第十四話 またらいせ
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体育館に設置されたパイプ椅子に、同級生たちと座っている。そして花道を一本挟んだ向こう側に、三年生たちがいた。
校長先生から卒業証書を受け取る三年生の顔立ちに、一つとして同じものはなかった。旧帝に合格した人、スポーツ強豪大学から推薦をもらった人、まだ二次試験の後期が残っている人。状況はそれぞれだろう。ただ、全員が凛々しさを湛えていた。
開ければ「ポンッ」と音がすると噂の筒を持った卒業生たちは、もはや別次元の住人のようだった。俺が何をしても彼らに追いつくことはできない。それが時間の力だ。
誕生日が、数ヶ月違うだけなのに。カレンダーのシステムが別の世界線では、同じ学年だったかもしれないのに。
三月の二日、明日にひな祭りを控えた今日、誠真学園では卒業式が行われていた。
自分にとって、卒業を惜しむ人といえば本仮屋先輩や一年間弱お世話になったバスケ部の先輩しかいない。だけど、どうしようもなく切なかった。この誠真学園を形作り、同じ校舎で青春を謳歌した仲間が、学校を去る。話したことのない人の方が多いけれど、顔を知っている先輩方はたくさんいる。その彼らがすっぽりと、いなくなってしまうのだ。
後ろからは、親御さんたちの啜り泣く声も聞こえてくる。
「卒業生、合唱」
進行の教頭先生が厳かにアナウンスすると、卒業生が一斉に立ち上がった。それから回れ右をしてこちらと正対する。
その中に本仮屋先輩を見つけた時、胸の辺りからぐっと込み上げてくるものがあった。歌も始まっていないのに、目頭が熱くなる。
練習時間もそこまで取れたわけではないはずなのに、卒業生のハーモニーは調律が取れていて琴線に触れる歌声だった。
俺の席からは、楠本の顔がたまたま見えたけど、彼女は泣いていた。視線を教師陣に移すと、谷松先生も号泣していた。いや先生は俺らの担任じゃん。
歌が終わり、閉式の辞が読まれた。音楽の安達先生がピアノの前に座り、高校生を送るための旋律を奏で始めた。
卒業。拍手が鳴り止まない花道。先輩たちはもう受けられない授業を懐かしみ、部活動で流した汗と涙を振り返り、友達や恋人と過ごした時間を幸せそうに名残惜しんで、体育館を後にした。
先輩方の旅立ちの日に居合わせられたことを、光栄に思う。
※
卒業式の日には桜が咲いているものだと、勝手に思い込んでいたがそんなことはなかった。三月も始まったばかり。せいぜい、近所にある梅の木につぼみができているぐらいだ。
お昼時に窓から差す日光が少しだけ強くなったけど、気温もまだまだ低い。教室に戻る途中、冷風をもろに浴びたけど首筋あたりが凍るかと思った。
卒業生はこの後ラストホームルーム。二年生、一年生は帰宅か部活か図書室で勉強だ。
俺は教室で弁当を食べ、なんとなしに世界史の資料集を見ながら、今からの行動を決めあぐねていた。
先輩と、最後にもう一度話をしたい。
本当に今日が最後になるかもしれない。そして、今日話せなかったら、今日を最後にすることすらできない。
伝えたかったことを、伝えられない。言いたかったことを言い切れない。
これからも会えるなら「またらいせ」を、もう会えないなら「さよなら」を言いたい。
好きだっていう気持ちも──
………
にしてもだ。
ラストホームルームがいつ終わるかわからないし、それが終わってもその後の卒業生同士での写真撮影がある。つまり、先輩の体がいつ空くかわからない。
もう、ラインを送るしか方法は見つからなかった。
読んでもらえるかはわからないけど、写真撮影でスマホを見る機会が多いはずだという希望的観測のもと、メッセージを送った。「ご卒業おめでとうございます!少しだけ先輩と話したいんですけど、どこかで時間もらえないですか」
あとは待つだけだ。
返事を待っている間、読みかけの本を読んでいた。スマホの通知画面が気になりすぎて、一ページ読むのに普段の十倍ぐらいの時間がかかった。気が気ではない。
一時間ほどたった頃に、スマホが動いた。
