四話
読んでいただけると嬉しいです。
今回は少し長いです。
「おいふいね」
先輩は、うどんをすすりながらも器用に感想を言った。
俺は不器用なので、自分の咀嚼の完了を待つ。
「そうなんですよ、でもここ、美味しいだけじゃなくて安いんですよ」
「そうなの……おー、確かに。二玉で四〇〇円は安いね」
「でしょ。僕の体の二割ぐらいは、ここのうどんでできてます」
「ふふ、私も今日で一厘ぐらいにはなったかな」
先輩の情緒は一旦落ち着いていた。学校を出る時、いつもならチャリにまたがるところを、泣いている先輩を一人バスに乗せることはできないと思い至り、最近親からもらったなけなしの千円を崩して同乗した。先輩は、泣き腫れている顔を隠すために下を向いていたが、その間ずっと、小指で俺の袖を握っていた。
なにか、捨てられた子猫をペット禁止のマンションに持ち込むような気持ちでいっぱいになり、心臓の鼓動がうるさかった。バスから降りた時、ようやくまともに呼吸できたくらいだ。
「ここ、友達とはよく来るの?」
「えーっと……た、たまに……ですかね、はは」
「あ、そっか。黒原くん、友達多くはないのか」
「さらっとひどいこというもんなー先輩は」
「ごめん、もうちょっと他の言い方あったよね。孤独とかぼっちとか独り身とか」
「謝る気持ちが全然ないことだけわかりました」
「あーっ、ごめんごめん。冗談だよ。そのおかげで、黒原くんと部室でおしゃべりできてるわけだし、むしろ感謝してる」
「急に生温かいこと言われても、逆に寒気がしますよ」
「寒温どっちも感じられて贅沢だね」
「それでいうと、先輩、夏なのに普通の温かいうどんにするんですね」
「うん、格段理由があったわけじゃないけど、なんとなく、気分でね」
心を温めるためなのか、と尋ねるわけにもいかなかった。
「でも、冷たいのも食べたいかも。ちょっとそれちょうだい」
「え、あ、はい。いいですけど」
対面の先輩は腕を伸ばし、俺のどんぶりをひょいと持っていくと、二本ぐらいの麺を上品にすすり上げた。
「ありがと、やっぱ、冷たいのもいいね」
「そ、そうですね……」
《問題》
『ここで、「じゃあ先輩のもちょっとくださいよ」と言って、トレードみたいな風を装って先輩のうどんを食べるのは、気持ち悪いか。』
刹那、考える。
《解答》気持ち悪い。
だよなー。うん?
《別解》『尚、「逆にトレードしない方が気にしすぎじゃん気持ち悪」ってなる場合もあるため、トレードしても間違いではない。』
なるほど。そういう考え方もあったか。
《真理》
『間接キスをしたいという欲求がある時点で、気持ち悪くはある。』
真理なんて無視。世の中、真理が罷り通らないことの方が多いのだから。
ここまでの丸つけを二秒ほどで済まし、俺は決裁した。
「じゃあ先輩のもちょっとくださいよ」
「ん、いいよ」
一瞬先輩は意外みたいな表情をしたが(考えすぎると傷つくかもしれないので、もうここからは考えるのをやめた)、どんぶりを手繰り寄せる俺を引き留めはしなかった。
そして、実食。したのだが。
先輩の目線を少なからず感じ、どう食べていいのか分からず、というか極度の緊張で食べ方を忘れ、急いで飲み込もうとしたら喉にうどんを詰まらせてしまった。
「わ、大丈夫?はい、みずみず」
先輩の迅速な対応で事なきを得る。
結局、残ったのは俺の情けなさだけだった。
「慌てて食べるからだよ」
先輩はそう言って慰めてくれるが、自虐の呪詛が胸中で止まらない。
ただし、めそめそしていてもそれはそれで浅ましい。
生きるのって、難しいね。
「でも駅の近くに、こんなうどん屋さんがあるなんて気づかなかったよ」
