サルリーマンという第二のヒーロー
もしも、スーツ姿の“猿”が深夜の街を守っていたら
そんな突飛な発想から、この物語は生まれました。
現代社会に生きる私たちは、仕事、生活、人間関係の中で、日々“仮面”をかぶって生きています。
この物語の主人公・田中健一もまた、仮面の裏で孤独や虚無感と向き合いながら、「誰かの役に立ちたい」と願う一人の男です。
「ヒーローなんて、遠い世界の話」
「正義なんて、大それたこと自分にできるわけがない」
そう思ってしまうあなたにも
ほんの少しでも、サルリーマンの背中が重なって見えたら。
そして、日常のどこかにある“優しさ”や“勇気”に気づくきっかけになれば、これ以上嬉しいことはありません。
「おい、田中ァ! 書類、まだか!」
部長の怒鳴り声がフロアに響きわたった。田中健一は、机の上に山積みになった資料に埋もれながら、顔をしかめた。
「すみません、今すぐ出します!」
健一は慌ててプリントアウトした報告書をクリップでまとめ、席を立った。
会社に入ってもう十年。毎日終電ギリギリまで働き、休日は疲れ果てて寝るだけの生活。もはや自分が何のために働いているのか、わからなくなって久しい。
ただ一つだけ、彼には秘密があった。
ビルの屋上。そこが、健一の“もう一つの顔”の舞台だった。
勤務を終えた午後九時、健一はこっそりビルの非常階段を上る。誰にも見られず、誰にも知られないように。
屋上に出ると、風が涼しく肌をなでた。彼はスーツの上着を脱ぎ、Yシャツを脱ぐと、中から現れたのは、赤いボディスーツ。そして、背中には尻尾。頭には猿のマスク。
そう、彼こそが都市伝説としてネットで密かに話題になっている「サルリーマン」だった。
始まりは二年前。
通勤中、駅で酔っ払いに絡まれていた高校生を助けた。咄嗟に飛び蹴りを食らわせた自分の姿が、偶然にも通行人のスマホに撮影され、ネットで拡散された。
「正義の味方か?」「いや、ただの変なサラリーマンだろ」
誰かがコメント欄に書き込んだ。
「サルリーマン」。それが健一の“ヒーロー名”となった。
以降、仕事終わりに町を巡回し、小さなトラブルを未然に防いできた。財布を落とした学生を助け、迷子の子どもを保護し、時には酔っぱらいのケンカを止めた。
しかし、彼にとってそれは正義のためでも、名誉のためでもなかった。
「俺が人間でいられる、唯一の時間なんだ」
会社では歯車。家では独身。友人もいない。
だがサルリーマンでいる間だけは、自分が“誰か”になれる気がした。
ある晩、見慣れない金髪の外国人青年がコンビニ前で暴れていた。
近づくと、叫んでいるのは英語混じりの片言の日本語。「カノジョ、どこ? いっしょ、帰る!」
店員が困り果てていた。健一はスーツの内ポケットから翻訳アプリを起動し、青年と会話を試みた。
「落ち着いて。名前は?」
「トム、ユウコ、探してる。彼女、帰らない」
ユウコという名前を聞いて、健一はハッとした。以前、職場近くの定食屋で見かけた日本人女性。明るい笑顔が印象的だった。
「どこで見失った?」
駅前らしい。
健一はトムを連れて、夜の町を歩いた。道行く人に写真を見せ、ようやく居酒屋の前で女性を見つけた。ユウコはトムを見るなり顔をゆがめた。
「もう、勝手に探さないでよ! たまには一人になりたいの!」
その言葉に、トムはショックを受けて黙り込んだ。
健一は言葉を選びながら、翻訳アプリを通して伝えた。
「君は心配していただけ。でも、彼女の気持ちも大事だ」
しばらくの沈黙の後、トムはユウコに頭を下げた。ユウコも静かに頷いた。
「ありがと、サルリーマンさん」
二人は手を取り合い、夜の街へと消えていった。
その翌日、健一は会社で遅くまで残業をしていた。
ふと、PCの画面に「件名:あなたがヒーローです」というメールが届いた。
開くと、昨日助けたトムからだった。
「Your kindness gave me hope. I will never forget サルリーマン。」
読みながら、健一の目に涙がにじんだ。
誰かの心に、自分という存在が刻まれた。それだけで、明日もまた生きていける気がした。
