三話
読んでいただけると嬉しいです。
部室に来るようになって、一ヶ月ほどが経った。
一度部室に来て、鍵がかかっていたら職員室に鍵を取りに行く、かかっていなければ中に先輩がいる、そんな毎日だ。
結構な確率で、職員室に向かう俺と部室に来る途中の本仮屋先輩が出くわすこともある。その逆もまた然り。そういう時は、二人とも、何も知らない人からすれば気味の悪い笑みを浮かべながら一緒に職員室に行くのだ。
このランダム性が妙に心地よいのは、人間が生来併せ持つギャンブラー精神ゆえだろうか。それとも鍵というアイテムにロマンの血が騒ぐからだろうか。
それにしても、放課後、居場所があるというのはこれほど嬉しいものだとは思わなかった。小学生の頃、秘密基地とやらに憧れた記憶があるが、まさに今その憧れは叶っている。森の中や公園の隅ではなく、俺の秘密基地は学校にある。
誰しも、と言うのは一般化しすぎかもしれないが、実家以外に居場所をもちたいと思う人は多いはずだ。自立への一歩、心理的離乳の手始め。
なによりそこに、自分の尊敬する先輩がいること、それも大層見た目の良い女子高生がいることは、俺にとって、プラスかマイナスかで言うとプラスでしかなかった。
今日は、一番確率の低いパターン、職員室に鍵を取りに行く先輩と部室に向かう俺が鉢合わせになった。
「今日は早いんですね」
「黒原くんが遅いんだよ」
「いやーそうすかね、まあちょっとホームルーム長引きましたけど」
「早く帰りたいのに嫌なやつね」
「まあいいんですけど、大事な話だったし」
「何よ、大事な話って」
「進路……とかっすね」
「へー、黒原くんはあれでしょ、ヒモでしょ?」
「脈絡も配慮も足りないセリフですねぇそれは!」
バイオリンを背負った吹部の女子が、魔物を見るような怯えた目でさっと避けて行った。
声量に少し反省する。
いつものようにおかしい雑談をしながら、鍵を回収し、無事部室に到着した。
「職員室って、いっつもコーヒーの匂いするよね」
「そうですね、僕は羨ましいですけど」
「コーヒー、好きなんだ?」
「まーそっすね。朝とか、家出る前に一杯飲んでます」
「えー奇遇だね、私もだよ」
「ほんとですか!え、じゃあなんで文芸部には、ポットとか置かないんですか」
「そうね、湯気で本が傷んじゃうし、万が一こぼしたら取り返しつかないからね」
「そこは現実主義なんですね」
「どこも現実主義だよ、私は」
先輩はさっき自販機で買ったカフェオレと、勉強道具を取り出した。
今日は勉強をする日らしい。
俺はこの前のゴールデンウィークで、好きなミステリー小説を読み終えたので、新しく青春小説に手を出してみた。
ちょうど、主人公が進路希望のプリントを紙飛行機にして、橋から放り飛ばしたシーンから始まる。
高校生にとって進路希望とは、もはや人生の羅針盤である。俺たち高校生は、進路希望の通りに人生を歩んでいかなければならないと錯覚する。そして本当にそのまま実現してしまう人間もいれば、全て忘れてまるで違う生き方をする人間もいるらしいが。
なんにせよ、高校二年生には、荷が重過ぎるタスクである。
実は今日の帰りのホームルームで、進路希望の用紙を渡された。
提出期限は、一ヶ月後だ。
まず失くす自信しかない。引き出しの奥でプレスされ続けて見るも無惨な姿になるか、リュックの底で塵と化すか、他のプリントと一緒に捨てられるかだ。
ただ、渡されてすぐに提出しているクラスメイトもちらほらいた。たしかあいつは医者になると言っていた。もう一人のやつは弁護士になると言っていた。
志の立派なやつだ。素直に尊敬する。
そして俺も、さっさと書いて提出すべき進路があるはずなのに、今の自分がその進路に嘘をついている気がして、手が進まなかった。
先輩に聞いてみた。
「先輩って、進路とか決まってるんですか」
「進路ね……まあ、実はこれといってないんだよね。全然イメージわかなくて。今の私に明確な夢、みたいなものはないのかも」
「そうなんですね、先輩、なんか達観してるところあるから、ずっと先の将来まで見据えてると思ってました」
「買い被りすぎだよ。そういう黒原くんは、何にも考えてないように見えて、夢だけは一人前にもってそうだよね」
「そ……んなことはないです。僕も探し中です」
「へぇーまあ、まだまだ先の話だし、気楽に行こうよ」
「ですね」
これ以上先輩の勉強の邪魔をしてはいけないと思い、俺は一度自販機に向かった。先輩と同じカフェオレを買う。他にもバナナジュースやらミックスジュースがあるが、俺にはカフェオレしか目に映らない。他の味にはあまり興味がなかった。