先輩は話題を作ってくれたようだ。
「そうなんですよ。他にも、スマホ修理屋さんとか、ドーナツ屋さんとか、ちょっと歩いたら百貨店とかもありますよ」
「へー、なんでもあるんだね」
「あと、飲屋街もあります。僕らには無関係ですが」
「飲み屋ねー。黒原くん、お酒とか興味あるの?」
「いやいや、興味ないですよ。たまに親が飲んでるの見ますけど、何がいいかわかんないです。いつのまにかリビングで寝てるのがオチだし」
「まあそうだね、昔は百薬の長なんて言われてたけど、今じゃ、少量のお酒でも体に悪影響を及ぼすっていう研究結果とかもあるからね」
「そ、そうなんですね」
本を読んでるからなのか、先輩は博学だ。少なくとも俺からみれば。
感心していると、先輩は湯呑みをぐびっとあおった。
「でも、飲まないとやってられないときもあるんだよねー」
「それ普段から飲んでる人のセリフですよ先輩!」
「おっと、今のは忘れておくれ」
「無理です無理です!」
「ふふ、ここだけの話、昔、お茶と間違えてお父さんのビールを飲んじゃったことある」
「あ、それ僕もあります」
「たぶんあれ、全人類の半分ぐらいがやってると思うんだよね、小学生ぐらいのときに。そういうあるある、私好きなんだ」
「わかります。有名すぎるやつで言うと、真冬でも半袖半ズボンの子とか」
「そうそう、あとは、友達の水筒のお茶勝手に飲むとかもあるね」
「……まあ、それもわかります。あ、あとは、昼休みの後、片付けるのいやだからボール押し付けあって最後先生に怒られる、とか」
「それもあるね、ほらでも、教科書忘れたとき友達のやつこっそり盗むとかもあったよね」
「なんでさっきからグレーゾーンばっか攻めるんですか!」
もうそれ、大人がやったら犯罪レベルのやつだから……。
先輩の小学生時代を想像するのが恐ろしい。
とまあ、おしゃべりもそこそこに、お互いのどんぶりが軽くなってきた頃だった。
うどん屋に、野球部が到来した。
体のでかい奴らがでかいバッグを背負っているから、見た目がかなりいかつい。
彼らは、俺と先輩の席から一つ向こうの席に案内されていた。
俺はさておき、本仮屋先輩はちょっとした有名人らしく、野球部たちは荷物を下ろしながら、チラチラとこちらを見ていた。俺たちが制服を着ているのもあって、一瞬でばれたのだろう。
居心地が悪くなり、こまめに座り直したり、飲みもしない湯呑みを触ったりする俺とは引き換えに、先輩は全く動じず、綺麗な所作で食事を進めていた。
「黒原くん、どうしたの?」
「いや、別に何でもないですけど……野球部がいるなーって……思って」
「そうだね。それがどうしたの?」
「いや別に、どうってことないです。はい」
「付き合ってるって思われたらどうしようって考えてるでしょ」
「まあ……はい……」
「別にいいじゃない。そう思われても関係ないし。それに男女二人で飲食店に行くことぐらい、そんなにめずらしいことでもないよ」
「そ、そうですね……」
俺は高校生になってから……片手で収まるほどしかない。
てか、めずらしいことでもないってことは、先輩は行き慣れているのか。
まあそうだよな……
「あ、そうだ」
先輩は最後の一口を食べ終え、結んでいた髪を解いてヘアゴムを手首に巻いた。
「男女の友情ってあると思う?」
唐突な質問だった。
「男女の友情……ですか」
いつからなのだろう、この命題が存在するのは。
きっと、百年、千年、もっと前から、語り継がれてきているはずだ。
俺はこの命題に対して、自分なりに答えを持っている。
「僕は、ないと思っています」
「ほう」
