第五話 青春傘下
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先輩は、その後一週間、部室に来なかった。
その一週間はちょうど梅雨と被っていた。近年にしては珍しく、ちゃんと六月に梅雨が来た。俺は部室で本を読んだ。
一人の環境は悪くなかったけど、さすがに木曜日ぐらいから部室内の静寂が気持ち悪くなった。色々な葛藤を経て、俺は一度三年生のフロアに行って本仮屋先輩はいますか、と聞いた。先輩は学校にすら来ていないらしかった。
だから、週を改めた月曜日の今日、職員室に行ったら部室の鍵がすでに誰かによって回収されていて、走って部室に行って、机の上に、
屋上庭園にいるかもしれない
という、どうして不確定要素にしたのかわからない置き手紙を見つけた時、俺は安堵した。もちろん屋上庭園までも走った。途中、体育教師に「走るな!」と怒鳴られたが、心底どうでもいい。
屋上庭園は、食堂の上にある。上、というのは二階という意味ではなく、食堂の建物の平らな屋根がそのまま一つのスペースとなっているのだ。真ん中にはそれなりの木が一本植えられていて、その周りに、現代建築を思わせるような木製の机と椅子が、一定の間隔で設置されている。学校のHPの宣伝材料になっていることもあり、よく整備されているので、学生に人気がある。
ただ、屋上庭園に入る前に、ふと思い当たり、一度自販機に引き返した。
カフェオレぐらい用意していかないと、喋る権利すらないように思えたから。
屋上庭園には、置き手紙通り、本仮屋先輩がいた。
街中を見渡せる席で、ポツンと一人。
「先輩」
「おー。やっほ、黒原くん」
「あのこれ、よければどうぞ」
「わ、後輩の君が私に奢るなんて。私を最悪の先輩に仕立て上げる気?」
「そんなつもりは……ただ、先週のこと謝りたくて」
「先週……なんのことー?」
「いや……あの、先週僕先輩になんか言っちゃったじゃないですか。それで先輩を傷つけちゃったなって思って。全然部室に来なかったし。学校にも来てなかったんですよね」
「あー、なるほど。まさか、自分のせいとか思ってないよね」
「思ってます」
「そうか、じゃあ私は最悪の先輩だ」
ポカリと自分の頭をたたいた。
「あの日から私が学校休んだことに、黒原くんはまるっきり関わってないよ。いや、うーんどうだろう、一切関わってない、て言ったら嘘になるかも」
「じゃあやっぱり僕のせいじゃないですか!だ、大丈夫だったんですか」
「大丈夫だよ。ちょっと家で色々あっただけ」
「家で……ですか」
だとしたら、俺があの日行った「ホームシック」という言葉がよくなかったのだろうか。
「でも、黒原くんのせいじゃないよ。むしろ、黒原くんは私に時間と……逡巡をくれた。自分の気持ちとかを整理できたんだよ」
「しゅんじゅん……?」
「ためらいって意味」
「そうですか……」
「まだ読書が足りないね」
「ぽいですね」
先輩は俺が差し入れたカフェオレを持つと、ストローをパスッと差した。そして遠くを見ながら一口。
先輩は黄昏ているようだった。
そして俺は気づいた。
「あれ、今日は本、持ってきてないんですか」
「あ、ほんとだ。私としたことが、これは本仮屋の名に恥ずべき行為だな」
ちょっと本を取ってくるよ、と言って先輩は部室に向かった。
待つこと四、五分。
先輩が薄めのブルーライト小説を持って帰ってきた。
「本って、すごくたくさんの知識とか経験を与えてくれるよね」
「そう思います。これを無料で読ませてくれる図書室には感謝しかないです」
「大学生になっても、まだ無料で読めるね」
「そうですね。でも、文庫本は減るんじゃないですか。論文とか古い小説とかの割合が多くなって、最近流行りの本とかは少なくなる気がします」
「えー、それは嫌だな。いつまでも高校生でいたいね」
「そうですか、僕は早く大人になりたいです」
「大人か……」
今日の先輩は、いつもと少し違ってみえる。自己完結していない、という表現が一番しっくりくるかな。
俺は、先輩にかける言葉を必死に探したが、俺の頭の中の引き出しはそこまで有能ではなかった。代わりに、目の前の本を読む。先輩も、同じくだった。
これまで部室で本を読んでいた時も、今もそうなのだが、俺は時折、先輩の顔を見る。目が行ってしまうという表現の方が本質的かもしれない。先輩の顔は、とても整っている。目が大きくて、鼻がツンとしていて、おちょぼ口。文学女子の横顔は、黄金比を宿していた。読書の合間に、目の保養もできるとはなんたる幸せか。
先輩もそれに気づいているのか、こちらに目線を合わせてくるときもあれば、合わせないときもある。
今日は一度もなかった。その代わり、ページを捲る手はお互いにとまらず、めっぽう読書が捗った。
十八時五分を過ぎたことに、気づかないぐらいに。
「あーあ」
唐突に、先輩が話し始める。
「いつものバス、行っちゃったね」
「え、もうそんな時間なんですか」
