隣の君に恋をした。
この春彼は高校へ進学した。
中学時代は……、正直思い出したく無い嫌な事だらけで。
せめて高校に進学したら、普通の高校生として静かに暮らそう……。
「ねぇ、倉米くん何部に入るの?」
「スポーツは得意? それとも芸術の方が向いてるかな?」
そう考えていた倉米暁羽の目論みは入学早々打ち砕かれてしまった。
ただ机に座っているだけだ。
自分の机に座り、黒板を眺めているだけだと言うのに。入学してからずっとひっきりなしに女生徒が代わる代わる彼に話に来る。
鬱陶しい……、そうは思えど内心などお首にも出さず。
問われるまま、問い詰められるまま無難な返答をしてしまうのが彼の悪い所だった。
「部活かぁ……、まだ考えてないな。スポーツは苦手じゃないけど、出来れば音楽系の部に入りたいかな。音楽は聴くのも演奏るのも好きだから」
問われた答えとしてはほぼ満点に近かった。
女生徒の問いを否定するでも無く、肯定するでも無く。自分の色を出しながらも本心は心の中に止めておく。
当たり障り無い人との付き合いを重ねて来た彼にとっては無難な答えではあったが。
この場ではそれが殊更女子達の興味を煽る事になる。
「演奏るだって、バンドマンぽい!」
「ギターとかそう言うのやってるの? それともボーカル?」
少々適当に格好をつけて話を終わらせようとした事が裏目に出てしまった。
暁羽の言葉に彼の机を囲んでいた女子達は色めき立ち。矢継ぎ早に次の質問を投げ掛けて来る。
「一応ギター……かな。子供の頃から親の影響でギター弾いてて、中学の時同級生に誘われて一時バンドは組んでた……」
しまった、と後悔した時には既に遅すぎた。
何の躊躇も無く問われたものだから、思わずバカ正直に話過ぎた。
「キャーー! バンドやってたの!」
「似合う似合う、そのルックスだもんね」
嫌、バンドを組む組まないにルックスは関係無くないか?
音楽が好きなら誰だってバンドやるだろうし。似合うか似合わないかで一々判断されてたら世のバンドマン何て殆ど居なくなるだろ?
女子達の言葉にそんな違和感を感じながらも突っ込め無いのが彼の性分であり。
口を滑らせた事によって俄然女子達の興味が暁羽に注がれてしまった。
面倒臭い事になってしまった……。正直目立ちたくは無い。
目立ってしまえば又中学の頃のようになってしまうから……。
それだけはどうしても避けたかった。
腫れ物のように扱われ、阻害され、ひそひそ声で陰口を叩かれる。
あんなのはもう、二度と味わいたくない。
「ねぇ……、ごめんあんた達うるさいわ。バイト明けで疲れてるから静かにしてくれない?」
この場を穏便に、そして彼女等の興味を削ぐ事が出来る妙案は無いものか……。
そう暁羽が考えあぐねていると、彼の席の隣から唐突にそんな言葉が発せられた。
「あ、緋瀬さん……。ごめんなさい、そう言えば倉米くんの隣って緋瀬さんだったね……」
暁羽の隣、女子生徒から緋瀬と呼ばれた少女の言葉を聞くと。暁羽の回りを囲んでいた少女達は途端に萎縮してしまった。
緋瀬……、初めて聞く名だ。
入学して一週間近く経つが、暁羽は自分の隣に座っている生徒の名を知らなかった……。
それどころか、どんな人間が座っているのかその顔すら気にして見た事が無く。
緋瀬と呼ばれた少女の言葉に、その少女にバツが悪そうに答える女子生徒につられるように視線を移すと。
そこには、驚く程ボサボサの髪で、全くと言って良い程セットなどせず。
顔の半分近くを長い黒髪で覆った、失礼ながら一見すると薄気味の悪い少女が酷く疲れた目で此方を見ているでは無いか。
左目は髪の毛で覆い隠され、右目だけが髪の間を縫うように露になっている。
子供の頃に見た古いホラー映画に出てくる幽霊のような出で立ちだった。
嫌、幽霊のようなと言うより、出会う場所が暗がりならば間違いなく幽霊と認識する事間違いない少女がそこに居た。
何て地味……、嫌怖い……、いやいや無精な子なんだ。
逆の意味では凄まじいインパクトがあるこんな子が隣にいたのに、何故自分は今まで気付かなかったんだ?