「男女間で友情が芽生えることはないと思うんです。女子目線のことは何もわからないですから、男子目線で話すと、まず、好きではない女性に対して抱く感情はただ一つ、無関心です」
「うんうん」
「男子が女子と一緒にいたい、と思うのは、異性として好意を持っているときだけだと思います……性欲の強い人は、その範疇ではないですけど。まあでも、好意を持っていなければ残るのは無関心です。優しいな、とか字が上手いな、と思うことはあっても、一緒にいたいとはならないと思います。ただ例外として、ごく稀に、趣味が一緒、学生なら席が隣だったと言う理由で、女子と仲良くなることはあります」
「うん」
「ただ、その場合も、『異性として好きではない女子』から一定以上の中に踏み込まれそうになると、拒絶してしまう。表面でしていなくても、心の中では拒絶してしまう。そういう状況になると思うんです」
「ふむ」
「そして、女子友達が仮にできたとして、男子友達との距離感で接することはできない。同じ温度感で会話することはできない。肩を組んで歩くこともできないし、いじくりあったりちちくりあったりすることはできない。異性が相手だと、至近距離になったらどうしても意識しちゃいますよね。でも、そういう裸の付き合いみたいなところがないと、踏み込めない心の領域があると思うんですよ。少なくとも僕はそうです。だから、そうやって気の置けない相手っていうふうに考えると、男友達しか有り得なくなるんです。女子と居て楽しいのは、その人のことが好きだからですよ。まあそもそもの話、僕は友達が少ないというかほぼいないんですけど……あと今言ったのはあくまで僕個人の意見です」
「ふーん……その感じだと、この命題について考えたのは、一回や二回じゃないよね。結構面白いところあるじゃん、黒原くん」
「そ、そんなこと……ないですけど」
「うん、じゃあさ、もう一個質問してもいい?」
「はい、いいですよ」
先輩はいじわるな笑みを浮かべている。俺は嫌な予感がした。
「じゃあさ、黒原くんにとって、私は今、どういう存在なの?」
空白。
脳内回路がショートを起こした。自分がさっきえらそうにごちゃごちゃと並べ立てた御託は、この状況にただならぬ意味を与えた。
今あなたは僕にとって普通の存在ではないですよ、一緒にいて楽しいですよ、何なら好きですよ、そう言ってるのと同義の話をしてしまったのだ。
今、返答が遅れると絶対に変な空気になると思い、なんとか絞り出す。
「先輩は、そうですね、数少ない例外の一人です」
「お、例外……ね、まあじゃあ、そういうことにしておいてあげよう」
苦し紛れ、その場しのぎの言い訳を、先輩は海よりも広い心で認めてくれたようだ。
いやいや、こんな単純に人のこと好きになるのか。毎日、放課後同じ部屋で本を読んだり勉強してるだけで……。単純接触効果。いやいや。そもそも今日こうなったのは、先輩が泣いててほっとけなかったからで……。じゃあなんでほっとけなかったんだ。あーもう今はいいや。
「そろそろ出ましょうっ」
動悸がおさまらぬまま、先輩を半ば急かすような形で、俺たちはうどん屋をあとにした。
駅の改札の近くに、大人二人分の高さの時計台がある。その周りを囲うように、ベンチが設置されていて、俺と先輩は、どちらからともなく、そこに腰を下ろした。帰るに帰れなかった。
いつのまにか暑さは引いていて、湿度も低く、そこらには夏の夜の匂いがゆらめいている。
向こうのビルには、カラオケや雀荘の看板がベタベタと貼り付けられていて、さらにその上にはうっすらと星が見えた。
「どうしますか」
「どうしようね」
バスに乗ってうどんを食べて、俺たちは束の間の休息を、容赦のない言い方をすれば一種の現実逃避をしていたわけだが。