その一時間、俺がどれほどの心労を味わったかは、想像にまかせるけど、何回か弁当が胃からもどってきたことだけは報告しておくよ。
スマホの振動は長かった。電話だ。
テンパる心臓を左手で抑える。右手で通話ボタンを押し、耳に当てる。
「はいっもしもし」
「おーもしもし、黒原くん?私今、正門の近くにいるから来て」
「せ、正門の近くですね!わかりました、すぐ行きます!」
「はーい」
電話は切れた。
神速で教室を出る。
脇汗をびっしょりかいている自分が、少し可笑しかった。
「ごめーん、こんなところに呼び出して」
走ってくる俺を見つけた先輩は、少し遠くから声をかけてきた。
「大丈夫でーす、逆に先輩、寒くないですかー」
走りながらも応答する。
次の先輩の答えを聞く前に、先輩の目の前に到着した。
「私は寒くないよ、上質なヒートテック着てるから」
「そうですか、なら、よかったです」
全速力で走ったから、俺の息は切れている。
「部室じゃ、なかったんですか」
「うーん、部室もいいかなと思ったんだけど、たまにはこういう開放的なところで黒原くんと話してみようと思って」
「開放的……」
今いる場所は、校舎と正門の間にあるスペースで、花壇とか植木鉢とかちょっとした木とかがあるところだ。
花壇には、黄色いスイセンや季節外れの白いクリスマスローズが咲いていて、卒業生の門出を満開の花びらで祝福している。そのすぐ近くでは、樟木が一本立っていて、これからの卒業生の未来の逞しさを体現していた。
「あ」
先輩が花壇を見る。
クリスマスローズの花びらが一枚散った。
「植物も、先輩たちがいなくなるのを悲しんでますね」
「擬人法……文学的だね」
ここは開放的で、気持ちのいい場所だ。自然を感じることもできる。
でも捻くれて考えがちな俺は、閉鎖的な空間である文芸部室では俺と話したくなかったのかな、と一瞬にして考えた。
いまそんなこと考えてもしょうがないか。
「校内の花たちを見るのも、ひとまず今日で最後だと考えると寂しいな」
「OBとして学校に訪問すればいいじゃないですか、来年も」
「うーん、まあ一回ぐらいは来るかも」
「その時は、言ってくださいね。色々お話聞きたいので」
「わかった。黒原くんは来年も部室にはあんまり行かないの?」
「そうですね。まあ基本は自宅近くのスーパーに行くと思います」
「文芸部はどうするのー」
「あそっか。まあ籍だけ置いときますよ」
「存続は黒原くんにかかってるんだからね」
「責任重大ですね……」
「そうだよ」
「じゃあ、たまに部室にも行っときます。先輩が来る時に備えて、掃除もしないといけないですし」
「ありがと。じゃあ来る時は事前に伝えるね」
「お願いします」
卒業式なのにもかかわらず、会話がとても日常的なのは気のせいだろうか。
本題に移らなければ。
「先輩……」
「はい」
人生で初めての告白、頭から火が出そうだ。
色々言いたいことはある。
長らく部室に行けなくてごめんなさいとか、小説また一次選考で落ちましたとか。
でも順番として、やっぱり一番先に言いたい。
先輩を今目の前にして、卒業式なので普段よりももっとおめかしをしていて、もうわけがわからないぐらい可愛くて、俺の頭にもパンジーとか咲きそうな今。
真っ先に伝えたい。
春の風が吹いていて、髪が靡いていて、その髪を手で押さえる様子が綺麗すぎるこの先輩に告げたい。
その両手には類稀なる才能を隠していて、でも自分の意思でその才能から離れることを決意し、自分の未来を切り拓こうとしている、そんな尊敬に値する一学年上の先輩にぶつけたい。
あなたに告白したい言葉。
「好きです」
「私も好きです。でも付き合ってあげない」
とりあえず心臓がもうもたないし、頭も回らないけど。
人生初で一世一代の俺の告白は、多分失敗した。でも好きって言われた気もする。
聞き間違いじゃなくて、解釈違いでもないなら。
「私はね、黒原くん」
「は、い」
「男女の友情があるかは、わからないんだ。でも、黒原くんとの友情はありえないって思った。恋人か他人か、そのどっちかしかない」
極端だ。でも、それは俺も同じだった。
