第1章 運命とは
皆が生きる世界でも、この物語の世界にも明るい時間と暗い時間はある。太陽が顔を覗かせる明るい時間が多い日と雲が空を覆って暗い時間が多い日、どちらが好きかと問われれば十中八九の人が明るい方を好むに違いない。それはあちら側の世界にいるオリーブにとってもそうだった。
彼女にとってはいつもの場所。戻りたくないと思っても、争いが続くこの世界ではそれは叶うはずがない。現代を生きる人にとって争い、戦争というのは過去のものであり、遠い世界の出来事になっている。しかし、今の世界があるのはそれらを経験したからだともう一度認識して欲しい。それに遠い世界ではその過程が現代でも行われてる事は言うまでもない。これから語られる物語に理解出来ない部分があるかもしれない。それでも、君とは違う環境で生きる者の考えや行動を想像して欲しい。では、話をオリーブのいる世界に戻そう。
幾度となく訪れる戦いは当然命を賭けたものになる。それは誰もが例外ではない。それこそが生き甲斐という者もいれば、戦いの場に行くことが決まって尻込む者もいる。現代の者であれば後者が多いに違いない。しかし、それは極自然な事で誰しも死は恐怖の対象だ。一生に一度の覚悟を持つようなきわめて死を直感する場所、そんな場所の中心部にオリーブは立っていた。熱気や泥臭さが漂う中で艶やかな長い髪を靡かせながら佇んでいた。
そんな彼女が幾度となく訪れた戦場の中で、運命と言えるものを感じたのは後にも先にもこの時だけだった。
君がこれから想像する世界はまだ区画が整理されていない無秩序な状態で、法律もなければ交通ルールもない、もちろん夜ご飯の前にお菓子を食べちゃダメとも言われない場所。それを聞いて羨ましいと思うかもしれないけれど、直ぐにそれが思い違いだったと思い直す事になるだろう。それだけ無秩序だという事は住む場所も食事も着るものでさえも当たり前ではない。強い者だけが木で覆われた快適な家を手に入れ、伴侶、食糧を手にする事が出来る。弱い者は日の当たらない岩に隠れた洞窟を探しては微少な食糧を抱え、強者に見つからぬよう身を隠す日々を過ごす。言わば、弱肉強食の世界である。だから、この世界の人にとっては今の君たちが羨ましくて仕方ないだろう。でも、彼、彼女らにとってはそれが当たり前なのだ。目の前にいるのは敵か、それとも味方か。心休まる瞬間が命取りになる。
オリーブは辺り一帯が緻密に固まる黒い岩石が広がる火山の上にいた。分厚い雲が空を覆い、宝石のように黄色く照らされるはずの夕方なのに真夜中のように暗かった。
ポオォォォォオォォォォ。
どんよりとした空気が立ち込める中、法螺貝から発せられた全土に轟く音はこの世界での開戦の合図。合図と共に乾いた空気に響く大砲音や地を駆け巡る人間による足音と雄叫びがあがる中で刃が重なる高い音が響いていた。正義、信念、悪、狂気の様々なものがぶつかり合っていた。見た目はさほど変わらない種族同士が様々な想いを背負っている。オリ人(現代でいう人類)が誕生日して以来、バラバラで生きてきたがイチゴというオリ人が現れ、統率を彼が取ることで集団生活をするようになった旧人類軍と突如として現れた闇の支配者アザミという人間を中心に反対派の新人類軍とが衝突をしていた。
戦場では痛みで叫ぶ声や血が飛び交う、君たちがそんな光景を見たら顔を逸らしたくなるに違いない。そんな荒々しさにはとても似つかわしくない、さらさらに艶やかで、美しい黒髪をなびかせたオリーブがエメラルド色の美しい目で戦況を見渡していた。
「キリがない」
噛み締めた歯の隙間から漏れた声には、誰にも届かないため息も混じっていた。オリーブの目に映るのは正気が失われ、目玉の血管にまで血が遡っている者ばかり。敵も味方も戦場にいるほとんどの者がそうだった。その光景が当たり前になりつつある事をオリーブは心の底から嘆いていた。まともな生活なんて、もう何年していないだろう。命を取られる心配をする必要がなく、仲間の安否を願う必要もない、晩飯の事や明日の事だけを考えていた日々はどこに消えたのか。そもそもそんな時代があったのかさえ、オリーブの中では定かで無くなっていた。先の見えない戦いが続く中でオリーブの希望の炎が消えかけていた。
それでもオリーブは両手に握りしめた荒々しい炎の柄が施された、細長く伸びた両刃の直刀を構え、迫り来る敵を流れるようになぎ倒して進んでいた。敵への同情も、倒すことの喜びも何も感じない、ただただ無の心で突き進む。一度立ち止まってしまうと心の器が空になっていることにオリーブ自身が気が付いてしまいそうで、恐ろしく思っていたからだ。だから、自分を誤魔化すためにも無我夢中で剣をめいいっぱいに振るった。
隣ではオリーブと同年代のザクロとイキシアが同じように数多の敵を振り払うように進んでいた。この三人だけを見れば当たり前に思うかもしれないが、やってみれば分かるけれど、そう簡単に敵はやられてくれない。何故なら、敵は敵で命を賭けてこの場所に来ているのだから。それでも一対一で攻防を繰り返す仲間たちを横目にまるで敵が紙切れで出来ているかのようにどんどん先へと進む三人は戦場で頭二つ程抜き出ていた。