部室に戻ると、先輩はもくもくと英語の長文問題に取り組んでいた。びっしりと英単語で埋め尽くされた文章と一年後には向きあわなければならないと思うと、気が動転してしまいそうになるが、目の前には現実逃避のための青春小説がある。
何も考えず、読書に没頭した。
先輩は、十七時を超えると、時計を見る回数が増える。おそらく、バスの時間を気にしているのだろう。
俺が部室に来るようになってからの二週間、先輩は、例外なく、毎日十八時五分のバスに乗る。本当に、一本のずれもなく、決まってその時間のバスに乗る。
奇妙なまでの規則性。
勉強が一段落したのか、先輩は伸びをした。
俺は、気になっていることがあったので、それを質問してみる。
「先輩、よく別れ際に「またらいせ」って言うじゃないですか」
「うーん、たしかにそうだね」
「あれって何ですか、死亡フラグですか」
「違うよ、あれは私のおばあちゃんが使ってた、「また明日」っていう意味の方言だよ」
「へーそういう意味だったんですね。言葉が強すぎて毎晩先輩の安否を気にしてましたよ」
「ふーん、それはありがとう。黒原くんは優しいね。あと私は、来世も黒原くんとまた巡り逢いたいって意味もこめてるよ」
「……え」
「冗談だよ」
「逆またらいせ」
「こわいなー」
「冗談です」
「ならいいけど。でも、私は「また明日」っていう言葉、好きなの。明日会うことが確定していて、さらに明日会いたい人にしか言わないセリフ、だと思ってる。まあ、会いたい人っていうのは大袈裟かもしれないけど、少なくとも明日会いたくない人に言うセリフじゃないよね。だから、私だけの「また明日」にあたる「またらいせ」って、すごく好き」
気を抜いていれば、なんなら告白されている気分になるぐらい「好き」とか「会いたい」とか言われたが、気をつけてよく聞いてみると、先輩は俺ではなく言葉に対して恋をしているようだった。
「たしかに、素敵な言葉だと思います。僕も使っていいですか。まあ、使う相手先輩だけだと思いますけど(あんま知り合いいないんで)」
「いいよ、使ってあげて。これで方言が途絶えずにすむよ」
「そうですね」
「おっと、もうこんな時間か、そろそろ帰る準備しなくちゃ」
先輩がいつも乗るバスの時間が近づいていた。
「先輩、ほんとに毎日この時間のバスに乗りますよね」
「そうだね」
「どうしてなんですか、まさかホームシックなんですか」
普段の会話通り、おちゃらけたやりとりをしたかった。だから先輩の、今回だったら「違うよ、黒原くんとの時間を制限してるだけ」なんて返しを期待して言っただけだった。悪意は、これっぽっちもなかった。
しかし、先輩は、明らかに傷ついた顔をした。不意打ちのボディーブローを喰らったボクサーのように、一瞬、その綺麗な顔をしかめた。
俺は焦った。かなり焦った。そして下手を打ったと思った。誰しも、言われて傷つく言葉がある。俺は、部活をしていないので、たまに同級生が冗談半分で「ニートじゃん」と言ってくることがある。笑って誤魔化しているが、内心まあまあ傷ついている。
自分の立場に、気づいて傷ついている。
先輩にも、悪い意味で琴線に触れる言葉はあるはずだった。それを事前に知ると言うのも無理な話ではあるが、その努力をしていればどうにかなったかもしれない。
「ちょっと、ホームシックなわけないでしょ……もー」
先輩は帰り支度の手を止めない。どころかみるみる早くなって、物の扱いが雑になっていた。勉強していたノートがスクールバッグに入っていくたび、俺の心臓はとげが刺さるような痛みを覚えてた。
先輩は二の句を告げないようだった。いつもなら、キレる頭で気持ちよく切り返してくれるのに、今は帰る用意をしながら「えーっと」とか「あとこれか」とか言うだけで、こちらを見る素振りもない。ショックで頭が回らないのだろうか、そんなになるような、致命的な一言を俺は言ってしまったのか。だとしたら、俺はゴミクズだ。
俺は読めるはずもない本に再び目を通し、できるだけ先輩に気を使わせないようにしようとした。それが精一杯だった。
先輩は、いつもの倍ぐらいのスピードで荷物をまとめ、「じゃあ、帰るね」と残し、部室から出ていった。
一ヶ月、毎日聞いていたはずのあの決まり文句も、もうそのイントネーションを思い出せないくらい、遠い言葉のように思えた。
先輩は、そのあと一週間、部室に来なかった。
その一週間は、ちょうど梅雨とかぶっていた。近年にしては珍しく、六月に梅雨が来て、雨の中、俺は部室で本を読んだ。
一人の環境は悪くなかったけど、さすがに木曜日ぐらいから部室ないの静寂が気持ち悪くなった。色々な葛藤を経て、俺は一度、三年生のフロアに行って本仮屋先輩はいますか、と聞いた。先輩は学校にすら来ていないらしかった。
