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カズラ  作者: あやと
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第2章 現実です。

 ——誰の夢だろう。

 雀の囀りが耳でこだまする。午前7時にセットしたアラームが鳴る前にクロユリ・カズラは目を覚ました。

 夢に起こされた気分だった。映画のカット割りのような、タイミングの良い場面で都合よく終わる夢など、あるのだろうか。これではチャプター2を期待しずにはいられない。そしてカズラはこうも思った。それにしても、自分の夢にしては他人の過去を見せられているような不思議な映像だったと。

 未だに鮮明に思い出すことが出来るその夢を、再び目を瞑って振り返っていると太陽の光がカーテンの隙間を抜けて眼に刺さった。

 ——まぶしい。

 起きたときには内容を忘れてしまうのが大抵の夢で、極たまに思い出そうとすれば思い出すことが出来る夢もないことはない。しかし、今回の夢は頭の片隅にへばり付いて離れなかった。 

 不思議な事にそれだけ印象的な夢にも関わらず、登場人物たちに全くの見覚えがなかった。どこかで見た映画のシーンだったのか・・・。知らぬ間に店で会った人たちの顔を覚えていたのか。皆目、見当がつかない。

 それでも登場人物のほとんどが身に纏っていた服は着物と袴を融合させたようなものだったり、忍者を連想させる格好をしている人もいて、カズラが知っているモノとは少し違う箇所もあるが似たモノが多くあった。そのせいで一概にただの夢の可能性も否定はできなかった。

 続きを見るために再度、眼を閉じたカズラだったが数秒も経たない内にけたたましい音のアラームが頭に響いた。一人暮らしを始めるときに朝が弱いカズラのために母が買ってくれたアラームだ。

 カズラは気怠さを誤魔化すように重い瞼を擦って、無理やり目を開けて起き上がった。起きて直ぐに携帯電話を手に取って視線を落とす。それから数分ネットサーフィンをして目を覚ますのがカズラの日課だった。基本的にいつもトレンドをざっと見るのだが、くだらないニュースにいつも心に濁りが残るものの、機械から発せられるブルーライトで目が冴えてくるのでやめられないし、何だかんだで気になってしまうカズラだった。

 ボサボサに四方八方にはねている黒い髪の毛をそのままに、まずテレビの電源をつけると大袋に詰まった小ぶりのパンを手に取る。寝ぼけた口でパンを頬張りながらボーッと流れる画面を見ていた。二十代独身の朝は大体こんなものだ。

 この時間帯のテレビは芸能やスポーツではなく、世の中で起こったネガティブなニュースを流がす時間だ。政治家の不祥事、人種差別、他国での戦争情報、交通事故、各地方で起こった事件について。テレビで流れるニュースは出来事だけが淡々と説明されることが多い。カズラにとってそれは朝のBGMとなっていた。ただ耳と目に入ってくるだけの雑音にすぎない。

 胸糞悪い事件は時々あるものの、基本的にそれを見て何かを感じる事はない。朝から毎日、ニュースを見てヤキモキしていたら、心が保たないし、結局は他人事なのだ。

 気づけば家を出る時間が迫っていたので朝食を切り上げ、衣類スタンドからスーツを手に取り、ものの2分で着替えを終える。何も考えずにローテーションのスーツを身に纏い、急いで家を出た。

 外へ出ると太陽が照らす熱さが夏日を知らせていた。

 風の匂いを嗅ぎ、夏の匂いを確認していると胸ポケットの携帯電話の振動がそれを邪魔した。

 画面を開いたカズラは無意識に溜め息を漏らした。着信の発信者が勤務時刻の2時間前でこれから出勤するにも関わらず、電話をかけてくる上司だったからだ。緩やかな気持ちが一瞬にして冷め、どんよりとした気持ちで職場へと足を向けた。

 なんの変哲もない日々を送るまともな人間だというのがカズラにとって唯一自慢できる事だった。生まれ付き、真っ黒な黒髪で顔面はそこそこイケていると言われる程度で並の人生を送るにはとっておきな風貌。目をつけられる程にイケていないわけでもなく、イケていなくもない。そんな自分を割と気に入っていた。鉄道会社に勤めて4年。朝から働いて終電まで見送り、次の日は始発の時間に起きて仕事を始める。大変と言えば大変だ。機嫌の悪い客や上司のストレスの吐口にされることもある。仕事で溜まったストレスの発散は家に帰って好きなチョコレートを食べまくり、酒を飲みまくること。それが唯一の幸せだった。もちろん、そんな大して変わらない毎日や起伏のない生活に嫌気をさすこともある。何のために生きているのか。生きている意味はあるのか。今の自分は楽しくはない。ただ生きるために働き、それ以外の時間が流れるように過ぎているだけと思う時間はよく訪れた。