紹介が遅れたが、オリーブと並走する一人で、身につけている服が破れそうなほど服を圧迫させている筋骨隆々の身体を持つのはザクロである。彼の身長は2メートルを超えているがその身長程に長く、常人の3倍はあるであろうザクロの太ももよりも太い、真っ直ぐに伸びる大剣を持ち、まるで剣がプラスチックで出来ているかのようにブンブン振り回していた。
一方、ザクロとは対称的で三人の中で一番背が低く、ザクロに握られたら折れてしまいそうなほど腕が細いのはイキシアという者がいる。彼女は一般的な刀よりも短く、短剣よりは長い中途半端な刃に、柄には蛇が巻き付いた装飾が施された片刃の刀を目では追えない速さで的確に敵の胸に突き刺しながら進む。やはり、二人共がオリーブに劣らない速さで先へと進んでいた。
そんなオリーブらが必死な様相で向かう場所。それは数百を超える敵の頭を超えた先にある大きな一枚岩の上で優雅に腰を下ろし、下衆を見るような笑みを浮かべながら、戦場を静観している新人類軍の総大将アザミがいるところである。アザミはゆらりと垂らした前髪の隙間から、虹色の瞳を覗かせて戦況を優雅に眺めていた。
刀を振るう合間でアザミと目が合ったオリーブだったが、まだ彼までの実距離はざっと100メートルほど離れていた。しかし、それ以上に距離を感じるのはオリーブとアザミの間に敵の精鋭部隊が隊を連ねているからだ。ただでさえ遠のく想いを感じているにも関わらず、アザミの余裕がオリーブの焦燥感をさらに駆り立てた。
しかし、その一方でオリーブたちよりも前方で精鋭部隊をものともしない、大暴れをしている人物がいた。その人物とはオリーブが属する旧人類軍の総大将であり、彼女たちに戦い方や生きる道筋を教えてくれた師匠であるイチゴだ。イチゴはまもなくアザミに到達しそうだった。彼の腕は大砲のように太く、細長い海老のように反り返った刀を流れるように美しく、そして力強く、オリーブたちの倍の速さで進んでいた。敵から見た彼の姿は多くの者に畏れられた鬼神修羅に見えたに違いないだろう。
「イチゴさん・・・」
まもなくイチゴが敵の総大将アザミに差し迫る姿を目で捉えたオリーブは何故か、より強い焦燥感に駆られた。そして、おでこを流れる一滴の汗が不吉な予感を感じさせた。
「早く追いつかなければ」
オリーブが横に目を向けるとザクロとイキシアの表情からも同じ焦りの色が見てとれた。オリーブ自身も焦りを感じている自分たちが不思議だった。きっとアザミにも勝るであろうイチゴの圧倒的な強さも、正しくて真っ直ぐな強い意志をも信頼し、心配する必要はどこにも無いはずなのに、なぜか胸をザワっと引き上げられるようなものを感じてしまっていた。オリーブたちは気持ちが先走るに連れ、単調な動きが増えたせいか目の前の敵に手間取られる時間が増え、なかなか先へ進むことができずにいた。煩わさで食いしばったせいで欠けたオリーブの歯が口の中でコロッと動いた。
読者諸君、イチゴがどういう人物なのか気になってきた頃ではないだろか。なので、この辺でオリーブ目線ではあるが、イチゴを少し紹介しておこう。まだ全てを語るには早すぎる。
オリーブにとってイチゴとは何にも置き換えることのできない特別な存在であり、この世で自分よりも大切だと感じる唯一のオリ人だった。
治める者が誰一人と現れず、統率の取れていない混沌とした世界で孤独と隣り合わせで生きてきたオリーブに居場所と希望を与えてくれたオリ人。生きている意味と実感を与えてくれたオリ人。そして何より、オリーブの世界を180度変えてくれた恩人だった。彼に救われたオリ人はオリーブだけではない。旧人類のほとんどの者がイチゴの強い意志と全てを包み込む優しさに救われていた。これからもイチゴに救われるオリ人は多くいるに違いない。だから、この世界はイチゴを失ってはならないのだ。
それが分かっているから旧人類軍の全員がイチゴと今の世情を変えるためにならどんな犠牲もいとわない覚悟でこの戦場に立っていた。
しかし、想いが必ずしも届くとは限らない。イチゴは誰よりも一足先にアザミの下へと辿り着いた。
一枚岩の上でイチゴは刀を身体の横に下すと、まるでそこが二人だけの世界であるかのようにアザミと向き合った。アザミは煤けた溶岩石で出来た椅子に腰をかけながら、悠々とイチゴを迎えた。
「こうやって顔を向け合ったのはいつぶりだろうか。すっかり歳をとったように見える」
アザミは昔を懐かしむ目でイチゴを超えた遠くを眺めながら言った。
「最近はお互いに戦場へ顔を出さなくなったからな……。俺たちも偉くなったもんだよ。それでも、お前のおかげで随分と忙しかった」
イチゴの声も妙に落ち着いていて、騒がしい戦場の中で二人の空間だけが切り離されているようだ。
「もう終わりにしよう。この戦いを始めた、俺とお前で決着をつけるんだ。みんながそれを望んでいる」