慌てて時計を見たが、件のバスの発車時刻から数分経過していた。
「先輩、乗らなくていいんですか」
先輩の方をみると、その表情からは諦観の雰囲気が窺える。
「今日は、あれには乗らない」
先輩は本を読むのをやめた。パタン、と本を閉じて、バーのカウンターにいるような座り方をした。
「私ってさ、ピアノがすっごく上手いんだ」
ピアノ──
いつしかの音楽室の光景を思い出した。
「ピアノですか……初耳です」
「初めて言ったから」
「なるほど。ピアノどれぐらい上手いんですか」
「世界で一番上手いよ」
先輩の口調に驕りは感じられず、代わりに憂いを感じた。
「いつだったかな、読んでた漫画に出てきたセリフなんだけどさ、『努力してる奴が、楽しんでる奴に勝てるわけがない』っていうのがあるんだ。確かにこれは一理あるかもしれないって思った。だけどやっぱり、努力していなくても、楽しんでなくても、上手い人が一番上手いんだよ。最低限必要な出席日数だけ学校に来て、他の日は休んで全部、本当に全部ピアノに注いでいる人もいるし、心から音楽を楽しむ天才肌の子もいる。でも、適当に習ってた私は、その人たちの誰よりも上手い。少なくとも中学まではそうだった。私は楽しかった。お父さん、お母さんに褒められて、トロフィーをもらって……。でも、ある日、本を読んでいて気づいた。ピアノだけが、私の選択肢じゃないって」
俺は驚いた。
自分が去年の冬、バスケをしながら悩んでいたことと同じだったからだ。
このまま、バスケットボールを続けていていいのだろうか、と。
自分の夢や本音はどこにあるのか。
「高校生になって、私はピアノをやめようと思った。まだ他に、見たい世界があったから。普通に勉強して普通の高校生をやってみたかったから。もっとたくさん、本を読みたかったから。でも、お母さんはピアノをやりなさいと言った。私が抵抗しようとしたら、お母さんは逆上して、私の生活を管理するようになった。私は、お母さんの道具でも、お母さんのピアノでもないのにね——」
先輩は毎日十八時五分のバスで家に帰って、ずっとピアノを練習していたらしい。俺が失言したあの日、先輩は約束の時間までに帰宅せず、道草をした。その結果、母親の雷が落ち、それから一週間、家でピアノの練習をさせられたということだった。
「もう、ピアノの前にいくと、体に力が入らなくなって、何も考えたくなくなった。ピアノのことなんか、全然好きじゃなくなってた。楽しくもない面白くもない、好きじゃないことをどうして無理してやらなきゃダメなんだろう、って考えて自分が可哀想になってでもどうしようもできなくて弾くしかなくて……」
自分の指を握りしめる先輩の左手は、怯えて、震えていた。
「こんな気持ちのまま、高校生活を終わらせたくない……いやだよわたし、いや……」
先輩は泣いていた。
いつも余裕があって、飄々としている先輩の涙、その泣き顔。冗談のようだった。嘘のようだった。
だけどきっと、いつか俺も同じようなことを考えて、拗らせて、そして流した涙があったから、その温度まで手に取るようにわかる気がした。
「先輩……」
俺はあのとき、やめる、という選択をしたけど、それは可能だったからだ。親や担任が、「もう少し考えてみたら」と言うことはあっても、俺の選択を止めることはしなかった。
先輩の場合は、母親が関わりすぎている。基本的に、高校生の子供が親に抗うのは難しい。不可能に近い。親がいないと、生きていけないからだ。
子育てにはその人のエゴが出るという。だからってそれは、子供のエゴを傷つけていい理由にはならない。その行為は、理不尽極まりない。悪だと言ってもいい。
先輩は、自分の口から出る脆い鳴き声を、驚いた様子で抑え込んでいた。しかし、その震える指の隙間から、嗚咽はこぼれ落ちた。
俺はどうにかしないといけないと思った。知らんぷりをできる関係性だと、俺はもう思っていない。もし仮に先輩をここで放っておいたとしたら、後でどれほど後悔するかなんて、知れたものではなかった。
良い人ぶりたい、先輩にとって影響力のある人になりたいという考えが、一度もよぎらなかったと言えばそれは嘘になる。だけど、この時は、最近倫理の授業で習った性善説に近い感覚を持った。
でも何をしたらいいのかわからない。今の俺が何を言っても、慰めになったりはしない。だって、根本的な解決には一切ならないのだから。
月九ドラマの俳優のように、そっと抱きしめる度胸も経験も、俺にはない。
差し出すハンカチさえも、ポケットには入ってないんだけど……あれ。
ポケットに突っ込んだ手が、何かに触れた。ピラピラとした感触のそれを取り出してみると、行きつけのうどん屋で使える無料券だった。
「あの……先輩、うどん、好きですか?」
一食につき一つもらえるスタンプを十五個集めたら、うどんが一杯無料になる。俺の、偏食気味な性分が、じわりと輝き出した瞬間だった。
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