 カズラは道行くすれ違う人々を見ると、とても羨ましい気持ちを抱く事が多かった。仕事のために容姿を整える気にもなれないカズラにとって、髪の毛もメイクもバッチリにしている人を見ると人生楽しいんだろうなと相手の事情も知らず、勝手に想像して羨ましがる。それに、学生を見ると自分の学生時代を思い出して、懐かしさに心が綻びそうになることもしばしばある。——この人たちの身体に意識が移れたのなら、どんな人生なんだろう。

 他人のポジティブな部分だけを切り取り、勝手に想像してしまうのが癖になってしまっていた。自分との人生の比較が頭に広がっては余計に気持ちは後ろ向きになっていく。

 もう既に家へと戻りたくなった気持ちとは裏腹に職場である駅に到着した。

「おはようございます」

 定例的な挨拶を済ませ、直ぐに制服に着替えたカズラは仕事の準備に取り掛かる。その後、業務開始時刻まで同僚と他愛もない談笑をし、時間になったら決められた場所に行く。それがいつものルーティーンだった。

 でも、今日は違った。出勤してすぐに上司に呼び出されてストレスの発散代わりに怒鳴りつけられた。カズラは浴びせられる言葉を右から左へと受け流しながら、良きタイミングで「すいません」と頭を下げた。

 カズラの仕事は時間通りに定位置にいて、決められた通りに仕事をする、そんな仕事だった。それは自分から行動することはなく、楽ではあるが毎日が代わり映えしない日常であることがカズラにとっては憂鬱だった。こんな日々が死ぬまで続くのだろうと思っていたカズラに夢のような、夢で見たことが起きるなんて思いもしなかった。

 

 とある日の仕事終わった帰路での出来事。自宅の近くにあるコンビニエンスストアに夕食の調達のため立ち寄った。カズラには帰っても夕飯を用意してくれるような人はいない。疲れた身体で調理は面倒なので大抵はここで弁当を買って帰ることが多い。何にしようか10分ほど迷って、結局いつも同じ物を手に取った。腹を空かせたカズラは一刻も早く家に帰って弁当を食べたいので、急足で外に出たが足が止まった。なぜなら、駐車場の車止めブロックに座り込んで屯している集団がいたからだ。真っ直ぐ行くには集団の真ん中を通らなければならない。

 ——くそっ、邪魔なやつらだ。

 如何にも地方の地元によくいる、自分の小さな町をテリトリーとして、そこが自分のためにある世界であるように振る舞うタイプの人間たちだ。カズラは昔からこういうタイプの人間が苦手だった。

 苛立ちを覚えながらもその集団を避けて歩く。同じ出入口を通る人たちも彼らを蔑むような目で見ているので、なんだか味方がたくさんいるようで気持ちが良かった。

「この世にあんな奴らはいらないだろ。消えてしまえ」

 カズラは彼らを背後にそう呟いた。カズラ自身はそこまで迷惑をかけられたわけではなかったが、必ず何処かにやつらの被害に遭っている者がいるに違いない。こいつらが役に立つ事なんてこれっぽっちも無い。そして、心の中が荒んだ。

 家に着くと苛立ちも収まる静かな空間が待っていた。それでも、あまり静かすぎるのが苦手なカズラは部屋に入ってすぐにテレビの電源をつけた。テレビは流れているだけで安心感を与えてくれる。

 カズラの日課は大体こんなものだ。これが繰り返される毎日に正直飽き飽きしていた。グラスのお茶の水面が揺れているのを見つめながら思った。

 ——いつ死んでもいい。苦しむのは嫌だけど、地球が滅亡しそうな隕石が降って来ても、全てを破壊する地震が起きても別にいい。どうだっていい。この先も平坦な人生が続くなら、いつ終わりを迎えてもいいんじゃないか。

 ネガティヴな感情が血のように胸を騒ぎ立てた。読者の皆さんにはカズラが孤独で寂しい人生を嘆いていると思われているかもしれないが少し違う。カズラは衣食住をそれなりに持っているし、食っていける仕事も、親友もいるし、誕生日に連絡をくれるくらいの友達もいる。今はいないだけで彼女がいたことだってある。母親も健在で、天涯孤独というわけでも無い。なのに、何かが足り無かった。

