第七話 笑い泣き
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八森駅の改札の近くに、大人二人分ぐらいの高さの時計台がある。その周りを囲うようにベンチが設置されていて、俺と先輩は、どちらからともなくそこに腰を下ろした。帰るに帰れなかった。
向こうのビルには、カラオケや雀荘の看板がベタベタと貼り付けられていて、さらにその上にはうっすらと星が見えた。
「どうしますか」
「どうしようね」
バスに乗ってうどんを食べて、俺たちは束の間の休息を、容赦のない言い方をすれば一種の現実逃避をしていたわけだけど。
結局、今のところ何も解決していない。このままではきっと、本仮屋先輩は家に帰ったら母親に怒られ、詰られ、明日は学校に来れないだろう。約束の帰宅時間は、とっくに過ぎているから。この前のこともあるし、また一週間学校に来れない可能性もある。ピアノの練習を、させられるはずだ。
そしてまた、十八時五分のバスに乗って家に帰り、本心に反した毎日を過ごす。
今回の場合、俺がこの状況を好転させることは難しい。まさか、本仮屋宅に乗り込んで、かの母親に対して何か物申すわけにもいかない。仮にそれをできる度胸が俺にあって行動に移したとして、果たしてどんな意味を持つだろうか。
「通学路に、こんないい場所があったなんて、知らなかった」
先輩は、再び本題を避けた。
「もっと時間があれば、気づけたのかな」
「時間……ですか」
「うん、もっと——自由な時間。そしたら、あそこのドーナツ屋さんで友達と試験勉強できたかもしれないし、百貨店でお買い物できたかもしれない。あそこのゲームセンターのUFOキャッチャーに文句を言えたかもしれないし、あのカラオケで馬鹿騒ぎできたかもしれない」
「先輩……でも、まだ時間はあります」
「ないよ。だってもう、高三の夏だもん」
俺の喉がごくりと鳴った。
先輩に残された時間の少なさに、緊張した。
思えば、小学生の時もそうだった。この時間が永遠に続くような気がしていた。中学生になるのはまだ想像できるけど、高校生なんて別の次元の出来事のようだった。
終わってしまえば、あっという間。先輩がなんとなしに地面の小石をコツンと蹴った今この瞬間も、すぐに思い出になる。時計を見た。
時間がない。
「そもそも、先輩のお母さんはどうしてピアノをやらせることにそこまでこだわるんでしょうか。好きなら自分で弾けばいいのに」
「私も最初はそう思った。でもこの前親戚で集まった時に、おばあちゃんと話していて、お母さんが今こうなってる理由がある程度わかった」
本仮屋先輩の母親は、予想通り、自分自身もピアノを弾いていたらしい。家系そのものが音楽一家で、父も兄も母も有名な音楽家だったらしいのだ。
そんな中、自分だけが目立った成績を残すことができず、音大に入学して数年の月日をピアノ一本に賭したが、それでも県のコンクール入賞が関の山だったらしい。これが理由で家族に責められたことは、想像するに難くない。陰口を叩かれ、馬鹿にされたことも一回や二回では済まないようだ。
家系と能力、努力と結果のギャップに過重なストレスとプレッシャーを感じていた矢先、今の夫つまり先輩の父親と結婚した。そこには本が一冊書けるようなラブロマンスがあったのだろうが、ここで重要なのはその夫もまた売れっ子音楽家だったことだ。彼もピアノを弾いていた。
幸せの中にかすかな劣等感を隠しながら、結婚生活を過ごしていた。子供も生まれた。可愛い女の子だった。そしてその子が、大人が唸るほどピアノを流麗に弾いて見せた時、彼女は救われた思いだったろう。もう一度生まれ変わったような気分だったかもしれない。
父、兄、夫と違って、女子である我が娘が自分の代わりをしてくれる。子は親の分身。母親にとって、自分が認められていくような感覚だっただろう。
実際に、親戚と集まる時も、話題は先輩が獲った賞のことで持ちきりだったらしい。母親にとって、この上なく報われた瞬間だった。
だから娘がピアノをやめるなんて、ありえない。私はずっとピアノを頑張った。これまでの人生のほとんどを費やしてきた。
茉莉がやめるなんて許せない。
ピアノで賞を取って、お母さんを喜ばせるって、言ったよね?
