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プラトニック  作者: 島 尚夏
第一部 本仮屋茉莉 編
9/25

第八話 茉莉の手紙

最後まで読んでいただけると嬉しいです!

「もう、またここ間違ってる。このaとbのベクトルの内積がゼロだからって、絶対にaとbが垂直だとは限らないの」

 十八時六分、文芸部の部室。

「うわーそれずっとややこしいんですよね。なんででしたっけ」

「どっちかがゼロベクトルっていう可能性を考慮しないといけないからだね」

「うぅ……数学はもともと苦手だけど、このベクトルの範囲だけはどうしても受け付けないんだよなぁ。なんで数学で絵を描かないといけないんだ」

「小学生の時も、コンパスで円とか描いたでしょ」

「あれはいいんですよ」

「なんで」

「……簡単だから」

「なんじゃそれ。はい、ペン回ししないで考える」

「はいぅ」

 期末テスト前の一週間に入り、俺は珍しく勉強していた。

 前回の中間テストで、何を血迷ったのか二徹スタートという暴挙に出た。最初はよかったものの、後半で力尽き、赤色の点数を複数個取ってしまった。

「無茶な計画を立てるからだよ」と先輩に言われたが、俺は自分の計画に耐え抜けなかった体力と精神力の方を敗因とみている。

 ただ流石に留年の危機を目の前にして事の重大さに気づき、他者の監視のもとで勉強することを決意した。本仮屋先輩の時間を借りて、つきっきりで勉強を教えてもらっている。

「先輩、夏休み何するんですか」

「うーん、勉強と読書かなー。一日ぐらいは、何か楽しいことしたいけどね。でもその甘えが自分の首締めるかもしれないし」

「なるほど、まあよく言いますもんね、夏を制するものはってやつ」

「あれね、あの塾の夏期講習を受けさせるためのむさ苦しいキャッチコピー」

「ずいぶん否定的ですね」

「そんなこともないよ。夏が大事ってのは同意。黒原くんは何するの?」

「僕は……そうですね。読書と波乗りですね」

「波乗り?黒原くん、サーフィンできるの?」

「ネットサーフィンです」

「……そう」

「あー勉強しすぎて頭が回らなくなってきたのかなー。だから面白くないことしか言えないのかなー」

「黒原くんは今日も通常運転だね」

「ほないつもめちゃくちゃおもろないかぁ」

「嘘だよ、二周回って面白い」

「一周じゃ足りないんだ……」

 俺はカフェオレを飲む。先輩はミルクティーを飲む。

「夏休み、三年生は宿題がないからねーそこは気楽だよね」

「……そうですね。僕はまた、最終日に徹夜する気がします」

「私もそんな気がする。学校は夏休みも空いてるんだっけ」

「多分空いてなかった気がします」

「そう、じゃあ黒原くんの勉強を見る頻度はかなり減るね……心配だよ」

「そーう、ですね。でも僕のことは気にせず、夏休みは先輩の勉強をしてください」

「そうするよ」

「他の三年生の方々の様子はどんな感じなんですか」

「うーん、みんなほんとに忙しそうだね」

「やっぱりですか」

「うん、私の友達なんてほとんど休憩なしで勉強してるし。職員室に質問しに行くのが休憩みたいな感じ」

「受験勉強は苛烈ですね」

「黒原くんも大学には行くつもりでしょ」

「そうですね、いけるとこあるのかわからないですけど」

「推薦入試、なんてのもあるらしいね」

「推薦、そうだ推薦で受ければ勉強しなくていいじゃないか!よっし!」

「私の一つ上の学年でね、推薦もらったからって鼻を高くして、志望理由を適当に書いた人が落ちてたよ」

「まさか……志望理由が死亡理由になるとは……ね」

 ……………

 痛いほどの静寂。先輩はこめかみを押さえている。

 どうやら俺の面白くなさは、先輩の理解の外にいってしまったらしい。

 規格外の面白さ。物は言いようである。

 先輩は小さい声で「よし」というとこちらを見た。

「自販機行こっか」


 駅前の時計台。二人でベンチに座って、作戦会議をした夜から数日後、先輩は母親に手紙を渡し、『愛の夢』を贈った。

 先輩は正直、相手にされないと思っていたそうだ。音楽の呪いが、一通の手紙で消えるわけはないと。

 それでもお母さんの体を、先輩が待つピアノの前まで運んだのは、手紙が宿していた優しさと切実さだったのだろう。

 それまでのどんなコンクールよりも緊張した瞬間だった、と先輩は言っていた。

 そのとき先輩が獲ろうとしていたのは、金賞でも審査員賞でもなく、自由だったからだ。でも最初の一音──ミのフラットを押した瞬間、母と娘の二人三脚で歩んできた道が目の前にあらわれて、思い出を辿っているうちに、曲が終わっていた。ペダル合わせ、衣装選び、ご褒美のかばん。