懐かしんでいた表情から一転、凛々しい表情へと切り替わったイチゴはそう言うと再び身体の前で刀を構えた。
「残念ながら、私は死なないよ。それに、この世界も変わらない。もし君が、自分を引き換えにする覚悟を持っていたとしてもね」
アザミは漆黒の前髪を掻き上げるとイチゴの覚悟を嘲笑う表情で手招きをして応えた。
「どうなったとしても世界は次の時代に動く。もし、俺が貴様を倒すことができなかったとしても、俺の意思を継ぐ者がいる限り世界はどんな風にだって変えられる。お前は今の時代の、ただの原因でしかない」イチゴは言った。
「意思を継ぐ者か・・・」
アザミは胸から込み上げてくる笑いを隠すことなく続けた。
「志など脆く壊れやすいモノだぞ。私たちのように。この先、何があったとしてもどんなことがあったとしても変わらないとそいつらを信じられるのか」
「信じられるか、か。くだらない質問だな。あいつらはお前が知らないモノを沢山持っている。それがあれば、この先に何があろうとも強く生きていけるはずだ。あいつらは俺の信頼など簡単に超えていくよ」
イチゴの甘い言葉と優しい笑みを見て「君らしいな……。甘い」とアザミも柔和な笑顔を見せた。その場所はとても争いとはかけ離れた和やかな雰囲気に見えた瞬間だった。イチゴは駆け出すと刃を光らせ、アザミに牙をむいた。予想する事が困難な突発的な行動に思えた。(だとしてもこの状況で呆ける者なんていない)
しかし、刀は空を斬る。座ってこの状況を見下していたアザミが目の前から消えて、彼の腰の鞘から出された剣は黒い光を纏っていた。さっきまで余裕の表情で座っていたアザミは狙われた被食者の如く戦闘態勢に入っていた。
外から眺める者たちは一枚岩の上で繰り広げられる刀剣を交える二人の残像を目で追っていた。目で捉えられないその動きは刃が重なり鳴る高い音を空に響かせていた。
一方、総大将同士の戦いに感化された兵士たちは声を張り上げ、より激しく戦場を駆け巡った。その効果は良い効果をもたらすだけではなかった。味方の士気が上がるのと同じく、敵の士気をも上げてしまうからだ。先を急ぎたいオリーブにとってはゾンビのように何度も立ち上がる敵の兵士が煩わしかったし、進むのに時間がかかった。
オリーブは一度倒した敵が負けじと複数人で襲いかかってくるのを相手にしながら、一瞬の隙を見つけるとちらっと視線を移動させた。その移動させた先とは、勿論、一枚岩の上の戦場だ。オリーブの目には目を擦って再度しっかり確かめたくなるような出来事がスローモーションで映っていた。
イチゴとアザミはお互いに譲らない攻防をしていた。いつも近くで彼らを見ていた者たちでさえ、決着がつかず、永遠に続くと思わされた。しかし、結末というのはいつも突然に訪れる。イチゴの反った刀が吸い込まれたようにアザミの心臓部を貫通していた。アザミの左胸の空洞に嵌っている、透明で丸く、薄い空色に光る命の源には鋭くヒビが入った。すると、丸い球体は刺された中心から粉々に割れていった。
「やっと決着がついたな。本当に長かったよ」
心の底から嬉しそうで、安堵したイチゴから笑顔が見えた。その結末がもたらした歓喜と落胆の余波はすぐに戦場へと伝わり、旧人類軍の全ての者に一瞬の心の緩みが表情に現れた。それは、オリーブも例外ではなかった。皆も極限まで何かに集中して取り組んでいたとして、それが終わった直後はこうなるだろう。戦場にいる全ての者の目に映ったその光景は全員の動きを止めるには十分だった。
旧人類軍の兵士たちは両手を空に掲げ、アザミが率いる新人類軍の兵士たちは落胆の表情を隠すことなく、両手と武器を身体の横に下ろした。
惑星にとっては一瞬だとしても、この世界のオリ人たちにとっては長い長い闘いの幕がついに降りた。旧人類軍の中には涙を流して喜びを露わにしている者もいた。それ程に過酷で身も心もすり減らす、命を賭けた長い闘いだった。
歓喜の大きな歓声が沸き起こる前ぶれ、叫ぼうとする味方たちの空気を吸う音が響いた。しかし、その歓声を聞く事はなかった。気付かぬ間に起こった、予想外で誰の頭にもよぎらなかった一瞬の出来事に、それは息が喉を逆流する音へと変わっていた。
「一瞬でも良い夢を見れたようで嬉しいよ。長年のライバルへの最後の贈り物だ。安らかに眠れ」
心臓部の核を壊されて消えていくはずだったアザミの口が動き、確かに笑っていた。核を壊されたオリ人は核と一緒に人体もチリとなって消えていくことがこの世界では常識だった。オリーブはこれまで敵でも味方でも、何人ものオリ人が消えていく姿を見てきた。
常識とはその世界に住む者の当たり前で、当たり前とは当然の事で揺らぐことが殆どない、絶対に近い事だった。しかし、アザミは常識を嘲笑うかのように手に持つ邪悪な剣をイチゴの命の源である核に突き刺した。
その瞬間の出来事を戦場にいる兵士たちが認識するのに数秒も必要はなかった。イチゴの核を剣が貫いた瞬間に両手を揚げていた者たちは地面に膝をついてうなだれ、下ろしていた者たちが今度は両手を上に掲げて大きな歓声を上げた。地底まで響くような、歓喜とはとても思えない低い歓声が鳴り止まなかった。