そう呆れてしまうくらい強烈な見た目の少女がそこに居た。
「友子、行こ。緋瀬さんの睡眠の邪魔したら悪いから……」
「そ、そうね……」
緋瀬と呼ばれた少女に苦情を言われると、先程まで暁羽を質問責めにしていた少女は申し訳なさそうにそう漏らし。そそくさとその場から去っていった。
驚く程もあっさりとその場から居なくなった少女達。
うざがられてる……、と言う訳では無さそうだが。この緋瀬と呼ばれた女子には敬遠される何かがあるのか……。
少女達の態度の変化に思わずそんな勘繰りを暁羽は入れてしまったが。
「あ、ありがとう……。君のお陰で質問責めから解放されたよ」
理由はどうあれ、今訪れた静寂は間違いなく隣の彼女のお陰であり。
言い方は悪いが二人を追い払ってくれた緋瀬と呼ばれた少女に暁羽は礼の言葉を述べた。
「別に、私が眠かったから追い払っただけよ。礼を言われる程の事じゃないし」
暁羽の礼を聞くと少女はぶっきらぼうにそう漏らし。暁羽には一度も視線を向ける事は無く、恐らくはそれまでと同じように机に突っ伏して再び眠り始めた。
「あんたも大変ね。そんなに目立ちたくないなら、自分からはっきり構わないでくれって言った方が良いわよ?」
会話は終わった。そう思った次の瞬間、緋瀬は突っ伏したままポツリとそう漏らした。
目立ちたくない……、どうして彼女が自分の内心を知っているのか?
緋瀬の確信を突く言葉に思わず頭に浮かんだ疑問を問い掛けそうになったが。
「スゥー……スゥー……」
暁羽が問い掛けを言葉にするよりも早く、緋瀬の気持ち良さそうな寝息が聞こえてきてしまった為暁羽は問い掛けの言葉を飲み込んだ。
変な子だな……。
暁羽が抱いた彼女への第一印象はそんなものであり。
現時点では彼女への感情などその程度の物だった。
そんな暁羽が彼女――、緋瀬水鳥に興味を抱くのにはさして時間は要らなかった。
そう暁羽はこの少し後、彼女に恋をする事になる。
暁羽は人知れず震えていた。
どうして今まで気付かなかったのか?
己の注意力の無さに、何よりも周りの余りの無関心さに震える事しか出来なかった。
「スゥー……スゥー……」
彼は何に驚愕し震えているのか?
それは隣の席の女子、緋瀬水鳥の授業態度にだ。
朝、女子生徒の質問責めから彼女に救われ。こんな子が隣の席に居たんだとその時になって彼女の事を初めて認識し。
一体どんな子何だと一日彼女の動向を横目で観察していたのだが。
緋瀬水鳥は驚く事に、休憩中は元より授業中もずっと眠り続けていたのだ。
トイレに立つ事も無く、昼御飯を食べる事も無く。
一日中覚醒を忘れたように眠っている。
嫌、もう起きるだろう……。
流石に昼御飯くらい食べるだろう……。
そう思い、ずっと彼女を観察していたが。暁羽の予測は見事に裏切られ、学校で過ごす一日全て見事に睡眠を取っていた。
恐ろしい……、何が恐ろしいかって教師ですらそんな不真面目な授業態度の緋瀬水鳥を諌める事も無く。
それがさも当たり前の光景……、まるで空気のように見過ごされ教師も他の生徒も彼女の眠りを容認しているかのようだった。
震えが止まらなかった。注意して見ればこれ程目立つ生徒他には居ないからだ。
何故入学から結構な日数が経っていると言うのに、こんなにも目立つ生徒の存在に気付けなかったのか。
自分の注意力の無さにも震えが止まらなかった。
「んん……ふぁー。もう放課後? 今日も良く寝たわ」
終業のホームルームが終わり、他の生徒が部活やら帰宅に向かい。
教室内の生徒がほぼ居なくなったタイミングを見計らったように緋瀬水鳥は覚醒し。
大きな欠伸をかいた後そう漏らした。
そりゃ寝ただろうよ!
何せ、朝一から放課後まで一度も起きずに眠り続けてたんだ!
もう、完全な睡眠だよこれは!
さも当然とばかりに目を覚まし、悪びれた様子もなくそう漏らした彼女に暁羽は心の中で全力で突っ込みを入れた。
入れずにはいられなかった。
「ん? 何あんたまだ居たの? 早く帰りなさいよ、帰宅部なんでしょ? 時間がもったいないわよ」
そんな暁羽の内心など知る由も無い少女は、殆ど生徒の居なくなった教室で引き吊った顔の暁羽がまだ自分の席に鎮座しているのを見ると。
あっけらかんとそう言い放ち、彼女のとんでもない一日のサイクルに驚愕し微動だに出来ない暁羽を尻目に。そそくさと身支度を済ませ帰宅していった。
な、何なんだあいつ……。
妙な捨て台詞を吐いてさっさと帰りやがった……。
俺が帰宅部って何で知ってるんだ?