「さて、今日も行くか」
ネクタイを外し、猿のマスクをかぶる。
都会のビル群に、サルリーマンの影が静かに消えていった。
二章 ヒーロー、迷う―
サルリーマンの都市伝説が、ついにテレビで取り上げられた。
「深夜の東京に現れる猿のヒーロー!正体は誰だ!?」
その特集は深夜番組で十数分だけ放送されたが、ネットでは再び話題になった。
“あのサル、また出た”
“ネクタイしてる時点で会社員じゃんw”
“実在してたのかよ…”
健一は、自室でその動画を見ていた。パジャマ姿で、カップラーメンをすすりながら。
「バレたくはないけど、悪い気もしないな」
だが、次の瞬間、映像の中で自分が蹴り飛ばした相手が壁に激突する様子が流れた。
「強すぎるな、これ」
コメント欄には“やりすぎ”“怪我してそう”“暴力ふるうなら正義じゃない”という文字も並んでいた。
健一の心に、ざらりとした違和感が残った。
その週末、彼は珍しく実家に帰った。東京郊外にある古びた平屋。迎えてくれたのは、白髪混じりの母だった。
「健ちゃん、相変わらず仕事大変そうね」
「まぁね」
母は小さな湯飲みに緑茶を注ぎながら、ふとつぶやいた。
「最近、東京で変な人が暴れてるってテレビで見たけど……気をつけなさいよ」
「うん」
健一は言葉を飲み込んだ。母には、猿のマスクのことなど言えなかった。
ふと、居間の壁に飾られた古い写真が目に入った。そこには、小学生の健一と、父の姿が写っていた。
父は警察官だった。小さな交番勤務で、派手な仕事はなかったが、地域の人々に慕われていた。
「お父さん……正義って、何なんだろうな」
つぶやくと、母が微笑んだ。
「正義って、きっと“誰かのために動ける心”じゃないかしら。誰かの笑顔を守ろうとする、そんな気持ちよ」
健一は静かに頷いた。今の自分は――誰の笑顔を守っている?
その夜、健一は久々に“サルリーマン”に変身し、町へ繰り出した。
ところが、駅前の広場に行くと、奇妙な光景が目に入った。
自称“サルリーマン模倣犯”たちが、ふざけて暴れていたのだ。
「いぇーい、正義だぜー! 誰か悪いやついねーのかー!」
猿の面にスーツ、手にはビール缶。完全に悪ノリだった。
健一は黙って近づき、低い声で言った。
「やめろ。その格好は……ふざけていいものじゃない」
模倣犯の一人が笑いながら言い返す。
「なにお前、本人ぶってんの?ヒーロー気取りはキモいっつーの!」
その言葉に、一瞬、怒りが湧いた――が、拳は上げなかった。
代わりに、健一はポケットからスマホを取り出し、彼らを静かに撮影しながら言った。
「君たちの行動は記録した。ネットに流れれば、職場にも影響するだろうな」
一瞬で空気が変わった。模倣犯たちは狼狽え、逃げるように去っていった。
騒ぎが収まると、後ろから小さな声がした。
「ありがとう、サルリーマンさん」
振り返ると、小学生くらいの男の子が立っていた。彼の手を引いていたのは、若い母親。模倣犯たちを怖がって近づけなかったらしい。
「本物……ですよね?」
健一は少しだけ頷いた。
「おやすみ。気をつけて帰るんだ」
母子が頭を下げて帰っていく。
その姿を見送る健一の目には、もう迷いはなかった。
数日後。
会社の廊下で、若手社員の一人が健一に話しかけてきた。
「田中さん、この前の件……助かりました」
「え?」
「いや、僕の妹なんです。駅前で変な奴らに絡まれてたの。あれ、たぶん……サルリーマンが助けたんだって」
健一は目を丸くしたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「そ、そうか。よかったな」
若手は笑った。
「サルリーマンって、本当にいるんですね。ちょっと憧れちゃいますよ」
健一はふっと笑った。
「現実のヒーローは、残業と戦ってるけどな」
そう言って、書類を手にデスクに戻った。
夜。
また、都会のどこかでサルリーマンが誰かを救っているかもしれない。
名乗ることもなく、評価されることもなく――それでも、彼は動く。
誰かの、たった一つの「ありがとう」のために。
最終章 ―正義とは何か―