戦場にいる誰もが一枚岩の戦場に目を奪われる中、人混みを縫うように動く影が3つ。その影の正体はオリーブ、ザクロ、イキシアだ。分け目も振らず、一心不乱に揃って一枚岩の戦場に向かって平地を疾走していた。敵は喜ぶばかりで動く三人のことを気に留めようとしない。
おかげで一枚岩の決戦場へと最短で辿り着いたオリーブとイキシアはまだギリギリで姿の残るイチゴを両手で支えた。一方、ザクロはそれを超えて大きな剣を振り上げ、アザミへと飛びかかった。オリーブとイキシアの目からは涙が溢れ落ち、ザクロの涙は風に流されて憎悪、怒りだけが表情に残されていた。
ザクロの渾身の一撃が当たればどれだけ彼の心を軽くすることができただろうか。否、心が軽くなることなどないかもしれない。ただ、その憶測は振るった剣が当たればの話であり、軽々と避けられてはそれを想像することすら敵わない。
「威勢がいいな。イチゴのガキどもか。ずいぶんと遅かったじゃないか。もう来ないと思ったぞ」
アザミの人を食ったような余裕さに煽られ、ザクロは怒りで言葉にならない声を張り上げた。今にも顔中の血管が破裂しそうに浮き上がっていた。
「よくも、イチゴさんを。許さん、許さんぞ」
「師匠を殺され敵討ちか、若いな……。所詮はガキの戯言か。もしかして、お前らは戦場へ遊びにでも来ていたつもりか?」
アザミの憎き言葉はイチゴの傍らにいたオリーブの怒りにも油を注いだ。
——三対一のこの圧倒的に不利に思える状況にも関わらず、落ち着き払ったアザミの態度はなんだ。私たちでは相手にならないとでも言うつもりか。ふざけるな。
「それ以上喋ってくれるな。戯言でもなんでもいい。喋りたくてもこれ以上喋れなくしてやる」ザクロは言った。
油を注がれたのはオリーブだけではなく、ザクロもだった。嵐の前の静けさの如く、睨み合う両者の殺気が静かにぶつかり合う中、思いもよらぬ声がザクロを止めた。
「挑発に乗るな。奴の思う壺だぞ」
今にも怒りのままに剣を振おうと躍起になるザクロを制止したのはイチゴの声だった。消えてしまいそうな掠れた声のイチゴは最後の言葉を伝えるために力を振り絞った。
「すまない。決着がついたと思って油断をしてしまった。感情のコントロールができないなんて情けないな……。だからこそ、お前たちは冷静でいてくれ。私と同じ轍を踏むつもりか? お前たちには迷惑をかけるが、奴を止めてくれ。お前たちなら出来る。期待しているぞ」
最後に見せた表情は死に行く苦しみなど微塵も感じさせないくらい優しくて、朗らかな笑顔だった。イチゴはオリーブとイキシアの腕の中で安らかに塵となり、消えて無くなった。オリーブの頬を伝う涙が、消えたイチゴの空間を抜けて地面へと落下した。まるで初めからそこには何も無かったかのように涙の跡が岩に染み込んでいた。
——何が家来だ。あなたを御守りするだ。あの日誓った約束は……。
オリーブは自責の念に苛まれる中、弟子になったばかりの頃にイチゴからかけられた言葉を思い出し、彼女自身の心に光を差した。
争いが絶え間なく続く小さな町でオリーブは産まれた。日々、生と死が隣り合わせになった生活の中でオリーブは親に邪魔だ。と言われ、捨てられた。誰もが自分自身が助かる事に必死で、わざわざお荷物を背負い込もうなんていう物好きは世の中のどこにもいなかった。(だったら産まなければいいのにと当時のオリーブは思っていた)孤独で食料も住む場所も手に入れる事が出来ない幼かったオリーブを見ず知らずのイチゴが拾ってくれたのだ。自分の事に精一杯な人は他人の事なんか気にしていられないのは君が生きる世界でも同じ。そして、そんな人がオリーブが生きる世界では当たり前にいた。誰も優しくない世界で優しくしてくれるイチゴに当時のオリーブはこんなことを訊いた。
「ねぇ。どうして私の面倒を見てくれるの? 私なんて何の役にも立たないし、使えない子だよ」
二人で食料を調達しに隣町まで歩いていた途中だった。イチゴは歩みを止めてしゃがみ込むとオリーブと同じ高さに目線を合わせた。そのときに見た、唇から出血しそうなくらいに食いしばり、どこにもぶつけられない怒りが押し込められたイチゴの表情をオリーブは忘れることはないだろう。
「もしかして、そうやって親に言われてきたのか?」
イチゴの表情に怯んだオリーブは声を出さずにコクンと首を縦に振った。すると、イチゴは自分自身に不幸な事が起こったような哀しい表情でオリーブを見た。
「すまなかった。辛かっただろう。争いが君の親をそうさせたのかは分からないが、君が辛い思いをしたことには変わりない。一番の味方であるはずの親に存在を否定されることがどれほど辛いか。想像しただけで私は怒りに囚われそうだ」
オリーブは心底驚いた。自分のことを自分以上に怒ってくれるオリ人を初めて見たからだ。その姿を見て、何故かオリーブの心は温かい空気の渦に包まれた。同時に目からぼたぼたと溢れ出す涙が止まらなかった。