 SNSでこんなことを呟けば、贅沢だ。もっと苦しんでいる人のことを考えろ。と批判の嵐に遭うだろう。何を想うのか、思想の自由は国家が許しても、そこに住む人々が許さない。何のための憲法なんだろうか。赤の他人のことを四六時中、心配している人などいないはず。他人のことを想うときなんて自身に余裕があって、同情したときだけのくせに。

 また、心の中が荒んだ。


 翌日、カズラは東から差す太陽の光を浴びながら駅までの道を走っていた。並んで歩く学生や早歩きのサラリーマンの間を縫うように疾走していた。

 ——もう間に合わないだろう。

 ほぼほぼ諦めかけていたが、足をゆるめるわけにはいかなかった。何故か、それは寝坊をしたからだ。時間に正確だと言われる鉄道関係の仕事をしている者にとって、大失態だった。

 今日は親友のショウヘイと遊びの約束をしていたのにも関わらず、昨夜、撮り溜めたテレビ番組を見ながら深酒をしてしまった。気づいたらソファで眠り、目を覚ましたときには時すでに遅し。急いで着替えて、家を飛び出してきて、現在に至る。家を出る前、ショウヘイに一報を入れておいたが、だからといってゆっくり歩いて行く訳にはいかなかった。その理由は、カズラが時間通りの電車に乗らなければ、今日の集まるそもそもの目的が達成されなくなってしまうからだ。

 予約困難な大人気謎解きイベント。二人で行こうと何ヶ月も前に確保したチケットをこのままでは紙切れにしてしまう。カズラがチケット二枚共を持っているせいでショウヘイがとても楽しみにしていた時間を奪ってしまうと思うと足をちぎれるほど速く回すほか、選択肢はなかった。しかし、その甲斐あって発車時刻のジャストオンタイムで駅に到着した。間に合っていないじゃないか。と思われた事だろう。全力で走った事を讃えてくれるかのように改札をくぐったカズラに吉報と言える、乗る電車が3分遅れて運行しているとアナウンスが流れた。急いでいる人間にとっては迷惑な遅延でも、遅れたカズラからしたら、とてもありがたかった。

 そのおかげで集合時間ギリギリに駅へ到着した。

「よかったー。びっくりしたよ。ダメかと思った」

 カズラは改札を出ると直ぐに声をかけられた。イベントに参加する人で溢れかえる中に立っていたショウヘイはもし、声をかけられていなくとも探す必要がない格好をしていた。現実感溢れる駅で一際目立つインバネスコートを羽織り、ディアストーカーを被った名探偵さながらのコーデで立っていたら、嫌でも目立つってもんだ。

「ごめん、ごめん。俺も焦ったよ。まさか、俺が寝坊するとは。それより、お前はその格好なんだよ」

 カズラはお詫びをした後、早速ショウヘイの服装にふれた。

「君こそ、白Tにジーパンなんて・・・なんという格好しているんだ。寝坊しても気を遣うべきだろ。君には全く失望させられるよ。今から何しにいく気だ。謎解きだぞ」

「だからって、みんなにジロジロ見られてるぞ」

「だからなんだ。君の悪い癖だぞ。周りのことなんて気にするな。そんなこと気にしてたら、名探偵にはなれないぞ」

「別に名探偵を目指していないし。てか、そんなコート一昔の偉大な探偵くらいしか羽織ってねーよ。今時は、青ジャケットに蝶ネクタイの名探偵だっているじゃねーか」

「いや、そっちの格好とも迷ったんだけどな・・・。そっちの方がよかったか」

 本当に後悔しているようにショウヘイはつぶやいたので慌ててカズラは訂正した。

「そういうわけじゃない。格好なんてなんだっていいんだってことを言いたかったんだ」

「そうか。だからお前はそんな阿呆みたいな格好をしているのか。新しい探偵スタイル構築のために」

 阿呆はお前だよ。とカズラは心の中でつぶやいたが、これ以上不毛な論争をしても仕方がないので言いたいことを我慢して、イベント会場へと向かった。

 会場までは駅から連絡通路でつながっていたのであっという間だった。それでも、すれちがう人々の好奇な目に耐える必要があったのでカズラにとっては距離以上の遠さを感じた。

