第十話 普通電車
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高校生にとっての受験期。一般的には高校三年生だと思われているかもしれないけど、実際はそうではない。
遅くとも、高校二年生の秋から本格的に勉強をしないと、旧帝大や名の立つ私立大に合格するのは難しい。
あんまり触れなかったけど、この前文化祭があった。高校三年生は一心不乱に勉強と模試のサイクルを回すから、文化祭を切り回すのは高校二年生だ。そして文化祭が終わると同時に、高校二年生たちも受験モードにスイッチを切り替える。
最後のお祭りということで、みんなの気合いの入り方は段違いだった。俺のクラスは劇をやることになった。男女逆のキャストにするとか、昔話を捻じ曲げておもしろくするとかそういう冒険はせず、有名な舞台の役回りをうまく高校生に落とし込んだシナリオで勝負することにした。俺は照明班の下っ端も下っ端で、本番中にスイッチをいじったのは三回こっきりだった。
もし俺が「小説書いてます」とか大口を叩いていたら、シナリオを書くはめになっていたかもしれないので、つくづく自分がクラスの置物でよかったと感じた。
いや、一次選考に落ちてるのだから、そういうたらればを考えることすら傲慢だな。
文化祭が終わってからは、みんなの行動がよりバラバラになってきた。
予備校に通う人は放課後一番早いバスに乗るし、学校に残る人は自習室や教室で教材をしらみ潰しにやっていく。学年全体に、得体の知れない緊迫感が走り始めていた。全員が仲間であると同時にライバルであり、過度の会話は相手を妨げる行為になりかねない。
一方で、まだもう少し高校生としての青さや若さを存分に活かしたいとする人は、近くのカフェで話し込んだり、デートしたりしてるそう。ソースは全部教室で聞こえる会話。
いかにも中堅の進学校といった風だ。
そんな中でも掛崎たちバスケ部は、県予選のベスト八まで進んでいた。学校史上初の快挙だと谷松先生は言っていた。掛崎の活躍が主因であることはあらかた想像がついた。
全員が変わろうとしていた。いや、確かに変わっていた。
顔つき、生活習慣、行動。
俺以外の全員が、大人への階段を登る。その足音が耳につんざく。
俺はまだ一段目にすら足をかけられていない。
それが露骨に現れている事象が、今日の補習だろう。前の中間テストの成績が不審だった者に宛てられた補習。
なんと、参加者は俺一人。呆れも情けなさも通り越して、危うく開き直りかけるところだった。
でもそれだけではない。補習が終わった後は、特別課題という砂漠の荒野を一人歩かねばならない。
原則、中間テストと期末テストの点数を合わせて六十点未満の教科がある場合、その生徒の留年が確定する。俺は中間テストで数学、物理、化学で赤点をとった。
この問題冊子は、それぞれの教科の先生が情けでくれた、平常点をおまけするためのアイテム。万が一俺が留年の条件を満たしてしまったときの保険だ。ただしタダというわけではない。それぞれ軽く五十ページは超えてるうえに、回答がないので写してはい終わり戦法はできない。
市販の問題集を漁ったら答えが転がっているかもしれないけど、そんなことをするよりおとなしく問題を解く方が早そうだと思った。
今日から一ヶ月半ほどでこの冊子を終わらせないといけないから、なかなかタイトでハードなタスクだ。でも情けをかけてくれるだけありがたい。俺に冊子を渡すとき、谷松先生は「昔はこんなんなくてな、突然「はいあなた留年です」で終わりだったんだぞ」と言っていた。時代もしくは風潮に俺は救われた。
最初は、本仮屋先輩に教えてもらいに行こうとした。だけど、よく考えてみれば先輩は受験期で今が一番大事なときだし、何より最近、何事も先輩頼りになっている気がした。このまま甘えているのは、気持ち悪い。女々しい。
身から出た錆を、先輩も一緒に磨かせるのは、全然話が違う。
もう火傷してしまうほど、先輩には手を焼いてもらっている。
それに、部室にいると結局、先輩の顔を見ちゃうし。集中できないし。
だからこれからの放課後、俺は教室で冊子に取り組むことにした。そのことは、先輩にもラインで言った。先輩は「わかった。色々気を遣ってくれてありがとう。お互い頑張ろう」と返してくれた。
昼休み、部室にUSBを置きに行った。誰もいない部室。俺は机を撫でた。
もう、二度と来ないかもしれないから。
夜。風呂を上がると母さんがテレビを見ていた。
「なにそれ、ドラマ?」
「うん」
「どんなの?」
「サラリーマンとOLの話。気になるなら見てたら?」
「おん」
やらなきゃいけないことはあるけど、少し良いだろうと思って母さんの横に座った。
唐突にテレビの前に引き寄せられる感覚、小学生の頃を思い出す。
ドラマの内容は至ってシンプルで、田舎から東京に引っ越してきた新人のサラリーマンの主人公と、その周りの社会人の間で繰り広げられる谷あり山あり友情あり恋愛ありの話だった。
