迷い人 二
「ありがとうございます源七郎様」
男は不愛想だが用意する食事は滋味深く、僅か二日程度でタエは元気を取り戻してびっこを引いて歩けるまでに回復した。不思議なのは季節に合わない山菜を男が持ってくること。夏のこの時期にコゴミやタラの芽、ウルイなんかも食卓に並ぶ。どれも見たことの無いような立派なものばかり。
それに猟師小屋のような簡素な造りの家が心地よい空気で満たされている。暑くも寒くも無く、どこかこの世とは思えないほど居心地がいい。
「源七郎様、なにかお手伝い致します」
狭い小屋の一室では男が桶に真っ黒な液体を注ぎ、布をつけたり干したり忙しそうにしていた。
「いらん」
男は素っ気なく答えると黙々と作業をこなす。取り付く島もない男の答えににタエはちくりと心が痛んだ。しかし山道を行くのにこの足では心もとない。治るまで面倒を見てくれるなら甘えておけばいいかと部屋を後にする。
つい先日まで死にたいと思っていた自分が”足が治るまで”とはあまりに滑稽。寂しさと情けなさで笑えてくる。のぼせたような頭を少し冷やすかとタエが庭へ出てみればちらちらと白みがかった桜の花びらが舞っていた。
年を経た桜の美しさに息を飲んだタエだったが、ここが現世ではない事を理解した。枯れた沢で痛みと熱にうなされた自分が見ている泡沫の夢か、はたまた人食い鬼の見せる幻術か。肩に置かれた手に心臓がどきりと脈打った。
「休め、ぶり返しても迷惑だ」
男の顔は至極迷惑そうに歪んでいた。掛けた銀縁眼鏡が優しい陽光に照らされて鈍く光る。どうせ泡沫の夢ならば夫に似たこの男と。そこまで考えタエは我に返る。
「……申し訳ありません、休ませていただきます」
何を考えていたと自分に言い聞かせて床に潜る。食うもの食わずここまでやって来て、気が弱っていたからだと自らに言い訳をして目を閉じる。しかし、振り向いた瞬間の男の顔が目に浮かぶ。どこか儚げな、それでいて優しい眼差し。悶々としている内にタエは眠ってしまった。
「おい、おい!」
ゆすられて起きたのは夕方頃、すっかり日も傾き空が紅く染まった頃だった。
「申し訳ありません」
慌てて身を起こしたタエは男の顔を見てまた胸が鳴った。穏やかな瞳、子を見るような優しい面持ちで男が様子を伺っていた。すぐに口をへの字にすると男はむすっとした口調で言った。
「謝るな、別に困ったことなど無い」
寝ぼけ眼を擦ってみれば辺りに魚を焼いた香りが漂っていた。
「山女魚を獲ってきた。食え」
囲炉裏には尺はありそうな山女魚が数匹刺さっている。どれも身が厚く、見た事が無いような大きさだ。自在鉤につるされた鍋には肉も見える。
「お客様でもみえるんですか?」
あまりの豪勢な食事にタエは躊躇った。山盛りの白米に卵まである。
「違う、好きなだけ食え」
おずおずと炉端へ向かい山女魚の串を掴む。肉厚の身はほぐれるように柔らかく溢れる油が口に広がる。ごろごろと肉の入った汁をよそって男が差し出す。タエは作法など頭からすっぱり抜け落ちて、受け取った先から口に運んだ。米を、卵を食って気付けば山のようにあった食事も空になっていた。
「タエ、明日山を下りろ」
初めて名を呼ばれたこと、出て行けと言われたことにタエは狼狽える。
「立ってみろ」
言われるがまま立ち上がると、足は痛みも無く治っていた。
「治るまでだ」
男の言葉にタエの胸は痛んだ。
「どうかそばに置いてください!何でもやります、どうか!」
自分でも何を言っているか分かっている。だが、タエは叫ばずにはいられなかった。男は至極迷惑そうな顔を浮かべると口を開く。
「足は治った。どこへなりとも行け」
男は少し、ほんの一瞬満足そうに笑ったように見えた。
それからは会話も無く夜を迎えた。
タエは涙が流れ、諦められず男の元へ向かった。床の脇に座って男に言う。
「どうか、どうか慰めてはくれませんか」
男は迷惑そうな声音でタエに言う。
「お前が立てるなら、それで生きるならば俺は願いを聞き入れよう。だが、ここに留まる為ならば殴りつけてもお前を追い出そう」
翌朝、タエが目を開ければそこには家など跡形もなく、朽ちた小さな祠の跡があるだけだった。そこから飛び出たご神体だろうか、腐って崩れた木箱にはくすんだ銀縁眼鏡が収められていた。嬉しそうに駆け寄りそれを抱き上げると、タエは力強く歩き出した。
怖くないものはホラーと認めないと小説家になろう様は定義した。ならば純文学の懐の広さに掛けるしかない!
というわけでどこにもいけない拙作は純文学の扉を叩き、玉砕するのです。
狭き門よオープンセサミ!
本当はホラーから怪談が独立してくれれば良いのですがね。ワガママですかね?