結局、今のところ何も解決していない。このままではきっと、本仮屋先輩は家に帰ったら母親に怒られ、詰られ、明日は学校に来れないだろう。この前のこともあるし、また一週間、学校に来れない可能性もある。ピアノの練習をさせられるはずだ。
そしてまた、十八時五分のバスに乗って家に帰り、本心に反した毎日を過ごす。
今回の場合、俺がこの状況を好転させることは難しい。まさか、本仮屋宅に乗り込んで、かの母親に対して何か物申すわけにもいかない。仮にそれをできる度胸が俺にあって行動に移したとして、果たしてどんな意味を持つだろうか。
「通学路に、こんないい場所があったなんて、知らなかった」
先輩は、再び本題を避けた。
「もっと時間があれば、気づけたのかな」
「時間……ですか」
「うん、もっと——自由な時間」
「自由な時間」
「うん。そしたら、あそこのドーナツ屋さんで友達と試験勉強できたかしれないし、百貨店でお買い物できたかもしれない。あそこのゲームセンターのUFOキャッチャーに文句を言えたかもしれないし、あのカラオケで馬鹿騒ぎできたかもしれない」
「先輩……でも、まだ時間はあります」
「ううん。だってもう、高校三年生の夏だよ」
俺の喉がごくりと鳴った。
先輩に残された時間の少なさに、緊張した。
思えば、小学生の時もそうだった。この時間が永遠に続くような気がしていた。大人になるわけがない。中学生になるのはまだ想像できるけど、高校生なんて別の次元の出来事のようだった。
終わってしまえば、あっという間。先輩が、なんとなしに地面の小石をコツンと蹴った、今この瞬間も、すぐに思い出になる。時計を見た。
ああ、時間がない。
「そもそも、先輩のお母さんはどうしてピアノをやらせることにそこまでこだわるんでしょうか。好きなら自分で弾けばいいのに」
「私も最初はそう思った。でもこの前親戚で集まる時に、おばあちゃんと話していて、お母さんが今こうなってる理由が、ある程度わかった」
本仮屋先輩の母親は、予想通り、自分自身もピアノを弾いていたらしい。家系そのものが音楽一家で、父も母も兄も有名な音楽家だったらしいのだ。
そんな中、自分だけが目立った成績を残すことができず、音大にも入学して、数年の月日をピアノ一本に賭したらしいが、それでも県のコンクール入賞が関の山だったらしい。これが理由で、家族に責められたことは、想像に難くない。陰口を叩かれ、馬鹿にされたことも、一回や二回では済まないようだ。
家系と能力、努力と結果のギャップに、過重なストレスとプレッシャーを感じていた矢先、今の夫と結婚した。そこには本が一冊書けるようなラブロマンスがあったのだろうが、ここで重要なのはその夫もまた売れっ子音楽家だったことだ。彼もピアノを弾いていた。
幸せの中にかすかな劣等感を隠しながら、結婚生活を過ごしていた。子供も生まれた。可愛い女の子だった。そしてその子が、大人が唸るほどピアノを流麗に弾いて見せた時、彼女は救われた思いだったろう。もう一度生まれたような気分だったかもしれない。
父、兄、夫と違って、女子である我が娘が自分の代わりをしてくれる。子は親の分身。母親にとって、自分が認められていくような感覚だっただろう。
実際に、親戚と集まる時も、話題は先輩が獲った賞のことでもちきりだったらしい。母親にとって、この上なく、報われた瞬間だった。
だから娘がピアノをやめるなんて、ありえない。私はずっとピアノを頑張った。これまでの人生のほとんどを費やしてきた。
茉莉がやめるなんて、許せない。
ピアノで賞を取って、お母さんを喜ばせるって、言ったよね?