だから土日を挟んだ月曜日の今日、職員室に行ったら部室の鍵がすでに誰かによって回収されていて、走って部室に行くと、机の上に、
『屋上庭園にいる可能性がある』
という、どうして不確定要素にしたのかわからない置き手紙を見つけた時、俺は安堵した。もちろん屋上庭園までも走った。途中、体育教師に「走るな!」と怒鳴られたが、心底どうでもいい。
ただ、屋上庭園に入る前に、ふと思い当たり、一度自販機に引き返した。
カフェオレぐらい用意していかないと、喋る権利すらないように思えたから。
屋上庭園には、置き手紙通り、本仮屋先輩がいた。
街中を見渡せる席で、ポツンと一人。
そういえば、初めて会った時、俺はいたずらをされた。そのせいで情けない声をだすハメになった。それが一ヶ月ほど前の出来事だと思うと、時間が経つのはやはり早いのか。
「先輩」
「おー。やっほ、黒原くん」
「はい、これ、よければどうぞ」
「わ、後輩の君が私に奢るなんて。私を最悪の先輩に仕立て上げる気?」
「そんなつもりは……ただ、先週のこと謝りたくて」
「先週……なんのこと?」
「いや……あの、先輩にホームシックなんですか、って言っちゃったじゃないですか。あのとき、なんか先輩を傷つけちゃったなって思って。全然部室に来なかったし」
「あー、なるほど。まさかあれ、自分のせいとかおもってないよね」
「思ってます」
「そうか、じゃあ私は最悪の先輩だ」
ポカリと自分の頭をたたいた。
「あの日、私が学校休んだことに、黒原君はまるっきり関わってないよ。いや、うーんどうだろう、関わってない、と言ったら嘘になるかも」
「じゃあやっぱり僕のせいじゃないですか!だ、大丈夫だったんですか」
「大丈夫だよ。ちょっと家で色々あっただけ。でも、黒原くんのせいじゃないよ。むしろ、黒原くんは私に時間と……逡巡をくれた。色々考えられたんだよ」
「しゅんじゅん……?」
「ためらいって意味」
「そうですか……」
「まだ読書が足りないね」
「ぽいですね」
先輩は、俺が渡したカフェオレを持つと、ストローをポシュッっと出し、パスッと差した。そして、遠くを見ながら一口。
前、ちょうどそこで俺がそうしていたように、先輩は黄昏ているようだった。
加えて、俺は気づいた。
「あれ、今日は本、持ってきてないんですか」
「あ、たしかに。私としたことが、これは本仮屋の名に恥ずべき行為だな」
ちょっと本を取ってくるよ、と言って先輩は部室に向かった。
待つこと四、五分。
先輩が屋上庭園に入場してくる足音が聞こえた。
俺はいつかみたいに、なにかいたずらされるかもしれないと思った。そして、わざとされてやろうと思った。Mなのかもしれない。いや、Mである。
先輩の足音がこちらへ近づいてくる。俺は、読書に集中しているふりをした。
しかし、先輩は、結局何もせず、俺の隣に座った。
……透かされて、空かされた気分だ。
「もしかして、私がまた何かする思ったの?黒原くんはとことんMだね」
やはり先輩にはお見通しのようだった。
「そ……そんなことないですよっ」
「ふーん。ま、いいんだけどさ」
今日の先輩は、いつもと少し違ってみえる。自己完結していない、という表現が一番しっくりくるかな。
俺は、問いかける言葉を必死に探したが、俺の頭の中の引き出しはそこまで有能ではなかった。代わりに、目の前の本を読む。先輩も同じだった。
これまで部室で本を読んでいた時も、今もそうなのだが、俺は時折、先輩の顔を見る。目が行ってしまうと言う方が、本質的かもしれない。先輩の顔は、とても整っている。目が大きくて、鼻がツンとしていて、おちょぼ口。文学女子の横顔は、黄金比を宿していた。読書の合間に、目の保養もできるとはなんたる幸せか。
先輩もそれに気づいているのか、こちらに目線を合わせてくるときもあれば、合わせないときある。
今日は一度もなかった。その代わり、ページを捲る手はお互いにとまらず、めっぽう読書が捗った。
十八時五分を過ぎたことに、気づかないぐらいに。
「あーあ」
唐突に、先輩が話し始める。
「いつものバス、行っちゃったね」
「え、もうそんな時間なんですか」
慌てて時計を見たが、件のバスはつい数分前に発車していた。
「先輩、乗らなくていいんですか」
先輩の方をみると、その表情からは諦観の雰囲気が窺える。
「今日は、あれには乗らない」
先輩は本を読むのをやめた。パタン、と本を閉じて、バーのカウンターにいるような座り方をした。
「私ってさ、ピアノがすっごく上手いんだ」
「自慢ですか……」
「うん、自慢」