 イベント会場に着いたカズラはあまりのスケールの大きさに歓喜した。

「すげぇ。謎解きなんかでこんな大きなドームを使うのかよ」

 謎解きゲームを知らない読者のために説明をしておこう。舞台となる現実に創られたフィールドに仕掛けられた謎や暗号を解き明かし、ミッションクリアを目指す参加型のゲームイベントがリアル謎解きゲームである。まだ一般的には認知度が低いゲームなので、街に一店舗と小規模に行われるゲームという認識だったカズラにとってはドームを貸切にする規模の大きさに驚いた。しかし、感激して立ち止まるカズラを他所にショウヘイはそそくさと入口へと入っていった。不意をつかれたカズラは慌てて彼を追いかけた。

「おい、なんで感動しないんだよ」

「お前こそ、何感動してるんだ。俺たちはドームを見に来たんじゃない、謎解きをしに来たんだ」

 至極尤もなような、少しずれているようなことをショウヘイは言った。カズラは首を傾げながらも案内に沿って受付まで進んでいった。

 ただの遊びだと思っていたイベントは予想をはるかに超えるイベントになっていた。スタッフたちは俳優を使っているのかと思わせる程の演技で参加者を謎解きの世界へ誘い、与えられた課題はどれも一筋縄では解けないような問題ばかりだった。

 それだけ作り込まれたイベントの参加者たちの中でも、さすがにコスプレをしている人は親友を除いて、一人としていなかった。だから、余計にショウヘイは目立ったし、注目されていた。しかしそのおかげで嬉しい出来事も起こった。一緒に謎解きをして欲しいという二人組みの女の子に誘われて、カズラたちは合同でイベントを回った。

 次々と出される難題をクリアしていったのは名探偵風の男ではなく、ただの白Tとジーパンを履いたカズラだった。カズラは体を動かすことよりも、頭を使うことが好きだったので、謎解きのような類の頭を捻る問題が得意だった。順調に進むにつれ、一緒に回っていた女の子たちとも仲良くなり、連絡先を交換した。そして、イベントが終わると打ち上げ的なノリで四人で呑みに行く事になった。


 満足な1日を過ごしたカズラは家に着くと楽しかった思い出を振り返りながら、いつものようにテレビを観てぼーっとしていた。すると、突然携帯電話の着信音が鳴った。先程の女の子からと期待して画面を覗くと着信の主は母だった。カズラは期待で盛り上がった肩を落としながら、電話に出た。

「もしもし。どうしたの?」

『カズラ? どうしたのじゃないわよ。全然連絡も寄越さないで。元気にやってるの?』

「別に元気だよ。何かあったら言ってるし。そんな用なら電話じゃなくてメッセージでいいじゃん」

『何よ、冷たいわね。あんたの家族は母ちゃんしかいないんだから大事にしなきゃだめでしょ』

「それ本人が言うことじゃないし。母ちゃんは一人で楽しくしてんだろ?」

『もちろんよ。当たり前じゃない』

 電話越しに聞こえる声は本当に元気そうで何よりだ。

「ならよかったよ」

『たまには連絡するのよ。じゃあまたね。身体に気をつけてね』

「ありがとう。じゃあまた」

 カズラは電話を切った。母にはあのように言ったが久しぶりに聞いた母の声のおかげで少し心が落ち着いた。

 ここでカズラの母、クロユリ・カンナを紹介しよう。母は昔から元気溌剌で家に来る友達にはいつも、お前の母ちゃんすげぇな。と言われるほどに元気だった。しかし、そんな母にも抜け殻のように元気が無くなった時期があった。カズラが中学生の頃に何の前触れもなく突然父が失踪した。警察に捜索願いを出して探してもらっても、心当たりを手当たり次第探しても見つからなかった。今に至るまで一度も連絡もない。

 当時の母はショックで倒れ、何日も寝込んでいた。そんな衰弱しきった母を毎日、元気づけて支えてきたのはカズラだ。それからというもの、徐々に母は元気を取り戻していき、これまで以上に元気を取り戻してカズラを育ててくれた。そんな母が誇らしくて大好きだった。だから、今も元気でいてくれることが何に置いても嬉しかった。だからといって、連絡をこまめにするのは別だが。

 やはりその反面、父に対する嫌悪感はすごいものだ。憎しみすら感じている。マザコンでなくとも、あれだけ母を傷つけた父親をカズラは一生許すことはないだろう。失踪する前がどんな父親だったかなんて、今となっては記憶の片隅にすら覚えていない。もし、父に今後会うことがあれば絶対に一発殴ってやると心に決めている。一発ですめば、カズラは自分自身をとても褒めてやりたいくらいだ。