だったら、責任をとって、弾いてちょうだい。
先輩から聞いた話をまとめると、ざっとこんな感じだ。何よりも痛まれるのは、先輩の母親の境遇が、聞いて憐憫に値するということだった。
「私は、お母さんの気持ちがすごくわかる。わかるから、今までのいろんな分岐点で自分を殺してきた。でもやっぱり……」
先輩は胸に手を当てた。
「自分以上に大切なものはない。今日、確信した」
俺は暗がりの中で、先輩の表情から迷いが消える瞬間を見た。
「じゃあどうします」
「そうだね、やっぱり話し合いしかないのかなー」
「ちなみに、今までそういう話をしたことはあるんですか」
「あるよ、だけど、毎回お母さんが泣いちゃうの。泣いて怒ってもうほとんどヒステリー起こしちゃうって感じで。私のピアノの音がないと、おかしくなっちゃうみたいなの」
「……思ったよりお母さんも深刻なんですね」
「まあそうだね」
けれど、本当に泣きたいのは、先輩の方だ。
「先輩って、作文の賞とか取ってるじゃないですか」
「あ、うん。そうね」
「それについては、お母さんはどういう感じなんですか」
「褒めてはくれるけど、それとこれとは別って感じかな。すごいね、じゃあ早くピアノ弾いておいでって言われて終わり」
先輩の母親にとって、音楽は呪いのようなものなのかもしれない。好きだという感情が、経験によって歪んでしまっているのかもしれない。
部外者の俺が、何を言ってもそれは軽い言葉になってしまう。母親に届くことはない。
だからこそ、目の前にいる先輩にできることが何か考えて、一つ案が出る。
先輩だからこそ、できること。
「先輩、手紙を書くなんて、どうでしょうか」
「手紙?」
「そうです。先輩が文章を書くの得意なのは、周知の事実というか、少なくともコンクール選考委員のお偉いさん方からは認められてるわけですよね。だから先輩の今の想いとかをもうそのまま文章にしてしまって、お母さんに読んでもらえたら、伝わると思うんです」
「ふーむ」
指をこめかみにあて、先輩は少考した。
「それ、めっちゃいいかも」
「お、まじですか」
「うん、私、確かに文章に自信あるし、手紙ならお母さんも落ち着いて読めるかも」
「そうですよね。あ、あと、できれば手書きでお願いしたいんですけど」
「それはまかせてよ。表彰された作文も全部手書きだから」
「あ、そっか、というか部室にあった先輩の作文の原稿この前勝手に読んじゃいました」
「もー、ちょっと恥ずかしいじゃない」
「いやいや、ほんと綺麗な文章でした。作文なのに小説読んでるのかなって思いました」
「それはありがとう」
「字もめっちゃ綺麗でしたし」
「そ、それもありがとう。綺麗ばっかり言ってくれるね」
「だって綺麗ですから──あれ、ていうかじゃあ、そこにプラスでなんですけど」
「うん、なになに?」
「手紙の最後に『今から曲を弾くので、聴きにきてください』って書いて、先輩のお母さんに向けて一曲演奏するってのはどうですか」
「な、なにその暴力的なエモさ」
「いや正直、結構シリアスというか深刻な問題に対して、こんなテンションで解決策考えてもいいのかどうか僕には分からないんですが、思いつきで出たこんな考えも、案外悪くないかなって」
「うん、いいよいいよ」
「で、先輩のレパートリーとか知らないですけど、『別れの曲』とかどうです」
「シチュエーションにピッタリじゃん、私それ弾けるよ」
「そ、そうですか。まあ僕的にはちょっと悲しすぎる気もするんですけど、一旦、色んなことに終止符打つ、みたいな?はは」
「もう、なに上手いこといってるのよ?」
もうその先輩の返しで、堪えきれなくなって、俺は吹き出した。先輩もつられて、笑う。どうしてここまで楽しいのかわからない。いやおそらく、解決に向けて二人で話し合うことが、すごくすごく気持ちのいいことだからかもしれない。
お互いお腹が痛くなるまで笑って、落ち着いた。
先輩は笑いすぎて、また泣いていた。
一分ほど、俺は先輩を待った。
「ありがとう……真剣に考えてくれて」
「と、とんでもないっすよ。いつかのカフェオレのお礼です」
