬ者がない程になっており、特にシンシア嬢の芸術的才能の評判は父と母の心をがっしりと掴んでしまっていた。


でもその時わたしは、子供の頃よりもずっとはっきりとアリアに恋していたのだ。


シンシア嬢がどんどん有名になって行った時、わたしはアリアのことを少し心配していた。

「神の贈り物」とまで呼ばれるようになったシンシアと姉妹に生まれ、否応もなく比較され、何も思わずにいられるものだろうかと。


でもアリアは真っ直ぐだった。


ダンスも教養もピアノも、社交界のどの場所で会っても常に以前より成長していて、真っ直ぐに努力していた。投げやりになることも卑屈になることもなく。


例え妹の陰に隠れて誰の目にも留まらずにいたとしても。


そんなアリアをわたしは本当に好きになってしまったのだ。


シンシア嬢は確かに素晴らしい令嬢だと思う。でも初めて会った時に五歳かそこらで、今もまだ十五歳の彼女はわたしにとっては子供でしかない。結婚相手としては考えられなかった。


シンシア嬢が若過ぎることや、トライフォード家が姉の婚約を妹に優先させる意向であったことはわたしに時間の猶予を与えた。わたしとシンシア嬢を結婚させたくとも、両親も話の進めようがなかったのだ。


分かって貰おうと危機感なくのんびりと両親を説得していたことを後悔している。


どの家もシンシア嬢を狙っていた中で、フェーカー家がアリアをさらって行くなんて思っていなかったのだ!


遅過ぎたと自分を呪った。


その分破談になったと聞いた時には文字通りに飛び上がり、もう二度と遅れは取るまいと思った。


これまでになく強硬に両親を説得した。母があっさりと折れ、一緒になって父を説得してくれたのは予想外だった。


アリアの武勇伝を聞いた母は、すっかりアリアのファンになっていたのだった。


⍦⍦⍦


エッセン=フェーカーと婚約した時、浮き足立つような気持ちがありはしたけれど、「婚約者として誠実に向き合わなければ」という規範意識の方が先行していた。



今なぜ、こんなにどきどきしているの。



息も出来なくなり、ドミニク様の話を聴き終わったわたしはうっかり立ち上がって倒れたりしないように、ソファの上で人形みたいにただ固まっていた。動けない。目を逸らしたいのに瞳もドミニク様の美しいに吸い寄せられたまま一ミリも動かせない。



黒い瞳がわたしを見ている。



――――――――――――このひとはずっとわたしを見ていてくれたのだ。



⍦⍦⍦


緑が鮮やかなトライフォード家の庭を二人が歩いている。子供の頃に何度か一緒に遊んだことがある思い出の庭だ。


自ら結婚を申し込みにやって来たドミニクにアリアがうなずいたのがつい先程のこと。


時折()を見交わしては語らう姉とドミニクの姿を、トライフォード家のもう一人の令嬢が庭の片隅から見つめていた。


苦し気な表情の妹の隣にその兄がそっと寄り添う。


「……――――――沢山持っているんだから、一つくらい姉上に譲ってあげたら?」


優しい口調の兄の言葉に少しだけ哀しそうに微笑んで、もう一人の令嬢はうなずいた。


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