だったら責任をとって、弾いてちょうだい。
先輩から聞いた話をまとめると、ざっとこんな感じだ。何よりも痛まれるのは、先輩の母親の境遇が、聞いて憐憫に値するということだった。
「私は、お母さんの気持ちがすごくわかる。わかるから、今までのいろんな分岐点で自分を殺してきた。でもやっぱり……」
先輩は胸に手を当てた。
「自分以上に大切なものはない。今日、確信した」
俺は先輩の表情を暗がりの中で見て、彼女の迷いが消える音を聞いた。
「じゃあどうします」
「そうだね、やっぱり話し合いしかないのかなー」
「ちなみに、今までそういう話をしたことはあるんですか」
「あるよ、だけど、毎回お母さんが泣いちゃうの。泣いて怒ってもうほとんどヒステリー起こしちゃうって感じで。私のピアノの音がないと、おかしくなっちゃうみたいなの」
「……思ったよりお母さんも深刻なんですね」
「まあそうだね」
けれど、本当に泣きたいのは、先輩の方だ。
「先輩って、作文の賞たくさん取ってるじゃないですか」
「そうだね」
「それについては、お母さんはどういう感じなんですか」
「もちろん、褒めてくれるけど、それとこれとは別って感じかな。すごいね、じゃあ早くピアノ弾いておいでって言われて終わり」
先輩の母親にとって、音楽は呪いのようなものなのかもしれない。好きだという感情が、経験によって歪んでしまっている。
部外者の俺が、何を言ってもそれは軽い言葉になってしまう。母親に届くことはない。
でも目の前にいる先輩になら、俺の言葉は直に伝わる。
何か、力になれるはずだ。いや、ならなきゃいけない。
そう思って、必死に考えた。
そしてこれまでの先輩との日々を思い出す。
彼女には、文才があった。
「先輩、手紙を書くなんて、どうでしょうか」
「手紙?」
「そうです。先輩が文章を書くのが得意なのは周知の事実というか、少なくともコンクールのお偉いさん方からは認められてるわけですよね。だから先輩の今の想いとかをもうそのまま文章にしてしまって、お母さんに読んでもらえたら、伝わると思うんです」
「ふうむ」
指をこめかみにあて、先輩は少考した。
「それ、めちゃいいかも」
「お、まじですか」
「うん、私、確かに文章に自信あるし、手紙ならお母さんも落ち着いて読めるかも」
「そうですよね。あ、あと、できれば手書きでお願いしたいんですけど」
「それはまかせてよ。表彰された作文も全部手書きだから」
「あ、そっか。そういやこの前、部室にあった先輩の作文の原稿この前勝手に読んじゃいました」
「もー、ちょっと恥ずかしいじゃない」
「いやいや、ほんと綺麗な文章でした。作文なのに小説読んでるのかなって思いました」
「それはありがとう」
「字もめっちゃ綺麗でしたし」
「そ、それもありがとう。綺麗ばっかり言ってくれるね」
「綺麗ですから。あれ、ていうかじゃあ、そこにプラスでなんですけど」
「うん、なになに?」
「手紙の最後に『今から曲を弾くので、聴きにきてください』って書いて、先輩のお母さんに向けて一曲演奏するってのはどうですか」
「な、なにその暴力的なエモさ」
「いや正直、結構シリアスというか深刻な問題に対して、こんなテンションで解決策考えてもいいのかどうか僕には分からないんですが、思いつきで出たこんな考えも、案外悪くないかなって」
「うん、いいよいいよ」
「で、先輩のレパートリーとか知らないですけど、『別れの曲』とかどうです」
「シチュエーションにピッタリじゃん」
「そ、そうですか。まあ僕的にはちょっと悲しすぎる気もするんですけど、一旦、色んなことに終止符打つ、みたいな?はは」
「もう、なに上手いこといってるの?」
もうその先輩の返しで、堪えきれなくなって、俺は吹き出した。先輩もつられて、笑う。どうしてここまで楽しいのかわからない。いやおそらく、解決に向けて二人で話し合うことが、すごくすごく気持ちのいいことだからだ。
お互いお腹が痛くなるまで笑って、落ち着いた。
先輩は笑いすぎて、また泣いていた。
一分ほど、俺は先輩を待った。
「ありがとう……真剣に考えてくれて」
「と、とんでもないっすよ。いつかのカフェオレのお礼です」
「あーあったね。そうだ、さっきの『別れの曲』が悲しすぎるってことだけど、それなら、もう一ついい曲があるんだ」
「どんな曲ですか」
「リストの『愛の夢』っていうんだけど、ほら、タイトルもポジティブじゃない。私、これまでどうだろう、百曲近く弾いてきたけど、一番好きな曲なんだ」
「ひゃ、ひゃっきょくですか」
「うん。まあ十五年以上やってるからね。それでほら、知ってるかわからないけど、長六度って呼ばれる音階から始まるんだよね。そこがとってもきれいなの。愛の六度とも言われるんだけど」
「あ、僕それ知ってます」
「え、知ってるの。どうして」
「僕も二年ぐらいピアノ習ってたんですよ」
「そうなんだ!早く言ってよ」
「すいません言うタイミングなくて……僕、ノクターン弾いたことあるんですけどたしかあれも」
「長六度から始まるね」
「そうなんですよ」
「それじゃあさ、今度、音楽室で私のピアノ聴いてよ。一回、練習しておきたい」
「ぜ、全然いいですけど、先輩に練習なんているんですか」
「コンクールとかは緊張しないタイプだけど、こんなイレギュラーな状況でピアノ弾くことなんてないからさ。また、教室まで呼びにいくね」
「待ってます」
そもそも、コンクール優勝常連の人のピアノを無料で聴けるなんて、これから滅多にない機会かもしれない。
肩を組んで千鳥足で歩くサラリーマンたちが背中側から歩いてきた。彼らを目で追っていると、さっきのうどん屋の看板は、準備中に変わっていた。
「帰りましょうか」
「うん」
先輩は、スカートについた砂を振り払っている。
「こんな遅くまで外にいるのは初めてだよ」
「そうなんですか……いや、そうですよね」
「なんか、悪いことしてる気分」
「まあ、時間的にも若干グレーゾーンなんですけどね」
ティーンネイジャーの外出時間を制限する法律が、あるとかないとか。
八森駅の改札までは、あっという間だった。
行先表示板にある二十二時の数字は、遅過ぎてなんだか異様だった。
二人、別々のホームに移動する。
階段を降りると、ひと足先に、向こうのホームで先輩がこちらを見ていた。
手を振られ、手を振る。
ファン、と先輩の電車が向こうから顔を出した。
「おーい」
先輩は、ホームの涼しい風に吹かれながら、『またらいせ』と口を動かした。
俺が返す言葉を探してあたふたしているうちに先輩の電車が来て、先輩が乗ったところが見えた瞬間、すれ違うように、こちらのホームにも各駅停車が到着した。
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