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天気酒(てんきざけ)

作者: かやのそと

 ある晴れた日の会社帰りに、今日はどこで一杯やろうかと考えながら歩いていると、昨日まで空き地だったはずの一画に怪しげな店ができていた。最近はこれぐらいの建物なら一日で建ってしまうのだろうか。おれは、この得体のしれない雰囲気の店になにか不思議な魅力を感じて、引き寄せられるように入っていった。

 扉を開けると、薄暗い照明のカウンターの向こうにきちんとした身なりの店主らしき初老の男が立っていて、軽く頭を下げた。どうやら酒をそろえたバーのようだ。おれの他に客はいないらしい。できたばかりのくせにずいぶん古めかしい内装だが、こういう落ち着いた店なら、うまい酒を出してくれるに違いない。おれは期待に胸をふくらませてカウンターの席に座り、さっそく店主にきいた。

「何かおすすめの酒はあるかい?」

「もちろんございますよ。こちらをぜひお試しください。」

 店主は少し低い声で答え、一杯の橙色の酒を差し出した。

「見たことない色の酒だな。いったい何の酒なんだ?」

「これは当店自慢の天気酒でございます。天気を閉じ込めて熟成させたものです。本日は、その中でも上等な晴れ酒をお出ししております。」

 天気酒なんてものは聞いたことがない。天気を閉じ込めるとは、何かの比喩表現だろうか。それにしても、この晴れ酒とかいう橙色の液体は、見れば見るほどきらきらと美しく輝き、こちらを誘惑してくる。おれはゆっくりとグラスに口をつけた。

 一口飲むと、これまでに飲んだどんな酒よりもすばらしい味が口いっぱいに広がった。まるで気持ちのよい晴れた午後に日向ぼっこをしているような、暖かくて、どこか懐かしい、言葉では表現できない感覚で心が満たされていく。気がついたときには、すでにグラスの晴れ酒を飲みほしていた。

 その後、おれは心ゆくまで晴れ酒を堪能し、これ以上ないほどの満足感とともに店を後にした。

 あくる日から、おれに変化が起こった。見違えるように優しくて穏やかな性格になったのだ。心なしか体もぽかぽかしているような気がする。だれにでも丁寧に接するようになり、人間関係は良好。上司にも気に入られ、大きな仕事を任せられるようになった。これもあの酒のおかげなのだろうか。おれは戸惑いながらも、突然巡ってきた幸運に身を任せた。

 しかし、順調なのは最初の間だけだった。しばらくすると、外面がよくて裏表があるに違いない、優しいだけでろくに仕事はできないなどと、周囲でささやかれはじめたのだ。人間関係はうまくいかなくなり、仕事も行き詰まって、ストレスばかりが溜まっていく。天に三日の晴れなしとはこのことか。

 憂さ晴らしには酒と決まっている。また晴れ酒を飲もうと思い、あの店を訪れると、どういうわけか店があった場所はもとの空き地に戻っていた。もう辞めてしまったのだろうか。他の店で酒を飲んでみたが、晴れ酒の味を知ってしまったからか、ちっともうまくない。

 そうして、憂鬱な生活を送っていたある曇り空の日、おれはまたあの店に出会った。前と同じ空き地に、いままでずっとあったかのように平然と店がたっていた。うまい酒に飢えていたおれは、迷わず店に入った。

「晴れ酒をくれ。」

 おれは席につくかつかないかのうちに店主に注文した。

「申し訳ございません。あいにく晴れ酒は切らしております。本日はこちらの曇り酒という天気酒がおすすめでございます。」

 店主はそう言って、一杯の白濁色の酒を差し出した。晴れ酒が飲めないことに落胆しかけていたおれは、この酒をみた瞬間息をのんだ。見れば見るほどきらきらと美しく輝き、こちらを誘惑してくる。おれはゆっくりとグラスに口をつけた。

 一口飲むと、晴れ酒にも劣らないすばらしい味が口いっぱいに広がった。まるでわたの中で優しく抱かれているような、やわらかくて、どこか懐かしい、言葉では表現できない感覚で心が満たされていく。気がついたときには、すでにグラスの曇り酒を飲みほしていた。