 カズラは見てもいないテレビを目に映し続けた。


 当たり前に来る月曜の日、またいつもの時間に起きて、同じ通りを歩いて、いつもの電車に乗って出勤する。仕事も何の変哲もない。

「今日もつまらない1日を過ごしたなぁ」

 カズラはそう呟きながら、いつもの帰り道を携帯電話に視線を落として歩いていた。携帯電話を見ながらもカズラは母のことを考えていた。自分がいなくなったら母は悲しむだろうか。そう思うと自分が死ぬことの意味が急に重くなる。別に死ぬ気があるわけではないがただそんなことを考えた。

 考え事をしながら目線をスマホに落としていたカズラは完全に外の世界を遮断していた。だから気付かなかった。

 肩に衝撃が走り、携帯電話が手から離れて地面に落下する。

「いってぇ〜〜〜」

 携帯電話を拾ってから、「すいません」と言いながら声の主に顔を向ける。

 ——最悪だ。

 今まで25年間、揉め事は一切なく、角が立たない人生を送ることに気をつけて生きてきたのに。

「うで折れちゃたんだけど〜。これどうすんの」

 金色の無造作に伸ばした長髪で鼻にピアスをした男が目の前で顔を崩した笑みを浮かべている。その周りにもカズラの中でクズ認定されるような奴らがニヤニヤしながら見ていた。

「すいません」

 そう一言だけ言って、できるだけ相手と目を合わせないように首元の髑髏のネックレスに目を据えて、事が過ぎるのを待った。

「弁償だなこれは。いくら払ってもらおうか」

「こいつの腕は高いぞ」

「何たってこいつは有名な医者だからな。腕が使えないと稼げないんだよ」

 しかし、そう簡単にはいかないのが世の中だ。後ろで見ていた奴らの声も加わり、バカみたいな高笑いが大きくなる。

 彼らはどうしようもないクズだ。こんな奴が医者なはずがない。分かっているけれど声が出ない。

「あれ? 無視ですか」

「金が払えないなら、地獄を見るしかないな」

 彼らはこれから金をふんだくろうとしている相手に冗談を言って怖がらせるゲームを楽しんでいるのだろう。それの何が楽しいのか理解に苦しむ。

 カズラは助けてくれる人はいないかと周りを見渡した。しかし、道の端を通るだれもかれもが目を合わせないように、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。

 ——あぁ。みんな自分と一緒なんだなぁ。

 みんながみんな厄介な事に顔を挟みたくないのだ。自分の世界が平和でいるために、見たくないものは見ない。仕方のないことだ。それが普通であって、自分もそうなのだから。

 絡んでくる輩にも、助けてくれない人々にも、それが自分自身でもそうしたであろう事にも怒りが込み上げ、カズラは感情のままに金髪の男を睨んでしまった。そのときのカズラの顔は提灯のように真っ赤になっていたことだろう。

「何睨んでんだ、てめぇ」

 金髪の男は怒りでこめかみに皺を作り、声を荒げている。カズラは諦めも混じり、冷静に金髪の男の表情を見ていた。彼が伸ばした手がカズラの胸ぐらを掴んで、引き寄せた。後ろで見守っていた奴らも一歩前へ出たとき、目の前にあった腕を横から潰すような力で掴む手が現れた。

「いってぇ」

 カズラの胸ぐらを掴む手が呻き声と一緒に離れた。横から現れた手の持ち主にカズラは目を疑った。

 カズラを助けてくれた彼は先日、コンビニで屯していた中にいた一人だった。同じ人物なのに今のカズラにとっては全くの違う人物に見えた。まるで正義の味方だ。

 ヒーローの彼は掴んでいた手を離すと、いま一度金髪の男を睨んだ。そして、ヒーローの後ろにはあのとき一緒にいた仲間たちも目を尖らせて立っていた。

「てめぇらなんだよ」

 金髪の男は震える腕を押さえながら、ヒーローに対して叫んだ。

「お前らこそ何してんだよ。俺たちの街で、勝手な事してんじゃねぇよ」

 ヒーローの低く威圧感のある声はその場の空気を一瞬で変えた。金髪の男が怯えて一歩後退ったのをカズラは見た。

 彼の迫力と人数に気圧された金髪の男たちは睨みながら去っていった。「覚えとけよ」とお決まりの台詞を吐いて。

 去っていく奴らの後ろ姿を見ていると沸々と浮かび上がってくる感情がカズラにはあった。それは恨みや優越感なんかより、ヒーローたちの行動に対しての感激、尊敬の念が強く湧いてきたのだ。