深夜のオフィス。蛍光灯の白い光が、健一の顔を青白く照らしていた。
提出期限の近いプロジェクトのため、フロアに残っているのは彼ひとり。時計はすでに午前1時を回っている。
ふと、スマホが震えた。非通知の番号。
「もしもし?」
だが、返事はない。ただ、微かに聞こえるのは“ザザッ”というノイズと、低く唸るような声。
「見ているぞ、サルリーマン」
一瞬、血の気が引いた。
「誰だ?」
通話は切れた。
だがそれをきっかけに、健一の周囲に不可解な出来事が続く。
ポストに入れられた猿のマスク。
自宅前に残された「お前は偽物だ」というメモ。
通勤途中、電柱の陰から覗く視線。
「俺は、誰かに狙われている?」
同じ頃、SNSでは“偽サルリーマン”による暴力事件が報じられていた。
深夜、人気のない公園で男が襲われ、怪我を負ったという。犯人は赤いボディスーツに猿のマスク姿。
「俺じゃないけど、世間には見分けがつかない」
それでも、健一は動くことをやめなかった。
自分が消えれば、偽物の暴走だけが真実になる。
ある雨の夜。
健一は、件の“偽サルリーマン”の目撃情報を頼りに廃ビルへ向かった。
そこにいたのは――もうひとりの“サル”。
黒いスーツに、黒い猿のマスク。背丈も体格も、自分とほとんど変わらない。
「やっと来たか、ヒーロー気取りのサルリーマン」
低くくぐもった声。
相手は鉄パイプを手にしていた。
「お前、何者だ?」
「俺は“お前”だよ。お前が捨てた怒り、鬱屈、虚無……それを拾って生きてきた」
彼は続けた。
「正義? 誰かのため? そんな綺麗事で、満たされると思ってるのか? お前はただ“ヒーローごっこ”で自分を慰めてるだけだ!」
健一の胸が痛んだ。それは図星だった。
この2年間、何度も感じていた空虚。
だが、彼は拳を握った。
「それでもいい。誰かの“ありがとう”で、俺はまた明日を生きられる。だから、俺は――俺のやり方で戦う!」
激しい雨の中、ふたりの“猿”が激突した。
格闘技の経験もない健一にとって、苦しい戦いだった。パイプで殴られ、膝をついた。
だが、彼の心に浮かんだのは、過去に出会った人たちの顔。
ユウコとトム。駅前の母子。若手社員と、その妹。
「俺は、あの人たちの笑顔を守るために立つ!」
立ち上がり、カウンターで一撃を放つ。
黒い猿の仮面が地面に転がった。現れた顔は、驚くほど自分と似ていた――否、自分そのもののように。
「俺自身、か」
そう呟いた瞬間、男は逃げ出し、闇に紛れて姿を消した。
事件の詳細は、誰にも話せなかった。
だが翌日、ネット掲示板にこんな投稿があった。
「本物のサルリーマン、昨日あいつを止めたらしい」
「黒サル消えたってマジ?」
「俺、サルリーマン信じるわ」
健一はそれを読み、ただ静かに笑った。
翌月――彼は異動を願い出て、都心を離れた。
新しい勤務地は、川沿いの小さな支社。空も広く、風も穏やかだ。
昼間は、相変わらず忙しいサラリーマン。
だが夜になれば、彼は再び猿のマスクをかぶり、地元のパトロールに出る。
誰も気づかない小さな善意。
名乗らずに差し伸べる手。
それが、健一の選んだ“正義のかたち”だった。
「――じゃ、今夜も行ってきますか」
鏡の前で、猿のマスクをかぶる。
そこに映ったのは、サルの顔をした、少しだけ誇り高い男の姿だった。
―完―
ここまで「サルリーマン」の物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
サルのマスクをかぶり、ただのサラリーマンが夜の街を駆ける――。
少し奇妙で、少し切なく、でもどこか笑えるこの物語を通して、私自身も「正義とは何か」「自分らしく生きるとはどういうことか」を改めて考えさせられました。
ヒーローに必要なのは、特別な力ではなく“誰かのために動こうとする心”だと信じています。
たとえ地味で、目立たなくても、自分の選んだ道を歩き続ける人こそ、本当のヒーローなのだと。
読者の皆様が、少しでもこの物語の余韻を胸に明日を歩けたならサルリーマンもきっと、屋上からあなたの背中を見守っていることでしょう。
それでは、またどこかの夜の街角で。