「あーあったね。そうだ、さっきの『別れの曲』が悲しすぎるってことだけど、それなら、もう一ついい曲があるんだ」
「どんな曲ですか」
「リストの『愛の夢』っていうんだけど、ほら、タイトルもポジティブじゃない。私、これまでどうだろう、百曲近く弾いてきたけど、一番好きな曲なんだ」
「ひゃ、ひゃっきょくですか」
「うん。まあ十五年以上やってるからね。それでほら、知ってるかわからないけど、長六度って呼ばれる音階から始まるんだよね。そこがとってもきれいなの。愛の六度とも言われるんだけど」
「あ、それ、偶然ですけど、昔ピアノの先生が言ってたの覚えてます。ありましたね、僕、小学五年生のときかな、そのときにノクターン弾いたんですけど、たしかあれも長六度から始まりますね」
「え、黒原くん、ピアノ習ってたの!」
「あーそうですよ、中学で辞めましたけど」
「えーびっくり、それじゃあさ、今度、音楽室でプチ演奏会しようよ」
「お、やりましょやりましょ。でも音楽室って空いてるんですか」
「昼休みとか空いてるよ、また教室まで呼び行くね」
「待ってます」
コンクール優勝常連の人のピアノを無料で聴けるなんて、滅多にない機会だ。
威勢の良い声がした。肩を組んで千鳥足で歩くサラリーマンたちだ。彼らを目で追っていると、さっきのうどん屋の看板は、準備中に変わっていた。
「帰りましょうか」
「うん」
先輩は、スカートについた砂を振り払っている。
「こんな遅くまで外にいるのは初めてだよ」
「そうなんですか……いや、そうですよね」
「なんか、悪いことしてる気分」
「まあ、時間的にも若干グレーゾーンなんですけどね」
ティーンネイジャーの外出時間を制限する法律が、あるとかないとか。
駅の改札までは、あっという間だった。
行先表示板にある二十二という時刻は、遅過ぎてなんだか異様だった。
二人、別々のホームに移動する。
階段を降りると、ひと足先に、向こうのホームで先輩がこちらを見ていた。
手を振られ、手を振る。
ファン、と先輩の電車が向こうから顔を出した。
「おーい」
先輩は、駅のホームの涼しい風に吹かれながら、
『またらいせ』と口を動かした。
俺が返す言葉を探してあたふたしているうちに先輩の電車が来て、先輩が電車に乗るのを見た瞬間、すれ違うようにこちらのホームにも各駅停車が到着した。
※
「もう、またここ間違ってる。このaとbのベクトルの内積がゼロだからって、絶対にaとbが垂直だとは限らないの」
放課後、文芸部、部室。
時刻は、十八時、六分。
「うわーそれずっとややこしいんですよね。なんででしたっけ」
「どっちかがゼロベクトルっていう可能性を考慮しないといけないからだね」
「うぅ……数学はもともと苦手だけど、このベクトルの範囲だけはどうしても受け付けないんだよなぁ。なんで数学で絵を描かないといけないんだ」
「小学生の時も、コンパスで円とか描いたでしょ」
「あれはいいんですよ、あれは」
「なんで」
「……簡単だから」
「なんじゃそれ。はい、ペン回ししないで。考える」
「はいぅ」
期末テスト前の一週間に入り、俺は珍しく勉強していた。前の中間テストで赤点を取り、後がないからだ。
うちの学校の定期テストは五日間のスケジュールで構成されている。前回、二徹スタートという暴挙に出てしまい、数学のテストがある三日目の前夜はすぐに眠ってしまった。頭が空の状態で朝日に起こされたのである。あの冷や汗の滴る感覚は、今でも忘れられない。結局、数学の谷松先生に、「黒原、補習やるから」と言われて、数日間、放課後を奪われた。
「無茶な計画を立てるからだよ」と先輩に言われたが、俺は自分の計画に耐え抜けなかった体力と精神力の方を敗因とみている。
ただ流石に留年の危機に瀕して、他者の監視のもとで勉強することを決意し、今に至るわけだ。
端的に言うと、ヤバい。
「てか先輩、夏休み何するんですか」
「うーん、勉強と読書かなー。一日ぐらいは、何か楽しいことしたいけどね」
「なるほど、まあよく言いますもんね、夏を制するものはってやつ」