「で、私は黒原くんと恋人になりたい。でも黒原くんを安心させたくない。黒原くんのペースにしたくない」
安心。ペース。
「先輩、僕今何を言われてるかあんまりわかってないです」
「それでいいよ。黒原くん」
「いいって……」
「それで、いいの。わからないなら、わからないと言ってくれればそれで良かった」
時計の針が、逆戻りする。
「どうして、部室に来なくなったの」
「どうしてって──それまで先輩に甘えてばっかだったから……」
「後輩が先輩に甘えないでどうするの」
「先輩を頼ってばっかで……そんな自分が気持ち悪くなったんです」
「気持ち悪くたっていいじゃん。私が気持ち悪がってないんだから」
「でも、先輩の邪魔になると思って」
「それは私が言ったことなのかな」
「え」
「私は、一回でも黒原くんに勉強を教えるのが鬱陶しいとか黒原くんの話を聞くのが気だるいとか言ったかな」
それは。
「言ってないです」
「そうだね。そうやって気を使って会わないことが、本当に相手のためになっているのかな。それって言ってしまえばエゴじゃないのかな」
「エゴ」
告白の返しに、こんな単語が出てくることがあるんだ。
「私が黒原くんをどう思ってるか、本当に考えたことあった?」
「先輩がどう思ってるか……あ、ありますよ!」
「あるんだ」
「そうですよ、先輩はたまに僕のこと、友達って言ってたじゃないですか。それを聞いて僕も、ああそうか先輩は僕のこと友達としてしか見てないんだって思ってましたよ」
「それは、私のいじわるとか照れ隠しだったかもしれないよ?」
「そんなのわかんないよ!」
一瞬、新世紀という名前のつくロボットアニメ(厳密にはロボットではないらしい)の主人公が脳裏をよぎった。
「友達と呼ばれたら友達と思うじゃないですか!」
「小説を書くんだったら、言葉をそのまま言葉の意味で受け取っちゃだめだと思うな!」
「僕の頭は自分に都合の悪いほうに考えるシステムでできてるんですよ!こと恋愛に関しては」
「それは鈍感って言うんじゃないかな!」
「違います!」
「じゃあ逃げだよ!」
「逃げてないです!」
「逃げてないなら、黒原くんは部室に来るべきだった!私と会うのが怖かったんでしょ!私にどう思われてるか考えるのが怖かったんでしょ!」
「だって先輩は優しいから、心の中でどう思ってようと僕が傷つかないように変換して話してくれるじゃないですか!そんなのわかってるんです……」
「ほら、また私の心の中決めつけてる!そうやって私と向き合うのをやめて、楽してたんでしょ!勉強と小説だけやっとけばいいって思ってたんでしょ!やることやっとけば、誰にも何にも言われないって!」
「そんなことないです!僕だって、先輩と会いたかったです!」
「……」
「先輩は今日朝ごはん何食べたかなとか何分のバス乗ったのかなとか今体育かなとかずっと考えてました!」
「そんなの、今言うなんてずるいよ!遅いよ!」
「仕方ないじゃないですか!時間なんて、いくらでもあると思うじゃないですか!明日言えばいい。来週でもいい。先輩はまだ学校にいるって、そう思うじゃないですか。そしたら……もう卒業式じゃないですか……」
「……そうだね。もう、卒業だよ私」
「……ほんとですか」
「ほんとだよ」
遠く離れてしまう前に、本音をぶつけることができてよかった。
その気になれば、こんな一瞬でできたことだったんだ。全部の帳尻合わせをするのに必要だったのは、まとまった時間でもなく落ち着いた場所でもなく、ほんの少しの勇気だった。
あの夏の八森駅で、先輩と一緒にうどんを食べた日。先輩が高校三年生だということに今更のように気づき、先輩に残された時間の少なさに唾を飲み込んだ。
卒業の日を迎えた先輩を前にして、もはや飲み込む唾もない。
実感のない喪失感だけが、胸中に広がっていく。
「黒原くん」
「……はい」
「気づく気づかないに関わらず、お互いを想っていたとしてね、それがどれだけ強くてあつくて一途だったとしてもね──」
「はい」
「それでもやっぱり、会わないとだめなの。想いを留めつづけることはできないの」
会う──
こうやって瞳を合わせて、お互いを見る。