イチゴは怒りの表情を消して、仏のような優しい表情になってオリーブを見つめていた。
「オリーブ。私は君の、他人にも自分にも優しい心を持ちながら、決して揺らぐことのない、強い心を持っているところが好きだよ。その怒りに囚われることのない、強くて優しい心を失わないでくれ」
オリーブはその時の頭に乗せられた手の温もりを鮮明に思い出したのだった。
オリーブは悔しさと悲しみに埋め尽くされた心を奮い立たせ、流れる涙を袖で拭い立ち上がる。そして、イキシアとザクロに並び、刀を抜いた。
「いいぞ。いいぞ、面白い。イチゴの遺品とでも言おうか。奴が残したお前たちが、どれだけのモノか俺が見極めてやろう」アザミが高笑いをした。
「くだらねぇ事言ってねぇでさっさと構えろよ」ザクロが怒りで吠えた。
見つめ合う四人の空間は、触れた瞬間に爆発しそうで地雷を目下にした処理班のように張り詰めていた。
一方、階下では旧人類軍がイチゴの死という事実に良くも悪くも心を乱されていた。総大将という心の支えを失い、心が折れた者は項垂れたまま。初めこそショックで動けなかったが、総大将を失ったからこそ己の手でと、オリーブたちに続いて立ち上がった者が敵の相手をしていた。兵士たちのモチベーションは明らかに新人類軍が優位ではあったが、泥臭く諦めない旧人類軍をなかなか制圧できずにいた。
そして、舞台は一枚岩の上の戦場に戻る。静かに殺気をぶつけ合っていた静の雰囲気から一転、オリーブたちによる目まぐるしい猛攻をアザミは軽快に難なく受け流していた。
オリーブのしなやかさも、ザクロの力強さも、イキシアの素速ささえも、その全てがアザミには敵わなかった。何においても相手にすらなっていない。がオリーブの受けた印象だった。
そう思うとサシの勝負でありながら、アザミの核を壊して窮地に追いやったイチゴに改めて尊敬の念を抱くと共に核を破壊してもアザミを止めることが出来なかったという事実にオリーブは先の見えない恐怖も感じていた。どうしたらアザミを倒せるのか、頭の中でどうイメージをしても辿り着かない。
「どうやったら倒せる?」
希望が見出せず、悪い思考が頭の中を廻るオリーブに自分の心の声が漏れたと思わせる言葉が囁かれた。それは意外にも冷静さを保持していたザクロの口からで、胴体に似つかわしくない小さな声だった。
「分からない」
幸いアザミは守備に徹し、攻撃を仕掛けてこなかったのでオリーブにも答える余裕があった。それでも、答えようにも解答を知らなければ答えられない。
オリーブにとって、ただ一つ、そして最大に不可解な点があったからだ。それは三人でも優位に立てないアザミの強さの秘密ではなく、どうして自分たちがそんなに弱いのかでもなく、命の源を破壊されたアザミが何故動き続けているのかという点だった。幽霊を相手にしているわけではない、確かに実体がそこにある。
この世界では心臓部にある透明の外枠に内が薄く空色に光る玉、通称核が人体を形成しており、核から流れるエネルギーによって身体は動き、肉体を維持し続けて生きている。それがここでは当たり前であり、理なのだ。しかし、アザミはその理を覆すような存在になりつつある。それが何故なのか、その理由が解らなければ、到底アザミを倒すことはできない。勝てる見込みや確証がなく戦い続けるのは精神的に無理があった。
突破口を見出せず戦い続けるのがザクロには我慢の限界だったようだ。両手に握る剣を片手に移動させ、もう片方の手をアザミへと伸ばした。牽制のためか、はたまた捕まえるためか。しかし、アザミは同時に迫るオリーブとイキシアの刀を上に振り払い、ザクロの腕に剣を振り下ろした。
守備に徹していたアザミからの不意の攻撃に反応が遅れ、アザミの剣がザクロの腕にまともに振り下ろされた。
ゴキっと骨を鳴らす鈍い音がした。剣でザクロの腕が切れることは無いが、骨は折れただろう。激痛が腕全体を駆け巡ったはずだ。神経ごと逝かれてしまった腕がだらんと垂れ下がる。
それでも、ザクロは怯むことはなかった。そんなことは元より覚悟の上だと言わんばかりに、腕へと意識が向いたアザミにザクロの剣が襲う。
その剣は奇しくも身体には届かなかったが、切先で服を剥いだ。元々、片肌脱ぎになっていた着物はもう片側の布がひらっと剥がれて、上半身が露わになる。それを見た三人は目を見開き、思いもよらぬ姿に驚愕した。
なんとイチゴによって破壊された核のもう片側の胸に、命の源がきらめていた。通常、核は一つの身体に一つが原則であり、二つ持つ者などあり得なかった。オリーブも今までそんなオリ人を見たことも、聞いたこともなかった。それもそのはず、一つの核から人体が形成されるため、複数の核が一つの人体に組み込まれることはない。例え二つの核を一つの人体に組み込もうとしても二つのエネルギー同士が反発し合い、破裂して人体が無くなってしまう。
オリーブたちの動きが止まっている隙にアザミはそれを隠すように回転しながら後ずさった。
「あれは何なんでしょうか?」