 今の先輩の半分は、きっとその思い出でできている。

 お母さんは、しばらく立ち上がれなかったそうだ。

 泣くに泣いて、ようやく——

 ごめんね、ありがとう。

 と言ったそう。

 先輩も感謝の言葉を返した。もちろん泣きながら。

 俺は先輩の話を聞いていて、嬉しかったしほっとしてもいた。同時に泣き虫なのは親子だな、と思った。

 果たして、先輩は最終バスに乗って帰るようになった。たまに最終下校時刻ぎりぎりになって、先生たちに「早く校門でろよー」って言われて一緒に走る時の先輩の顔。暗がりのバス停で、終バスを待つ先輩の顔。いずれを見ても、先輩は楽しそうだった。

 そしてあるいは、心臓破りの坂をノーブレーキで滑走している時の俺も、今までより一層楽しい顔をしているかもしれなかった。



    お母さんへ


 ただいま。

 今から、お母さんに伝えたいことがあります。

 私は、ピアノをやめたいです。

 やっぱり、他の好きなことをしたいです。

 今まで、お母さんとずっとピアノをやってきました。

 たくさんトロフィーを獲って、テレビに取材されたこともありました。

 本当に楽しかった。最高の気分だった。

 可愛い服とか鞄も買ってもらえて嬉しかった。あとスマホも。

 でも高校生になったぐらいからかな、ちょっと別の感情が湧いてきた。

 これは、本当に私が決めた人生なのかなって。

 物心ついた時から近くにピアノがあって、お父さんもお母さんも音楽家だった。

 だから、私はピアノを弾いた。

 じゃあそこに、私の意志はあったのかなって思うようになった。

 それから色々考えた。

 そもそも子供に何がよくて何が悪いかなんてわからないから、両親が道案内をしなくちゃならない。子供が最初から、自分の行動を決めることなんてできない。そんなことしたら、まともな大人になれない。

 だって、子供には知識も経験も、全然無いから。

 だから、私はピアノを始めたことを後悔なんかしていないし、私にピアノを教えてくれたお母さんとお父さんには感謝しています。

 本当に、心から。

 優越感もあったし、私が最強だと思った。一つのことを頑張る大切さも気持ちよさも理解した。そんな体験をさせてくれた。

 だけど、高校生になって、気まぐれに本を読んでみたの。

 世界が一瞬にして広がった。

 人生は多種多様で、分岐点が無数に用意されていて、それを自分の意志で選ぶことの意味に気づいた。

 今までは、私はお母さんに甘えていた。お母さんが用意してくれた楽譜を、お母さんが教えた通りに弾いていれば、金賞をもらえていた。

 自分でした工夫なんてない。

 頑張ったけど、それは自分の時間を練習に注ぎ込んだだけ。私がした努力は、時間をかけて反復練習したっていうことだけ。

 だから、自分の力で何か頑張りたい。

 切り拓きたい。

 そのために、私はピアノをやめる。

 正直、将来のプランなんて何もない。

 ピアニストになるっていう人生設計を崩すことになるから、また一からやり直し。

 普通に大学に入って、やりたい仕事見つけて、資格とかとったりするのかな。

 でもそれは、いま私が自分で決めたこと。

 自分の決定に、責任を持ちたい。

 自分で決めた夢を叶えたい。

 それが、私の気持ち。

 絶対に揺るがない。

 お母さんが、私にピアノをやめてほしくないって思ってるのはすごくわかる。

 私がもしお母さんの立場なら、正気じゃいられないと思う。

 わかってる。でも、私の気持ちもわかってほしい。

 時間がかかるかもしれないけど、わかってほしい。

 こんなわがままな私の、最後のお願いを聞いてくれますか。

 練習室に来てください。私の夢を聞いてください。

 待っています。


茉莉


ここまで読んでくださってありがとうございます!

第一部はこの話でおしまいとなります。

第二部もぜひ読んでください!

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