「人の気持ちは、変わるから。私はてっきり、黒原くんは楠本さんといい感じなんだと思ってた」
「ちがい──」
「たまに一緒に帰ってるところ、見たりしてるんだからね」
「そりゃ……家が近いからです」
「そんなの関係ない。私からして、二人が仲良さそうにしてるのを見たら、それはもう一緒に帰ってるだけなんだとはならない。そこに二人の気持ちを透過して見てしまうよ」
「それは先輩の考えすぎです」
「だって、黒原くんは男女の友情はないと言ってたから」
「それは……」
「じゃあ逆にね黒原くん、私が、他の男子と笑顔で話しながら帰ってたら、それをどう見る?」
「……付き合ってるのかなと思います」
「そういうことだよ。結局ね、会わなきゃだめなの。そうじゃなきゃ、相手のことがどんどんわからなくなる。でも無理にわかろうとするから、自分の想像で相手の気持ちを勝手に決めつけて、離れていって、忘れてしまうよ。黒原くんは、そういう人だよね。私だってそう」
「先輩も……」
「うん。わからないなら、わからないって言って。知りたいなら知りたい、不安なら不安だって言って。全部言って」
「……はい」
「私も黒原くんは私から離れたんだと思った。だから私は忘れようと思った。最初の方は部室に行ってたけど、途中からやめたの。でもお正月とか受験の日とかちょこちょこラインくれるし、でもやっぱり全然音沙汰ないし。何考えてるのかわからなかったよ。あのね、私、女子の中で少数派だと思う。女子は見切りつけるの、結構早いんだからね」
「ど……どもっす……え……でも、付き合っては……」
「だめ。付き合わない」
「どうして」
「だって付き合うって言ったら、黒原くんは安心しちゃって私のことまた考えなくなるでしょ」
「そんなことないです」
「ほんとに?」
「先輩と会わない間も、三十分に一回ぐらいは先輩のこと考えてました」
「信じられない」
「信じてくれなくても、僕は考えてました」
「じゃあ、来年までずっと考え続けて」
「え」
「来年、黒原くんが卒業して大学生になるまで、大学生じゃなくてもいいけど、とりあえず高校を出るまでずっと、私のことを考え続けて」
「なんですかそれ」
「そうして一年後、私のことを忘れてなかったら、付き合う」
「冗談……じゃないんですよね」
先輩の顔を見れば、わかった。
「うん。でも、私の気持ちが黒原くんから離れない保証はないよ」
「なんですかそれ!」
「だって華の大学生だよ。人生の夏休みだよ。いろんな出会いがある」
「そんなのだめですよ!先輩なんて……可愛いしコミュ力高いんだからすぐ彼氏できちゃうじゃないですかぁぁぉ」
そう言うと、先輩はお腹を抑えて笑い出した。
「あーもう、おもしろいね黒原くんは。可愛いなんて、これまで一回も言ってくれたことなかったのに」
「そ……それは言えないでしょ……」
「でも、大学には息をするように「可愛い」を言えちゃうような、手慣れた男子がいっぱいいるんだよ。院生も含めたら、五歳上までいるんだから。浪人とか留年してる人もいるから、もっと上もいるだろうし」
「だめです」
「大丈夫。電話とかはするし、手紙を書いてもいい。たまに会おうよ。それでいい?」
「……いいです。嬉しいです」
「うん」
「電話したりたまに会うっていうのは、付き合ってるとは言えないんですか」
「あーそっか。じゃあそういうのもやめようかな」
「うそうそうそうそうそ!うそです!やめないでください!」
「はーいわかりましたー」
今、すごく叫びたい。「やったー」でも「くっそー」でもなく、「君が好きだ!」と。
こんな仕打ちはない。
会ってくれて電話もしてくれるけど、付き合ってはくれないなんて。
生き殺しだ。
あ、そうだ。
「先輩、卒業おめでとうございます」
卒業生にこれを言わずには帰れない。
「うん、ありがとう。黒原くんも、進級おめでとう」
「僕は……まだ確定はしてないですね。学年末で赤点取ったら終わりっす」
「そっか、高一高二はテストまだか」
「そうなんです」
「うん、多分大丈夫だよ。黒原くんならやれる」
「やります」
「小説の方は、どんな感じ?」
「この前、一次選考でまた落ちました」
