迷い人
歳のころ30くらいの女は土の臭いでむせ返るような森の中を歩いていた。着の身着のまま、こけた頬で髪は解けて汚らしい。夏の日差しで蒸された森では汗も乾かず、すえた様な臭いもする。
この女、病弱だった夫に先立たれ、忘れ形見の息子も合戦で不明。形見だと送り返されたのは焼け焦げた籠手と書きかけの手紙。息子が死んだのならと悲しむ暇も無く家を追われて、人を攫う鬼がいるというこの森にたどり着いた。
戦乱の世、年増の女が働くには村を離れて町へ行くしかない。その隣町に行くにはこの森を通るのが最短であった。安全な街道は山を迂回して大きな川の辺りを行く道であるから十日はかかる。路銀も備もありはしない女にその道は遠すぎた。険しく深い山道でもこちらを進むしかなかったのだ。
生きる意味など有りはしない。鬼でも出るなら早く出ろ
世の不条理を呪いながら女は沢に降りて水を飲む。我が子すら奪ったこの世に未練などは無かった。しかし、自ら後を追えば最愛の者らと同じ場所に行けない。そんな気がして歩みを進める。
楽では無かったが温かい日々。思い出しては涙を拭い、一歩一歩と山を上がる。
来た道もわからなくなるような鬱蒼とした森は十間先も見えず薄暗い。蛇のように曲がりくねった獣道は虫や動物の鳴き声でやかましく、気を張って歩くには長すぎた。
女は声を出す間も無く枯れた沢へ転がり落ちる。
女が痛みに目を覚ませばとっぷりと夜は更け、辺りは暗闇に包まれていた。女はぶるりと身を震わせて、薄気味の悪い鳴き声が木霊する枯れ沢から這い上がろうとする。視線を感じて歯がカチカチと鳴る。早く離れねばと痛む足を引きずり、手を動かす。
しかし足掻いても足掻いても痛めた体では沢から上がれず、女は仰向けになり天を仰いだ。鬱蒼とした森の中、ぽっかりと開いた空には真ん丸く赤い月が浮かんでいる。
カサリカサリと草木を揺らして何かが女を取り囲み、目を光らせて今や遅しと木陰やら、草の間から顔を覗かせる。赤剥けの犬のようなそれは人のようにくくくと笑った。
死を前にした恐怖とは裏腹に、女はこれで二人の元へ行けると驚くほど落ち着いた。せめて最後は武家の娘らしくと今は亡き実母のくれた櫛で以って髪を整えその時を待つ。
「女、俺の庭で死なれても困る」
低く、良く通る声で男が現れた。肝を潰した女はわぁと声をあげ、逃げようとした。だが足が利かずその場に転がる。振り向けば鈍く光る銀の眼鏡をかけた男がのっそりと立っている。眼鏡なぞ町医者のような金持ちしか持っていない高価な品。それにしては山人のようにみすぼらしい格好をしている。どこから現れたかわからない六尺五寸はありそうな筋骨隆々の大男はぼさぼさの頭を掻きながら言った。
「この沢を越えて崖沿いに下れば町に出る。さっさと行け」
面倒くさそうに一つあくびをすると男は踵を返して立ち去ろうとした。空が一瞬眩く光り、ずいぶん遅れて雷鳴が響いた。あたりはまだ明るく、月が照らしている。
「足を挫きまして……」
己から咄嗟に出た言葉に女ははたと目を逸らし口を噤む。死にたいのでは無かったのかと思い直り、男を身送ろうとしたのだ。しかし女の視界の端から急に男が消えて、足に温みを感じた。男は女の足の具合を見てさすったり曲げたりしている。そして痛みで顔を顰める女を無視する様に言った。
「少しの間面倒見てやる。だが、ここはまずい。雨が来る」
そう言って男は女を立たせておぶった。女は少し躊躇ったが、何処ともなく夫に似た男を疑うことができず為すがままに運ばれた。
「タエと申します」
力強く歩く男の背は広く、暖かい。揺れが足に響くがその体温が心地よく、強張っていた体が解けていくのを感じた。男は一言も発さず、沈黙に耐えかねてタエは名乗った。
「好きに呼べ」
ぶっきらぼうに男は応えた。だが、その素っ気無さがタエには不思議と信じるに値した。
「源七郎様と、お呼びしても?」
源七郎とはタエの夫の名だ。この男と背格好はまるで違う。だが、優しげな目が瓜二つであった。
「言ったろう?好きに呼べ。どうせ足が治るまでだ」
男の言葉を聞き終えるか否か、タエは気絶するように意識を失った。
二話で完結します
よろしければひと時のお供によろしくお願いします