ただし、先輩の口調に、驕りは感じられず、代わりに、憂いを感じた。
「いつだったかな、読んでた漫画に出てきた文言なんだけどさ、『努力してる奴が、楽しんでる奴に勝てるわけがない』っていうのがあるんだ。確かにこれは一理あるかもしれないって思った。だけどやっぱり、努力していなくても、楽しんでなくても、上手い人が一番上手いんだよ。最低限必要な出席日数だけ学校に来て、他の日は休んで全部、本当に全部ピアノに注いでいる人もいるし、心から音楽を楽しむ天才肌の子もいる。でも、適当に習ってた私は、その人たちの誰よりも上手い。少なくとも中学まではそうだった。私は楽しかった。お父さん、お母さんに褒められて、トロフィーをもらって……。でも、ある日、図書室で本を読んでいて気づいた。ピアノだけが、私の選択肢じゃないって」
俺は驚いた。
自分が去年の夏、バスケをしながら悩んでいたことと似ていたからだ。
このまま、バスケットボールを続けていていいのだろうか、と。
本当の自分の夢は。本音は。どこにあるのか。
「高校生になって、私はピアノをやめようと思った。まだ他に、見たい世界があったから。普通に勉強して普通の高校生をやってみたかったから。もっとたくさん、本を読みたかったから。でも、お母さんはピアノをやりなさいといった。私が抵抗しようとしたら、お母さんは逆上して、私の生活を管理するようになった。私は、お母さんの道具でも、お母さんのピアノでもないのにね——」
先輩は先週一週間、母親に言われてずっと家でピアノを練習させられていたことを話した。
学校に行きたかったとも言った。
「もう、ピアノの前にいくと、体に力が入らなくなって、何も考えたくなくなった。もうピアノのことなんか、全然好きじゃなくなってた。楽しくも面白くもない、好きじゃないことをどうして無理してやらきゃダメなんだろう、って考えて自分が可哀想になってでもどうしようもできなくて弾くしかなくて……」
自分の指を握りしめる先輩の左手は、怯えて、震えていた。
「こんな気持ちのまま、高校生活を終わらせたくない……いやだよわたし、いや……」
先輩は泣いていた。
いつも、最強のオーラを身に纏い、悠々としている先輩の涙、その泣き顔。冗談のようだった。嘘のようだった。
だけど、きっと、いつか俺も同じようなことを考えて、拗らせて、そして流した涙があったから、その温度まで手に取るようにわかった、気がした。
「先輩……」
俺はあのとき、やめる、という選択をしたけど、それは可能だったからだ。親や担任が、「もう少し考えてみたら」と言うことはあっても、俺の選択を止めることはしなかった。
先輩の場合は、母親が関わりすぎている。基本的に、高校生の子供が親に抗うのは難しい。不可能に近い。親がいないと、生きていけないからだ。
子育てにはその人のエゴが出るという。だからってそれは、子供のエゴを傷つけていい理由にはならない。その行為は、理不尽極まりない。悪だと言ってもいい。
自分の人生を自分で選択できない恐怖は、あるいは精神的拷問とさえ表現できなくもない。じわじわと、一つ一つ芽を摘まれる感覚は、まわたで首を絞められる感覚に等しい。
先輩はまさに今、その拷問を目の前に想像して、きっと震えているのだ。
先輩は、自分の口から出る脆い鳴き声を、驚いた様子で抑え込んでいた。しかし、その指の隙間から、嗚咽はこぼれ落ちた。
俺はどうにかしないといけないと思った。知らんぷりをできる関係性だとは、もう思っていない。もし仮にそうだったとして、先輩をここで放っておいたとしたら、後でどれほど後悔するかなんて、知れたものではなかった。
良い人ぶりたい、先輩にとって影響力のある人になりたいという考えが、一度もよぎらなかったと言えばそれは嘘になる。だけど、この時は、最近倫理の授業で習った性善説に近い感覚を持った。
けど何をしたらいいのかわからない。今の俺が何を言っても、慰めになったりはしない。
月九ドラマのように、そっと抱きしめる度胸も経験も、差し出すハンカチすら持っていない。ポケットにあるのは、ストローのゴミだけだ。
と思ったが、別の感触があった。ピラピラとした感触のそれは、行きつけうどん屋の無料券だった。
「あの……先輩、うどん、好きですか?」
一食につき一つもらえるスタンプを十五個集めたら、うどんが一杯無料になる。俺の、偏食気味な性分が、じわりと輝き出した瞬間だった。
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ここまで読んでくださってありがとうございます。
次回が第一部の最終話になります。