第19話 ジャイアントケレント
食事を終えて満腹になったところで、ようやく我に返ったリリーは、闇の中、モンスター群生地のど真ん中で己を隠す障害物すらない環境に置かれていることを思い出し、絶望の淵に追い込まれていた。
「忘れてた。悠長にご飯食べてる場合じゃなかった……。どうするのよ、この状況……」
しかも天候が荒れる前兆なのか、吹き抜ける風が強まり、先程まで照らしていた月が陰っていく。それなのに一切動じることのないカワズは、さっさと自分用の小型テントを建て、簡易寝袋に身をねじ込み、コテンと横になった。
「ハァ~!? アンタこんなとこで寝るって、ホンキで死ぬつもり!?」
「大丈夫大丈夫、食べてすぐ寝ても牛にはならないって。あんなの誰かが勝手に言ってる迷信だから」
「そんなこと言ってるんじゃないわよ、……って、ちょっとあれ、あわわわわ」
彼女が食って掛かった直後、二人のすぐ近くでザシュッと地面を踏みしめる何かの音が響いた。
暗さを増した闇の奥に目を凝らしたリリーは、彼らのすぐ前方で立ち尽くす、あまりにも巨大な物体を漫然と見上げた。
「で、ででででで、で、で」
少なく見積もっても、カワズの眠るテントの五倍の上背。巨体ながら、そのわりに細長い脚でペタンペタンと歩み寄ってきたのは、湿地帯の中央部にのみ飛来する巨鳥、ジャイアントケレントだった。
白目を剥いて涙を流しながら、どうにか悲鳴を上げないように口を押さえたリリーは、どうして私は逃げもせず鍋など食べていたんだと全力で後悔した。
「オワタ、カンゼンニ、オワタ。ジルべしゃま、お助けすること叶わず先立つ不幸をお許しくださいぃぃぃ」
尻餅つき、お祈り状態であわあわするリリーの隣では、緊張感なくスーピーと寝息を立てるカワズの姿があった。なぜ私はこんなバカと一緒にきてしまったのだろうか。泣きながら全力で後悔するしかない。
「(ちょ、ちょっと、アンタあれなんとかしなさいよ。それでも一応冒険者なんでしょ!?)」
這いずるようにテントに潜り込み、死物狂いでカワズにしがみつき、パンパン頬を殴り、起こそうと試みた。しかしものの数分で底の底へと誘われた彼の眠りは深く、どうやら戻ってくる気配はない。
「あわわわ、あ、あんなの、か弱いアタシにどうしろっていうのよ!?」
足元を確かめながらゆっくり近付いたケレントは、目に付く餌でも探しているのか、地中を注意深く窺いながらクチバシを前後させている。
カワズの髪を握りしめたまま、祈りにも似たポーズでバタバタ暴れるばかりなリリーは、ついに目前まで迫った巨鳥から視線を外すことができず、ついには硬直して大の字にひっくり返った。
「死んだ、終わった……」
闇に染まる巨鳥の目玉がギョロリと動き、リリーの視線と交錯する。呼吸が止まり、このまま鼓動まで止めてしまいそうな緊張に襲われ、顔面蒼白になった彼女は最期の瞬間を想像した。しかし交錯していたはずの視線はさらりと外れ、ケレントは二人を跨ぐように通過し、去っていった。
「……??? え??? は???」
遠ざかる巨鳥の背中を見つめ、しばし呆然とする。
餌を探している巨鳥が、その第一候補となるであろう妖精を見逃すことなどあるはずがない。確実に目が合い、モンスターの射程圏内に彼女はいた。野生のモンスターがそれをみすみす見逃す道理などなく、なにより攻撃すら選択しない理由は皆無。
「いや、は? え?」
いよいよ考えてみれば、おかしなことばかりだった。
ダンジョンではゴブリンの群れから逃げ切り、絶対不可能と謳われるグレーテストテイルキングの尾を持ち帰り、妖精族の彼女を連れ、何事もなく上層まで帰還した。加えてこのモンスターだらけの湿地帯ですら、モンスターを引き付ける性質を持つ妖精の彼女を連れたまま、難なく中央の沼地帯まで到達してしまっている。
常識では考えられないことが起きている。
リリーは激しい混乱に襲われ、それ以上我慢ができず、カワズの鼻の穴に手を突っ込み、中から太い毛を掴んで思い切り引っこ抜いた。
「アッイデっ、な、なんだ、天変地異か!?」
寝ぼけ半分にカワズが目を覚ました。
まだ暗い闇に包まれた景色に二度寝を試みるも、リリーに思い切り急所を蹴られ、痛みに悶絶した。
「お、お、俺の、男のコの男のコが、一周回って女のコに……!?」
「どうなってるのよ、ねぇ、これどうなってるのよ!?」
蹲り、子鹿のように小刻みに震えたカワズは、「なにすんじゃコバエ!」と目をひん剥いて恫喝した。
「そんなこと言ってる場合じゃないわよ。ジャイアントケレントが、ケレントが目の前に!」
「有名タレント!? そんなの知らん!」
「ケレントが目の前に、目の前にね、それがガァって、ガァって!?」
「目の前にぃ?」
「……さっきまでいたんだけど。……いたんだけど。……どっか行っちゃった」
ピキッと血管を動かしたカワズが「殺す」と拳を握った。しかしそれよりも納得がいかないリリーの困惑が上回り、彼の言葉を掻き消した。
「おかしいの。ケレントはアタシを見たのに、何もせず通過していったの。大好物の妖精である、このアタシの姿を見たのに!」