 げんきんなカズラだが、素直に感じた気持ちを込めながらヒーローの彼へと身体を向けて「ありがとうございました」と頭を下げた。先日の彼らへの非礼のお詫びも込めて、深く深く下げた。己の眼力の無さが馬鹿馬鹿しく卑劣で、穴があったら入りたい気持ちだ。

「いいですよ。いいですよ。俺らこんなんだからこれくらいしかできる事ないし」  

 ニッと口角を上げた顔が街灯に照らされて煌めいて見える。

「あぁいう奴はたくさんいるんで気をつけてください」

 ヒーローの彼はそう一言付け足して、去っていった。カズラはその後ろ姿にもう一度深くお辞儀をした。自分の惨めさが心にのしかかり、身体が動かず数分間その場に立ち尽くしていた。

 家に着いてもカズラにとっての過去最大の出来事に気圧されていた。無音の室内で壁の一点を凝視し続けていると一通の連絡が携帯電話に流れた。それは高校時代の同級生からで結婚式への招待だった。メッセージには高校の時の写真が有れば欲しい。と書かれ、なる早で。と最後に付け足されていた。

 親友からも、もちろん行くだろ? とメッセージが届いていたので、もちろん。と返事をした。

 それを見てやっと我に返ったカズラは古い物をまとめて仕舞い込んである箱を押し入れから取り出した。数年間も押し込んであったその箱は埃を被っていて、茶色がかっている黄ばみから一切手を付けていないことが分かる。

 埃を振り落とし、蓋を開けると箱の中は無造作に物が入っていて写真を見つけるにしても、邪魔な物を退かさなければならなかった。

 昔、何かで貰ったメダルや表彰状。中学生の時に初めて買った香水。鉛筆等の筆記用具。プリクラ。などなど、昔を彩ってくれた物たちは今ではガラクタでしかない。

 ゴソゴソと不要な物を退けながら手にしたのは黄金色で頭に嵌まるほど大きな輪っかと、掌より一回り小さな輪っかが重なるようにくっついたモノを見つけた。これは唯一、父との繋がりがあるモノだった。

 いつも父がとても大事に持っていたモノで、父が消えた日は何故か部屋にこれが置いてあった。カズラはこんな物は捨ててしまえばいい。と言ったのだが、母がそれを掴んで離さなかった。父が大事にしていたものは大事にしたいと言う母に折れて、それを容認した。

 そのときの母は変なことを口にしていた、「これがあれば、これ際あればまた父さんに会える」と。 

 そして母はそれに執着し、依存した。四六時中、それを見ては縋り、だんだんとおかしくなっていく母を見てカズラは我慢ならず、それを母から引き剥がすことにした。一か八かだったが、母の目を盗み、持ち去った。かと言ってそれを大事にする気はさらさらなかったが、母の思いを身近で感じていたカズラはそれを捨てることができずにいた。だから、この箱に入れてそのまま今日に至る。金の輪っかを無くした母はその日、部屋中をひっくり返して探していたが、遂に見つかることはなかった。それからというもの母は金の輪っかのことを忘れていったのか、徐々に正気を取り戻していった。

 忌々しい記憶を思い出しながら金の輪っかを手に取り、ベッドに投げ置いて捜索を再開した。

 昔使っていた豚の貯金箱の下敷きに高校生時代の写真を見つけた。昔の写真を眺めながら「あの頃はよかったなぁ」と思い出に浸っていると写真に初恋の人を見つけて、懐かしい気持ちに胸が紅葉する。

 その写真を手に持ち、ベッドに寝転がった。天井のライトの光を背景に写真を眺めていると脳に昔の映像が流れ込んできた。

 ——過去に戻れないかな。

 同級生に結婚式用の写真を送るのをすっかり忘れて、その日は眠ってしまった。この落ち着きと少しだけ高揚している状態でそのまま眠りにつきたかった。目を瞑るとふわふわとした世界を頭に描きながらゆっくりと夢の世界に落ちていった。


 閉じた瞳に薄い光が差し込む。眠ってどれくらいの時間が経っただろう。体感ではまだ10分も眠っていないように感じた。

 眩い光のせいで眠気は消えさり、目を開きたい衝動に駆られたカズラはゆっくりと瞼を上げた。その瞬間、電球色の暖かい光が目に差し込み、ボヤけた視界の焦点が一致した。

 目と目が合う。その瞬間、思考が停止した。一目惚れのそれとは違う。ただ、目を逸らすことができなかった。さらに数秒後、頭に蘇る記憶はカズラの記憶の棚とは違う棚から引き出された。

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