驚いて思考を停止した状態からいち早く抜け出したイキシアは訝しげな顔で疑問を口にした。そのおかげでオリーブとザクロも我に返った。
「核を二つ持つオリ人なんてあり得ないよね? イチゴさんからも聞いたことがない」オリーブは困惑していた。
「イチゴさんも知らなかったんだろう。知ってたら負けやしない」ザクロが答えた。
「確かにそうね。それならやっぱり、一層不気味よね」オリーブが言った。
「まぁ何にせよこれで解ったからいいじゃねぇか。殺し方がよ。俺のおかげで雲を掴むような戦いもこれで終わりだぜ」
「はいはい。ありがとね」
自慢げなザクロを軽く流したオリーブも、考え込んでいたイキシアも、胸の内ではザクロに感謝していた。詰まっていたモノが取れたように、気持ちが随分と軽くなった。そのおかげでオリーブにもザクロ、イキシアの顔に笑顔が表れた。
とはいえ、得られたモノがある反面、失ったモノも大きかった。三人の中で最もパワーのあるザクロが片腕で闘わなければならなくなってしまったのだから。
だとしても、片腕を犠牲にしなければ真相すら掴めなかった。アザミはそれ程に強大な敵だった。ザクロの行動からメッセージを感じ取ったオリーブとイキシアは静かに心の中で覚悟を決めた。
会話の内容を聴いていたアザミは核を隠すのを諦めたのか、それとも壊されない自信からなのか、それを気に留めることをやめると両肌脱ぎの状態で腰に据えた剣のグリップに両手を添えた。
それを見た三人は腰を落として身構える。アザミから冷たく発せられる集中した雰囲気を感じ取った瞬間にアザミはイキシアへと斬りかかっていた。
十分に身構えていた、腕の動きにも集中をしていたはずだった。にも関わらず反応が遅れてしまった。アザミの速過ぎる抜刀術にイキシアは動けずにいた。ただ速いだけではない。意表を突かれたからでもある。何故、予想外だったのか。それは、刀ならまだしも、剣で抜刀術ができるのはアザミくらいのものだからだ。イキシアの目の先まで刃が近づいたとき、代わりにその攻撃に反応して剣を振り払ったのはザクロだった。
「こいつに常識なんてものを持ち込もうとするな。感じたまま動くべきだ。それと、貸し一だからな」
「助かりました。覚えておきます」
それを皮切りに再び4つの刃が重なる音が空高く響き渡った。
先程とは打って変わり、次はアザミの猛攻をオリーブたちが防衛する番になった。凄まじい攻撃の数々に三人はお互いをカバーし合いながら凌いでいた。これまでお互いの呼吸を聞き、動きを合わせながら闘ったことがない三人の動きは何だかぎこちない。
「ほぅ。ギリギリだがついてこれるな。だが、まだまだ。もっとスピードを上げるぞ」
アザミにとっては命を取り合う殺し合いではないのだろうか。数的優位のオリーブ、ザクロ、イキシアが感じている死の恐怖を嘲笑うように、おもちゃで遊ぶ子供の如く楽しそうに剣を振っている。その姿を見たオリーブが感じたことは——イカれている。だ。
再び階下に話は一旦戻る。地上での争いは戦士らの表情が物語っている通り、2極化していた。旧人類軍戦士の表情は暗く、立ち込める陰気な風に煽られてより一層、敗北感が漂っている。ただ身を守るだけの戦いをしている者が大半を占めていた。彼らは勝つことを諦め、死んだ魚の目をしていた。その一方で少数派ではあるがまだ勝つ事を諦めていない者たちがいた。彼らはオリーブたちの行動に奮い立たされた者たちだ。
この状況を肌でオリーブは感じ取っていた。そして、この戦に勝つには圧倒的に何かが足りない。その何かを埋めることができるのは誰なのかオリーブは知っていた。
アザミとオリーブたちが創る、彼らだけの空間。その誰も触れることを許さない、触れられないと思っていた空間に狡猾なドス黒い光が襲った。陰鬱で暗い影がチラつく光の標的となったのはオリーブだった。もし、鉄の飛び道具であれば当たったとしても何ともなかっただろう。しかし、これは違った。黒い光線はオリーブのふくらはぎを突き抜けた。焼けるような痛みを感じたオリーブはその場で崩れ、膝を地面についた。
勿論、アザミはその隙を逃さない。黒い光沢を纏った刃がオリーブに向けられた。オリーブの脳裏には一瞬、死の文字が浮かんだ。
——ここで。死ぬのか。何も成し遂げられずに。
オリーブはその一瞬で人生を振り返り、そして後悔した。走馬灯というものだ。しかし、その黒い刃を受けたのはザクロの腕だった。
「ゔぅ。もう折れてるんだよ」
骨が既に折れている腕で剣を受けたザクロはあまりの痛さに顔を歪めた。さらに、オリーブに猛追をかけるアザミの剣に反応したイキシアはオリーブの前に回り込んで攻撃を受け流した。
イキシアとザクロが注意を引いてくれる中、オリーブは光線の出所を探した。しかし、辺りを見渡してもそれらしき武器を持ったオリ人はいない。
人体を貫通させる武器があることをオリーブは知らなかった。聞いたことすらない。だから、何としても見つけたかったし、それを回収するべきだと思った。しかし、そんな悠長なことをアザミは許さない。ザクロとイキシアの剣を振り払い、三度オリーブの命を狙う。