嫌々、それよりも一切悪びれた様子の無いあの態度は何なんだ?
何もかもが不可解だった。
あいつも、周囲も、常識と言う言葉を忘れてしまったかのように。
今の暁羽には理解など出来る訳も無く。
彼女も、他の生徒も皆下校してしまった寂しい教室にただ一人取り残され。
ただただ、呆然と緋瀬水鳥が消えて行った教室のドアを見つめる事しか出来なかった。
影が薄いようで、気にしてみれば誰よりも目立った存在。異質とすら感じられる。
何かに秀でているようには見えないのに、地味で、協調性など確実に持ち合わせてはいないだろうに。
普通の生活を送っていればまず間違いなく交わる事は無い、率先して関わろうとも思わないだろうに。
何故だかこの時の暁羽の中には彼女への好奇心が湧いて来ていた。
この時点で暁羽が知る彼女の情報は緋瀬と言う名字だけ。
その他は何一つ知り得ないと言うのに、もう少しだけ彼女を観察してみたいと考えるようになっていた。
観察の結果暁羽が得る情報に彼は度肝を抜かれる訳だが。
この時の彼にそんな未来など予想出来る筈も無かった。
緋瀬水鳥、小中高とエスカレーター式のこの学校において中学二年の二学期に突然編入してきた。
最近色々と情報を仕入れて、暁羽自身初めて自分が入学した高校が元々はエスカレーター式の学校だと初めて知ったくらいだ。
正直自分の観察力と言うか、注意力の無さには最近失望してばかりだ。
高校何て家から遠く、同級生が進学しない所なら何処でも良かった。
偏差値もそこそこ、決して悪くは無いこの学校を見付けた時どんな学校か良く調べず受験したのだが。
それにしても、自分が通う学校について何も知らなすぎて羞恥すら感じてしまう。
それくらい自分の事を知ってる人間が居ない場所に行きたかった……。
そこに行けるならどんな所だって良かった……。
まぁ、エスカレーター式の学校なのだ。高校から進学して来る人間は珍しい。
だから中学の同級生は誰も志望して来なかったのだと今更ながらに知り。
ある意味では有難い誤算だったと思えてしまう。
そんなエスカレーター式の学校に中学の途中で編入してきた朱瀬水鳥。
彼女は暁羽以上に目立った存在であり。
誰に聞いても彼女の名を知っているのが当たり前だった。
嫌、途中編入と言うより普段の授業態度とその成績が彼女を際立った存在にしていた。
学校へ登校してから下校するまで、彼女はひたすらに眠り続けている。
驚く事に、最近になってからなどでは無く編入当初からずっと変わらないそうだ。
裏では眠り姫などと呼ばれているらしいが、そんな眠り姫の成績は最悪な授業態度とは反比例して。
編入当初から常にトップを爆走しているらしい。
成績が優秀過ぎる為教師も注意する事も出来ずほぼ放置状態になっているらしい。
成績が幾ら良くったって、授業態度が悪ければ注意の一つでもするべきでは無いのか?
進学の名門校では無いにしろ決して偏差値が低いとは言えないこの高校に、受験勉強に何百時間も費やし漸くギリギリで合格出来た暁羽にとっては釈然としない扱いだった。
この世の中は頭のデキが人の評価を決めてしまうのか……。
そんな嫉妬でしかない話は今は良いとして。
彼女が普段どんな学校生活を送り、どんな行動を取っているのか。目立つ存在な為誰に聞いても即座に返答が返って来たが。
肝心の彼女の人となりについて知る者はその知名度に反して皆無だった。
まともに会話をした事が無い――。
ほぼ全ての生徒は彼女の怠惰な授業態度を告げた後そう言葉を締め括った。
彼女と面と向かって会話をした人間が居ない、それは即ちこの学校に彼女と友人関係にある者は居ない事を明確に示していた。
知名度に反して友達はゼロ。何て悲しい奴何だ……。
二年近くもこの系列学校に居て、二年近くも同じ人間達と顔を付き合わせていると言うのに。
仲の良い生徒が居ない何て異常としか思えなかった。
人に興味が無いのか、はたまた人付き合いが不得手なのか……。
そのどちらにしろこれ以上彼女に関わらない方が良いような気がする。
これ以上深入りしてしまえば、何か良くない事件にでも巻き込まれてしまいそうだ。
「ねぇ……」
調べても調べても彼女に関する情報は謎に包まれるばかり。