「そうだね、夏期講習を受けさせるためのむさ苦しいキャッチコピー」
「ずいぶん否定的ですね」
「まあね。でも、夏が大事ってのは同意。黒原くんはなにするの?」
「僕は……そうですね。読書と波乗りですね」
「波乗り?黒原くん、サーフィンできるの?」
「ネットサーフィンです」
「……そう」
「あー勉強しすぎて頭が回らなくなってきたのかなー。だから面白くないことしか言えないのかなー」
「黒原くんは今日も通常運転だね」
「だとしたら俺は恥ずかしすぎるから転校するかもしれないっ」
「嘘だよ、二周回って面白い」
「一周じゃ足りないんだ……」
俺はカフェオレを飲む。先輩もカフェオレを飲む。
「夏休み、三年生は宿題がないからなー。そこは気楽だよね」
「……そうですね。僕は、なんとなく、また最終日に徹夜する気がします」
「私もそんな気がする。学校は夏休みも空いてるんだっけ」
「多分空いてなかった気がします」
「そう、じゃあ黒原くんの勉強を見る頻度はかなり減るね……」
なくなる、ではなくかなり減る、という日本語に俺の脳は過敏に反応した。
「そーう、ですね」
「三年生はみんな忙しそうだよほんとに」
「やっぱりですか」
「うん、私の友達なんて、ほとんど休憩なしで勉強してるし。職員室に質問しに行くのが休憩みたいな感じ」
「受験勉強は苛烈ですね」
「黒原くんも大学には行くつもりでしょ」
「そうですね、どこにいけるかわからないですけど」
「推薦入試、なんてのもあるらしいね」
「推薦!そ、そうだ推薦で受ければ勉強しなくていいじゃないか!」
「私の一つ上の学年でね、推薦もらったからって鼻を高くして、志望理由を適当に書いた人が落ちてたよ」
「まさか……志望理由が死亡理由になるとは……ね」
……………。
痛いほどの静寂。
先輩は急にこめかみを抑えて、「本当におかしくなっちゃったのかな……」と言い出した。
どうやら俺の面白くなさは、先輩の理解の外にいってしまったらしい。
規格外の面白さ。ものはいいようである。
先輩は小さい声で「よし」というとこちらを見た。
「じゃ、自販機行こっか」
駅前の時計台。あそこのベンチで二人、作戦会議をして笑い泣きした夜から数日後、先輩は母親に手紙を渡し、『愛の夢』を贈った。
先輩は正直、相手にされないと思っていたそうだ。音楽の呪いが、一通の手紙で消えるわけはないと。
それでもお母さんの体を、先輩が待つピアノの前まで運んだのは、手紙が宿していた優しさと切実さだったのだろう。
それまでのどんなコンクールよりも緊張した瞬間だった、と先輩は言っていた。
そのとき先輩が獲ろうとしていたのは、金賞でも審査員特別賞でもなく、自由だったからだ。ただ、最初の一音、ミのフラットを押した瞬間、母と娘の二人三脚で歩んできた道が目の前にあらわれて、思い出を辿っているうちに、曲が終わっていたらしい。
ペダル合わせ、衣装選び、ご褒美のかばん。
間違いなく、今の先輩の五割はその思い出でできている。
お母さんは、しばらく立ち上がれなかったそうだ。
泣くに泣いて、ようやく自室にもどろうとしたときに一言、
「ごめんね、ありがとう」と言ったそう。
先輩も感謝の言葉を返した。もちろん泣きながら。
俺は先輩の話を聞いていて、嬉しかったしほっとしてもいたが、同時に泣き虫なのは親子だな、と思った。
果たして、先輩は最終バスに乗って帰るようになった。たまに最終下校時刻ぎりぎりになって、先生たちに「早く校門でろよー」って言われて一緒に走る時の先輩の顔。暗がりのバス停で、終バスを待つ先輩の顔。いずれを見ても、先輩は楽しそうだった。
そしてあるいは、心臓破りの坂をノーブレーキで滑走している時の俺も、今までより一層楽しい顔をしているかもしれなかった。
※
お母さんへ
ただいま。
今から、お母さんに伝えたいことがあります。
私は、ピアノをやめたいです。
今まで、お母さんとずっとピアノをやってきました。
たくさんトロフィーを獲って、テレビに取材されたこともありました。