「そっか。でももう次の作品応募したんだね。すごいよ」
「まだまだ先は遠そうです。でも僕、絶対に小説家になります」
「応援してるよ、誰よりも」
「ありがとうございます。叶うのがいつになるかはわからないですけど」
「簡単に叶えられないから、夢って言うんだよ」
「……やっぱり先輩と話してると、元気が出ます」
「それはお互い様だよ。黒原くんがいなかったら、今の私はない」
「先輩がいなかったら、今の僕もないです」
「あ、かっこつけた」
「え、今そういうノリじゃなかったんですか⁉︎」
裏切られる。先輩はまたころころと笑う。
「はぁー、ちょっと話しすぎた。そろそろ戻るね」
「もう、ですか」
「うん、次会うのはいつかな」
「いつでしょう、春休みに会えたら嬉しいです」
「でも私、引っ越ししないといけないんだ。しかもまあまあ遠いし」
「八森から先輩の大学の最寄駅まで特急で片道二時間ぐらいすもんねー」
「そう。まあお盆とか帰ってくる時はまた伝えるよ」
「僕ももしそっち側に用事ができたら連絡します。何もなくても電話はします」
「待ってます。あ、そうだ」
先輩は上着のポケットから、俺が大好きなカフェオレを出した。
上着のポケットって、結構容量あるよね。
「はいこれ。さっき間違えて二本買っちゃったから、あげるよ」
「間違えて二本買うなんて、そんなミス先輩がするんですかね」
「さあ、どうでしょう?たまには私もミスするよ、人だもの」
「そうですか。ではそのミスに感謝して、いただきます」
カフェオレを受け取るときに触れた指先の感覚がどうしても愛しい。
「それじゃあさ、いきなりだけど、今夜電話してみようよ」
「してみたいです」
「おうけい。いつでもかけてきて。出れるようにしとくね」
「わかりました」
「うん、じゃあほんとに戻るよ」
先輩が俺に背を向けようとする。
あれ。ちょ、ちょっと。
「ちょっと待って」
「どうしたの」
先輩がもう一度こっちを見てくれる。ホッとする。
「ちょっと待ってください」
「うん」
何を言えばいいのか、わからない。呼吸が荒くなってくる。
手に持っているカフェオレが、唐突にぼやけてきた。
いやーつらい。つらいわ。
明日から先輩が学校にいないのが、つらい。
そんな急にどうして。受け止められない。
つらい。つらいつらいつらい。
嘘だと言ってくれ。
なんでもっと早く、こういう会話をしなかったんだろう。会わなかったんだろう。そうしたらもっと、もっとなんでもできたのに。
自責の念が、指数関数的な速度で爆発していく。支えきれない。
別れ。
言いたくないけど、一旦さよならだ。
さよならは、悲しい言葉じゃんか。
「泣かないで」
いつのまにか先輩は目の前にいて、俺の涙をセーターで拭ってくれた。
「楽しかったね。この一年間」
「はい……っ……」
「私は、黒原くんにさよならとは言わないよ」
「……っ……」
「明日から学校にはいないけど、それでも私も、また黒原くんに会いたい。ううん、会う」
「はい」
「私の高校生活を、幸せなものにしてくれて、ありがとう」
「……ぅ……っ」
「心から、ありがとう」
「僕のほうこそ……っ……うぅ……あ……ありがとうございました」
「うん、はいもう泣かない」
先輩は俺の両肩をどんと叩く。
「私が泣かせたみたいになるじゃない。先、校舎戻るね」
「……ぅ……はいっ……」
「じゃあね」
先輩が、コツコツとローファーの音を鳴らして、校舎にもどっていく。
あの人はほんとにすごい。
俺の心を根こそぎ持っていった。
体内では、先輩への想いが血と一緒にめまぐるしく循環している。脳がジンジンする。
でも、一つ。
たった一つだけ、心残りがある。
先輩は、合言葉を言わなかった。
二人で部室に入り浸っていた時、毎日のように交わしていた合言葉。言った方も言われた方も、嬉しくなる魔法の言葉。
それを言い忘れるはずがない。
そう思って、落胆の気持ち強めに、手に持ったカフェオレをじっと見た。
そこにはマジックで大きく「またらいせ」と書かれていた。
※
ここまで読んでくださってありがとうございます。
次のお話もよろしくお願いします!