気づいていないオリーブに迫る刃先をイキシアが身体で受けとめた。核からは逸らす事に成功したが、胸を貫かれたような痛みで地面にうずくまる。ザクロはその隙にアザミの腹を剣でぶん殴り、よろけたところで剣を持つアザミの腕を握りしめた。
アザミは引き剥がすためにもう片方の手と膝でザクロの折れた腕と顔、腹を殴りつけるがザクロは血を吐いてでも離さなかった。
そのおかげでチャンスが生まれた。貫通した脚を踏ん張ってオリーブは立ち上がる。そして、そのままオリーブの刀がアザミの綺麗な命の源を捉えた。捉えた刃先から徐々にヒビが広がっていく。オリーブには核がひび割れていく様が芸術のように美しく思え、目を奪われた。
アザミはイチゴのときと同じく、心臓部から徐々にちりとなって空へ消えていった。まるでタンポポの綿が広がっていくように。
オリーブは塵を追って空を見上げる。
——終わった。長い長い、永遠にも続きそうだった闘いに本当の決着がついた。
空を見上げて感慨に浸っていたオリーブはザクロに呼ばれて我に返った。イキシアは二人に肩を支えられながら立ち上がる。
目線が合ったところで三人は目を見合わせ、テレパシーさながらお互いの考えを確かめ合うと次の行動をオリーブが請け負った。
オリーブは流れ落ちる涙を拭き取り、近くにあった椅子型の岩に飛び乗ると刀を掲げて声高々に叫んだ。
「敵の大将を討ち取ったぞ! この戦は終わりだ。自軍、敵をみな取り押さえろ」
オリーブの声が天まで轟いた。両軍の俯いていた戦士も闘っていた戦士もみながオリーブに注目し、戦場に沈黙の空気が流れた。そして、オリーブの言葉が浸透するのにそう時間は必要なかった。
「おぉぉぉーーーー」
先程まで意気消沈していた味方の活気と笑顔が波紋のように広がっていく。大きな波となって戦場を押し寄せていった。
「おい。一言違うんじゃねぇか。取り押さえろだなんて甘い。一人残らず殺しゃぁいいのに」
ザクロは地面に腰を下ろしながら、オリーブの声真似をしながら不満を洩らした。
「殺す必要は無いですよ。奴らはアザミがいなければ戦うことができないですから。戦意のない敵なんて殺しても虚しいだけです」イキシアが言った。
「ふん。甘ぇなお前らは」
イキシアがオリーブに肯定してくれたことで、多数決によりザクロが折れることになった。
「これでよかったんだよな。イチゴさんが長年、夢見た景色ってのは」
突然、ザクロは神妙な面持ちで呟いた。どうやら、ザクロは戦争が始まったばかりの時にイチゴが語った夢を思い出しているようだ。
「あぁ。そうですね。あのお方が望んだことだと思います。まだ夢半分ってところでしょうが、やっと半分終わりました」
イキシアは黄昏れた横顔で戦場を眺めていた。
「でも、これからどうする」
ザクロは戦場を見るのをやめて二人に答えを求めた。
「さぁ? どうしましょう」
イキシアはそのまま聞き返した。
「まずは王だろ。俺がやってやるよ」
「冗談がお好きですね。誰があなたに付いていくんですか? 私は御免です」
「さっき一つ貸しを作ったよな?」
「それとこれとは別です」
「じゃあ、お前がやるつもりか? お前は一国の王とかそんな器じゃないだろ」
「あなたの心の器よりはでかいですよ」
ザクロとイキシアのやり取りを片耳で聴きながらオリーブは味方が制圧しつつある戦場を眺めていた。
「おい。オリーブはどう思うよ?」
イキシアと話していても埒があかないとザクロが話題をオリーブに振ったので、オリーブは少し考えてから答えた。
「私は、今はこの光景で十分かな。これからのことはまだ考えられないよ。まぁ、どちらにしても、私たち三人が仲良く協力なんてできないでしょ。誰か一人を王にして尽くすなんて無理よ。互いがそれぞれ信じる道を選びましょう。今、下で戦っているみんなもそうするべきよ」
相変わらず、遠いこの先の未来を見ているかのような目で笑みを含みながらオリーブは答えた。ザクロとイキシアはそんなオリーブの意見に納得したらしく、笑顔で頷いた。
オリーブは達成感に包まれ、やり切った今を眺めるのがとても気持ちよかった。どんよりとした雲に覆われていた空から月が顔を覗かせ、黄色く光る小さな点が無数に広がっていた。今まで共に闘って死んでいった仲間たちがこの瞬間を見届けに来てくれたようだ。もちろんイチゴさんも……。
ササッ。
黄昏れているオリーブの耳に草の擦れた音が聞こえた。背後に広がる森の入り口に生い茂る草を見たが風に揺られているだけで何もない。
——気のせいか……。
「それで、この道具はどうする?」
イチゴが消えた場所に落ちていた三つの掌サイズのモノを持ってきたザクロがそれを手のひらに広げてみせた。そのモノとはイチゴが毎日持ち歩き、とても大事にしていた道具で自分に何かがあったときはオリーブたちに託すと話していた物だった。
「どうするって言われましても、私たちが引き継ぐべきでしょう。イチゴさんの意思通りに」
「まぁ、そうだよな」