まるで深い霧の中、小さな針を探しているような錯覚にさえ陥り。
直視は出来ず、ずっと隣の席から横目で彼女を観察し続け。
流石にそんなこそこそと嗅ぎ回るような自分の行動に疑問を抱き始め。
後ろめたさと共に、全容が全く見えない緋瀬水鳥に対し得体の知れない恐怖を抱き始めた頃。
「ねぇ、ちょっと」
そんなある日の早朝事件は起こった。
初めは微かな呼び声だった。聞き間違いかと思うほどもか細く、遠くから聞こえていると錯覚するほども小さく。
初めは暁羽も自分に対して呼び掛けられている声だとは思わず無視していたのだが。
「ねぇ、倉米……くん」
とうとうと言うか、一向に自分の呼び掛けに答えない暁羽に痺れを切らした声の主は。
彼の逃げ場を断つようにご丁寧にも彼の名前を呼んで来たでは無いか。
初めは呼び捨てにしようか悩んだのだろう。姓を呼び一瞬の間を置いた後考え直し、敬称を付け加えて来た。
声は暁羽の右側から聞こえて来ていた。
余りにも声量が小さく、初めは距離感が掴めなかったが。
間違いなく彼の直ぐ傍ら、隣の席からその呼び掛けは聞こえていた。
隣の席=声の主は緋瀬水鳥だ。まともな会話などこの間の放課後に交わしただけ、それ以前もそれ以後もただ隣に居るだけのクラスメートだったと言うのに。
唐突に緋瀬水鳥から呼び掛けられた事に暁羽は緊張してしまった。
嫌な予感がした。
必然と言えば必然だが、最近色々と彼女の事を嗅ぎ回っている彼の行動を咎められるような気がした。
「あ、緋瀬さん……? 何かな、急に……」
後ろめたさがあった。先に記したようにろくに会話をした事も無い人間が自分の事を調べ回っているのだ。
自分だったら訝しく思うのが当然で、きっと彼女も同様に疑心を抱いているに違いない。
そう思っていたからこそ最初は無視しようとも考えたが。
名前を呼ばれてしまった以上無視をしてしまえば角が立つ。
だから、至って平静を装いつつ自分はやましい事など何もしていない。そうアピールも兼ねて彼女の呼び掛けに暁羽は答えた。
「あんた最近私の事あれこれ聞き回ってるそうじゃない。2組の子に聞いたわよ。何、私に何か用なの?」
だが、彼女の口から発せられた言葉は暁羽の最近の行動を咎めるものだった。
モロバレだった。訝しく思ってる事この上無かった。
え、何の事?
そうとぼけようかと思ったが、この場合彼女の機嫌を損ねるだけの愚策でしかない。
うん、ちょっと君に興味があって――。
嫌々、これはもっと愚策だろう。興味があって調べ回っていたのは本当だが、この状況では「君の事が好きだから」と言ってるようなものだ。
興味があるのであって、断じて好意では無い!
要らぬ勘違いを生じさせず、この場を上手く切り抜ける妙案は無いものか……。
「グースカ隣でずっと寝てるから気になるんでしょうけど、心配も好奇も要らないわよ。私視覚に障害があって人の顔を見ていられないのよ。教師も他の生徒も皆知ってる。あんたが聞き回った子達は気を利かせてその事を黙ってただけ。別に隠す程の事じゃないし……。変に嗅ぎ回られるのも気分が良いもんじゃないから、本当の事を教えておいてあげるわ」
緋瀬への返答を暁羽が迷っていると、緋瀬水鳥は淡々と真実を語り始めた。
誰もが言いあぐね、誰もが語らなかった彼女の真実を……。
「障害……ってどんな? 目が見えない……訳じゃないんだよね?」
「見えるわよ、見えるけど……見えた物を見えたまま認識出来ないのよ」
本当はこれ以上踏み入ってはならないのだろう。
障害……と本人が口にする程だ。今まで暁斗が想像も出来ない程苦労も苦悩もしてきたのだろう。
これ以上は彼女の心を土足で踏みにじるだけ。心配も、興味本位も彼女を傷付けるだけ。
その理由が分かった以上そっとしておくのがベストだ。
「認識出来ないって……、分からないって事?」
「そうね、平たく言えばその通りよ。まぁ、厳密には分からないんじゃ無くて区別が出来ないのよ」
ベストだと言うのに、暁羽の口は彼女への質問が湧き出して来た。
「同じ柄の、同じ形の服が何十も並んでいると人間は全て同じにしか見えないでしょう? 私にとってはそれと同じ、人間の顔が全部同じにしか見えないの」