もちろん俳優や女優の顔は整いすぎていて、そこだけはリアルじゃないけど、ドラマの中の世界は現実の写し鏡のように思えた。つい見入ってしまった。
主人公も小さい頃からサッカー選手を夢見ていたけど、いつしかその夢を忘れ、正しく言うと忘れたことにして社会のために働いている。
日々懸命に生きるうちに、主人公は仕事にやりがいを見つけ始める。出張を契機に奥ゆかしい先輩と恋に落ち、人生とはなんたるやを理解し始めるという話だった。最終話まであと三話ぐらいあるから、この先どうなるかはわからないけど。
主人公のスタンスは、とにかく「普通」でいることだった。当たり前のことを当たり前にこなし、欲張らない。自分がしている単純作業が、巡り巡って目の前の人の笑い声を作っているんだ。そういう考え方だった。
そんな主人公を見ながら、俺は自分が普通をないがしろにしすぎていたことに気づいた。中高生の時に持っていた夢を叶えられなかった人に対して、心のどこかで軽蔑の目を向けていた。侮蔑の気持ちを抱いていた。
しかし違うのだ。
普通はすごいのだ。
父親だってそうだ。月曜日から金曜日まで、朝は七時三十分に家を出て帰りは十時を回ることもある。そんな生活をかれこれ二十年以上続けている。
彼にとってはそれが普通なのかもしれないけど、とても立派なことだ。想像してみれば簡単にわかる。一週間七日あるうち、五日働いて二日休みなんて、気が狂っている。五日分の体力の消耗や気苦労が、二日ぽっちで回復できるわけがない。それでも、少なくとも俺の前では弱音を一切吐かず、ずっと家庭の大黒柱として働いてくれている。
休みがないという点では、母さんだってそうだ。毎日、お父さんよりも早く起きて朝ごはんを作り、洗濯をして、夜にはまた美味しい夕ご飯を作って待ってくれている。火曜と木曜にはパートの仕事もしている。「体を動かさないと太っちゃうから」と言っているが、私立高校の学費を少しでも捻出するためだということが理解できない俺ではなかった。
普通はすごい。そして幸せだ。
小学何年生かは忘れたけど、金曜日の夜、ファミレスに行った日のことをよく覚えている。
父さんはハンバーグ定食、母さんはパスタ、俺はマグロたたき丼を頼んだ。少食だった俺は丼を食べきれず、結局途中から父さんに食べてもらった。帰りのレジで、横に売っていたおもちゃのラジコンを特別に買ってもらった。帰ってから、家族三人でそのラジコンを走らせた。
それから今日まで──盆休みには旅行に行ったり、結婚記念日には豪華なディナーを食べに行ったり。当たり前の日々を積み重ねてきた。
これが幸せじゃないのなら、もうこの世に幸せはない。
じゃあ、普通なりに頑張って生きていれば、生きていられれば、それはもう幸せじゃないのか。
そう思うと、胸のつかえがすっと下りた。
自分が悩んでいたことが、とてもちっぽけなことのように思えた。
何を迷っていたのか。人並みに生きることは、簡単なことでも不幸せなことでもない。
何者である必要はない。何者でなくてもいい。何者でもいい。
流れてきたドラマのエンディングの歌詞も、そんな内容だった。
自室に戻る。
先輩からラインが来ていた。内容は、俺の小説を読んだ感想だった。
『本屋で買った小説を読んでる気分だったなー。登場人物のモチーフが世界各国に伝わる月の模様になってるのも、コンセプトがちゃんとしてていいよね。本を読んでるおばあさんから、円周率が実は割り切れるってことを聞いた時の主人公のリアクションも面白いし、もちをつくウサギがボディビルダー並みにマッチョなのも笑えたよ。髪の長い女性と恋に落ちるっていうのも、それまでのポップな展開から一転、様変わりしてて良い意味でびっくりした。月にいた逞しい男の人と繰り広げた、髪の長い女性をめぐっての大恋愛は見応えしかなかったし。この感想をお世辞と思うんだったら、黒原くんはまだまだ私のことをわかっていないってことになるから、ちゃんと素直に受け止めてね。
じゃあ、次はどんなお話で大賞に応募するのか、また教えてください』
先輩からの長文のメッセージ。
自分の小説を誰かに評価してもらうのは初めてだったから、読んでから数分は興奮を抑えきれなかった。ああ、早く次の小説を書かなきゃ、と思った。
でも、机の上の問題冊子を見て、そんな篝火も消えてしまった。
「普通」の魅力に気づいた今の俺にとって、小説を書くモチベーションを探すのは難しかった。それに、留年という切実で現実的なピンチが差し迫っている以上、想像や空想の文化に触れようとは思えない。
きっと、世の中の小説家たちは、こういう岐路に立った時、迷わず小説を選べる人たちなんだろうな。俺には無理だ。
『感想ありがとうございます。次の話は、少し先になりそうですけど、完成したらまた読んでください』
そう返信して、俺は再びシャーペンを動かし始めた。
当たり前のことを当たり前にできるようになるために。
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