ザクロはイキシアの意見に納得するように呟き、それぞれを手渡した。
オリーブには金色の丸い輪っかが大小と二つ、重なるようにくっ付いているモノを。
イキシアには黄金色の鉄で出来た長方形の取手に両先端が三叉に突出し、取手の表面には龍や霊獣が彫られているモノを。
最終的にザクロの手に残ったモノは棒状で先端部分に丸い輪が付いており、輪の下に横向きの細い金棒がくっついている。金棒の先端は変わった方向に曲がっていた。
どれも手より少し大きいサイズでさほど重くは無い。
「そもそも、これって何なんだ?」
ザクロは持っている道具をふらふらと揺らしながら、多方面から観察する。それでも、さっぱりだと首を横に振った。
「私も知りません。イチゴさんに唯一教えてもらえなかったことなので。いくら訊いても教えてくれませんでした。ただ使わないのが一番とは言ってましたが……」
そう言ってイキシアは肩を竦める。
「なんで、使い方を教えないモノを私たちに託したのか」とオリーブは言った。
「なんだ。お前らも知らないのか。どうせイキシア、お前のとこのヤツだと思ったよ」
イキシアはザクロをキッと睨みつけた。すると、ザクロは「こーっわ」と悪戯っぽく笑った。
「イチゴさんに何をするための道具なのか、存在している意味だけでも聞いておけばよかった。そういえば誰か、イチゴさんが使っていたところを見たことはないの?」
オリーブの問いに二人とも首を横に振った。それぞれオリーブたちは自分の手に持つ使い方の分からない道具をじっと見つめていた。
そんなとき、オリーブは森の中からこちらを見つめる何かの気配を感じた。なんとなくだが、それは切に自分を呼んでいるように思えた。気配のする方向へ目を向けると生い茂った草と草の隙間から真っ黒な2つの目がオリーブを見つめていた。
オリーブが見つめ返すとその目は踵を返して、鬱蒼とした森の中へと消えていった。オリーブはそれが何だったのか、何者なのかを確認をしたくてすぐさま立ちあがろうとしたが、一度立ち止まってザクロとイキシアを見た。彼らは未だに今後の在り方について、自分の考えを論じ合っていて森の気配などまるで気づいていない様子だった。先程の視線が自分に向けられたメッセージだと感じ取ったオリーブはそんな二人に気づかれないように足音を消しながら黒い目が消えていった方へと足を向けた。
森の中は月の光が遮断され、手元しか見えないほどに暗い。そのおかげでオリーブは勘で足を前に進めて行くしかなかった。前を歩く何者かの草を揺らす音だけを頼りに進む。そんな中、一瞬、木の隙間を月の明かりが差し込んだ。そして、その白い光が照らしたのは小さな丸っこい茶色の背中、狸の後ろ姿だった。草木の境目を見分けるのが困難な中、目を凝らし、茶色い狸の背中だけを追って奥へ奥へと進んでいった。
随分と奥へ進んだ頃、木々が途切れた場所にたどり着くと丘陵地に出た。ぼうぼうに生えていた草もこの場だけは長さが均一に揃っており、整えられた美しい草へと様変わりしていた。そして、広がった平野の真ん中に巨大で節くれだった木が一本、仰々しく立っていた。月をも霞ませるその存在感は神々しい雰囲気を纏っていた。その木の周りを複数の蛍が光を灯しながら、てんでんばらばらに飛び回る様はまるでクリスマスツリーの装飾のようだった。
いつの間にか狸の姿を見失ったオリーブはふと視線を動かしたとき、あるモノを見つけた。それは木の根元に綺麗に並べられた3つの百合籠だった。その百合籠の中には1歳にも満たないであろう小さな子供たちが寝息を立てて眠っている。三人の枕元には手紙が添えられていた。
オリーブは手紙を拾い上げるとそれを開く。
すると、その手紙には『拾って下さい』とだけが書いてあった。
争いが日常化している今の時代ではよく見る光景だったがオリーブの目には、所謂、よくあるだったり、仕方ないとは映らなかった。無意識に争いの悲しさや悔しさ、自責の念にかられた思いで子供たちを見ていた。しかし、当の本人たちはそんなことは何でも無いかのような顔でスヤスヤと音を立てて眠っている。
——なんて、尊い。
生死が当たり前のように隣り合わせにいて、善悪が混沌状態になっているこの世界にも、まだこんな美しいモノが存在していることに改めて気付かされたオリーブは嬉しさと悲しさと虚しさとやるせなさと感動が入り混じった不思議な渦が心を掻き回していた。
目から湧水のように溢れ出す涙が止まらない。イチゴの創りたかった世界、守りたかったモノが何だったのか、分かったように感じた。
そして、オリーブの渦巻いていた心に一筋の光明が差した。これから自分は何をしたらいいのか、何をすべきなのかをその光に導かれて、静かに悟ったのだった。
この子たちも含めた誰もが苦しまない、安心して生きていける世界を必ず創ってみせる。
メラメラと灯った強固な炎がオリーブの目の奥で燃えていた。
——誰の夢だろう。
雀の囀りが耳にこだまする、午前7時にセットしたアラームが鳴る前にクロユリ・カズラは目を覚ました。