 その後、おれは心ゆくまで曇り酒を堪能し、これ以上ないほどの満足感とともに店を後にした。

 まさかとは思ったが、あくる日からおれに変化が起こった。見違えるように肩の力が抜け、物事に柔軟に対応できるようになったのだ。心なしか体も軽くなった気がする。大きな仕事も重圧を感じることなくこなし、会話も軽快になって人間関係も問題なし。とうとう会社の重役に抜擢された。間違いなくあの酒のおかげだ。おれは喜びをかみしめた。

 しかし、やはり順調なのは最初の間だけだった。しばらくすると、言動が軽くて芯が通っていない、落ち着きがなくて重役には向かないなどと、周囲でささやかれはじめたのだ。人間関係はうまくいかなくなり、仕事も行き詰まって、ストレスばかりが溜まっていく。おれの人生も雲行きが怪しくなってきた。

 あの店はやはりもとの空き地にもどっていて、また現れるかどうかもわからない。ああ、早くうまい酒が飲みたい。

 そうして、憂鬱な生活を送っていたが、雨がしとしと降るある日のこと、同じ場所にまたあの店が現れた。おれは我慢できずに、勢いよく店に入った。

「今日はどんな天気酒がある?」

きっとあるに違いないという希望をこめて、店主にきいた。

「本日はこちらの雨酒などいかがでしょう。」

 店主はそう言って、一杯の瑠璃色の酒を差し出した。おれはうれしくなって酒を見つめた。見れば見るほどきらきらと美しく輝き、こちらを誘惑してくる。おれはゆっくりとグラスに口をつけた。

 一口飲むと、他の天気酒にも劣らないすばらしい味が口いっぱいに広がった。まるで澄みきった川のせせらぎにひたされているような、清らかで、どこか懐かしい、言葉では表現できない感覚で心が満たされていく。気がついたときには、すでにグラスの雨酒を飲みほしていた。

 その後、おれは心ゆくまで雨酒を堪能し、これ以上ないほどの満足感とともに店を後にした。

 予想通り、あくる日からおれに変化が起こった。見違えるように思考がなめらかになり、感情が豊かになったのだ。心なしか体もみずみずしくなった気がする。重役の仕事も流れるようにこなし、ときには上司や部下のために涙を流して心をつかんだ。人間関係は改善され、とうとう社長にまで上り詰めた。やはり、酒の力は偉大だ。おれは手に入れた栄華を楽しんだ。

 しかし、例によって順調なのは最初の間だけだった。しばらくすると、感情論ばかりで論理性にかける、口ではきれいごとを並べるがリーダーシップがなく、社長の器ではないなどと、周囲でささやかれはじめたのだ。人間関係はうまくいかなくなり、会社の運営も行き詰まって、ストレスばかりが溜まっていく。そうこうしているうちに、おれをよく思わない者たちによっておれは失脚させられ、もとの平社員に戻って肩身のせまい思いをしていた。誰にも相手にされず、涙の雨を降らせるだけの日々が続いた。

 あの店はあれから何か月も現れていない。もう天気酒を飲むことはできないのだろうか。

 諦めかけていたある雨の降りしきる日に、ようやくあの店が現れた。おれはすがるような気持ちで店に入った。

「何でもいいから天気酒をくれ。」

 俺は祈るように店主に頼んだ。

「本日は、以前もお召し上がりになった、雨酒のご用意ができております。」

 店主の言葉に一瞬迷ったが、おれは首を横に振った。

「雨酒はだめだ。ひどい目にあったのだ。その隣の酒にしてくれ。うまそうじゃないか。」

「しかし、こちらは少々癖がありまして…」

「かまうもんか。いいから早く飲ませてくれ。」

 とにかく他の天気酒が飲めればいいのだ。おれは、半ば強引に店主から受け取った黄金色にきらきらと美しく輝く酒を、一気に飲みほした。

 その瞬間、急に体中に衝撃が走り、目の前が真っ暗になった。

 気がつくと、おれは空き地に一人寝転がっていた。店は跡形もなく消え去り、おれの服は破れて上半身が露わになっている。しまった、あの酒は雷酒だったのだな。あの店はまた現れてくれるだろうか。

 おれの腹からは、へそがきれいになくなっていた。

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