本当に楽しかった。最高の気分だった。
可愛い服とか鞄も買ってもらえて嬉しかった。あとスマホも。
でも高校生になったぐらいからかな、ちょっと別の感情が湧いてきた。
これは、本当に私が決めた人生なのかなって。
物心ついてた時から近くにピアノがあって、お父さんもお母さんも音楽家だった。
だから、私はピアノを弾いた。
じゃあそこに、私の意思はあったのかなって思うようになった。
それから色々考えた。
そもそも子供に何がよくて何が悪いかなんてわからないから、両親が道案内をしなくちゃならない。子供が、最初から自分の行動を決めることなんてできない。そんなことしたら、まともな大人になれないかもしれない。
だって、子供には知識も経験も、全然無いから。
だから、私はピアノを始めたことを後悔なんかしていないし、私にピアノを教えてくれたお母さんとお父さんには感謝しています。
本当に、心から。
優越感もあったし、私が最強だと思った。一つのことを頑張る大切さも気持ちよさも理解した。そんな体験をさせてくれた。
だけど、高校生になって、若干迷いが出てきて、気まぐれに本を読んでみたの。
世界が一瞬にして広がった。
そして、人生は多種多様で、分岐点が無数に用意されていて、それを自分の意思で選ぶことの意味に気づいた。
今までは、私はお母さんに甘えていた。お母さんが用意してくれた楽譜を、お母さんが教えた通りに弾いていれば、金賞をもらえていた。
自分でした工夫なんてない。
がんばったけど、それは自分の時間を練習に注ぎ込んだだけ。私がした努力は、時間をかけて同じことを何度も反復練習するっていうことだけ。
だから、自分の力で何か頑張りたい。
切り拓きたい。
そのために、私はピアノをやめる。
正直、将来のプランなんて何もない。
ピアニストになるっていう人生設計を崩すことになるから、また一からやり直し。
普通に大学に入って、やりたい仕事見つけて、資格とかとったりするのかな。小説が好きだから、小説家を目指すって路線もあるかも。
でもそれは、いま私が自分で決めたこと。
自分の決定に、責任を持ちたい。
自分で決めた夢を叶えたい。
それが、私の気持ち。
絶対に揺るがない。
お母さんが、私にピアノをやめてほしくないって思ってるのはすごくわかる。
私がもしお母さんの立場なら、正気じゃいられないと思う。
わかってる。でも、私の気持ちもわかってほしい。
時間がかかるかもしれないけど、わかってほしい。
こんなわがままな私の、最後のお願いを聞いてくれますか。
練習室に来てください。私の夢を聞いてください。
待っています。
茉莉
※
「あれ、カフェオレ売り切れてる」
「間違いなく、僕たちのせいですね」
「だね、そのバナナジュースみたいなやつにしよっかな」
「バナナジュース……」
「あれ、黒原くん、苦手なの?」
「苦手っていうか……お金払って飲みたいなとはなりませんね」
「えー体にいいのにー」
「まあ、僕はこっちの無糖にしよっかな」
「おませさんだね」
「ちょ、いや、違いますよっ普通に味が好きなんですよっ」
「ふーん、でも、こんな時間にカフェイン摂取して、夜寝れるの?」
「寝れないですよ」
「だめじゃん」
「でもいいんです、僕は若いので。ちょっとぐらいの寝不足、パワーで乗り切れます」
「あーそうだよね。私は年配者だもんね、パワーないもんね」
「あ、ちが、ぼ、僕「も」若いので!」
「はは、おもしろいね、黒原くんは」
「ほんとに思ってます?」
「思ってる」
「じゃあ……よかったです」
「そういえば、黒原くん」
「……はい」
「色々、ありがとう」
「そ……そんなお礼を言われるようなことは何も……」
「お返しに、何でも言うこと聞く」
「……え、な、何でもですか……?」
「嘘です」
「ちょ、もう何がしたいんですか!!!」
情けない高校生の声が、校舎に反響した。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
第二部は12月の投稿を予定しています。
もしよければまた読んでください。