どうしてだろう……、普通ならこんな不躾な問い掛け憤慨しても良いと言うのに。
どうしてなんだろう……、彼女は怒る事も無く自分の欠点を事細かに語ってくれる。
「慣れ親しんだ両親や弟の顔すら同じにしか見えないわ。それどころか自分の顔すら判別出来ないのよ……。正直、自分でどうにかしようと思って治せる程軽くは無いし。無理して人の顔を注視してると気分が悪くなるのよ。そんな訳で、本来なら通信教育に切り替えたい所なんだけど……。この学校の教師どもは誰も彼もお節介焼きばっかりでね。授業中は寝ていても良い、勉強にさえ遅れないならどんな授業態度でも構わない。何て善処してくれてね……。お陰で授業中はグッスリ眠らせて貰えるって訳よ」
そう最後に意地の悪い事を言うと、緋瀬水鳥は悪戯っ子のように笑った。
髪はボサボサで、顔なんて殆んど見えていないも同じ。
見た目だけなら某ホラー映画の怨霊と差し支え無い程恐ろしく。
年頃の乙女らしさなど1ミリも感じられないと言うのに。
どうしてだか、今の暁羽には緋瀬水鳥が太陽のように輝いているように見えた。
ガタガタ、バサッ――。そう感じた瞬間暁羽は鞄から一冊のノートを取り出すと。徐に空白のページを開きシャーペンを走らせ始めた。
「きゅ、急に何やってるのよ?」
「黙って、そして動かないで。直ぐ終わるから」
暁羽の突然の行動に怪訝な面持ちを浮かべ彼の行動の真意を緋瀬水鳥は問い掛けたが。
暁羽は端的にそう告げると、緋瀬とノートを交互に見やりながら黙々とペンを進めた。
時間にすれば3分くらいだろう。
本当に少し黙っているだけで、本当に少し動かない内に、暁羽は作業を終えた。
ビリビリ――。何をしていたのか、緋瀬水鳥には理解出来なかったが。作業が終わると暁羽はノートを綺麗に破り、その破ったノートを緋瀬へと差し出した。
「あーぁ……、本当はもうやめたんだけどな……。緋瀬さんが綺麗な顔で笑うから思わず描いちゃったよ」
そう言って差し出されたノートの中には緋瀬水鳥の顔が描かれていた。
3分で描いたとは思えぬ程精巧に、シャーペンで描いたとは思えぬ程表現豊かに。
緋瀬水鳥の最高の表情を描ききっていた。
「早ッ……、てか上手ッ!」
「速写は得意何だ。昔父さんに嫌と言う程描かされたから。それより、絵……なら分かるんだね」
「あ……うん、点や線、記号的に置き換えられた人の顔なら判別は出来るけど……」
「なら良かった、それあげるよ。レアだよ、何せもう俺絵描くのやめたんだ。それが最後の作品になる可能性が激高だからね」
緋瀬が暁羽の描いた絵に驚いていると。
暁羽はその絵を彼女に譲ると言い、そして最後にさっきのお返しとばかりに今度は暁羽が無邪気な笑みを浮かべた。
「あ……ありがとう……、自分の顔描いて貰ったの……初めてだわ」
何故だろう……、生まれて初めて悔しいと思ってしまった。
――綺麗な顔で笑うから――
自分がどんな顔をしていたのか、それは暁羽がくれた絵で認識する事が出来た。
綺麗な顔……、そんな事初めて言われた。
なのに、なのに……、きっと自分と同じように屈託無く笑う貴方の顔は私には見る事が出来ない。
生まれて初めて自分の顔を見る事が出来た。
だけど、今の貴方の顔はもう一生見る事が出来ない……。
不公平だ……。
緋瀬水鳥は生まれて初めて自分の障害を疎ましく思ってしまった。
「てか何この無精な女! 私こんなに髪ボサボサなの!」
「じ、自分では気付いて無かったんだ……」
「気付いてないわよ! 髪型何て区別出来ないから伸ばしっぱなしにしてたけど。これは無いわぁ……」
「そうかなぁ? 初めは俺もビックリしたけど、個性があって描きごたえがあったけどね」
「個性と言う範疇を遥かに逸脱してるわよ! あり得ない! 直ぐ髪切る!」
悔しかった。悔しかったからこそ、その感情を表情に出す事を堪え、無理に明るく振る舞い自分の内心を必死に誤魔化した。
思えばそれが初めてだった。
それまで何の接点も無く、ただ隣に居るだけの他人でしか無かった二人が初めて互いを異性と認識し。
互いに好意を抱いた初めての瞬間だった。
こうして全くタイプの違う二人の距離は劇的に縮まり。
そして二人は、隣の君に恋をした。