訪問者達
2歳になる日和の息子海は、母親の膝の上に座ったまま、じっと夕雨季を見ていた。
テーブル出されたコーヒーの香りが心地よく、夕雨季はカップを手に取りそれを啜った。日和は、産後で体系がまだ戻らないと愚痴をこぼし、ふくよかな身体をリネン素材の白いワンピースで隠しているのだと話した。
「赤ちゃん、名前何て付けたの?」
揺りかごタイプのベビーベッドの上でぐっすりと眠っている、赤ちゃんの顔を覗き込み、夕雨季は聞いた。
「海莉。ほら、うちの旦那、波乗りするから海にちなんだ名前にしたかったんだよね。この子もだけど」
そう言って、日和は自分の膝の上に大人しく座っている海の頭を撫でた。
「ふふ。大人しいね? 前に会った時は、まだ赤ちゃんだったのに。海くん、元気いっぱいで引っ張りまわされる覚悟して来たんだけど」
「夕雨季が来たからかもね。普段は、そうよ。人見知りするんだよ。これから保育園や幼稚園とか思いやられるけど………」
苦笑いした日和に、夕雨季は母親の苦労が分からず、少し困った表情で笑んでいた。
「それにしても、御堂君にはあたし、がっかりだよ………。瑠羽は、“そういう女”だって分かってるけど、先輩の彼氏寝取るかって、他人事だけど腹立つもん」
「あれから、ずっと考えてたの」
「浮気の原因?」
「うん………」
夕雨季は小さくため息を吐くと、ゆっくりと視線を上げ、日和の顔を見た。
そうして、日和の柔らかそうな頬やつぶらな目、お団子鼻のどれもが、膝の上に座っている海がそっくりな顔をしているのだ。似ているなぁ………と思いながら、夕雨季は話した。
「あの頃、そろそろ結婚を意識するようになってて。航もそれは前向きに考えてくれてたの。ただ………」
夕雨季が言葉を止めると、日和のすぐ近くで眠っていた海莉が弱弱しく泣き出した。すると、ベットを小さく揺らしながら、動じることなく夕雨季の話に耳を傾けた。
「私は、結婚しても仕事は、続けていたくって。子供産んでも仕事して行く事も不安で、だからって、専業主婦とか私、向いてないと思うし………。だけど、航とは結婚したかったの。でも………航は、子供が欲しいって。それは、ゆっくり考えて行けばいいよって言ってたけど………そこで、躊躇していた自分が居たのかも知れない。だから、航も私じゃなくて、瑠羽を選んだのかもしれない………」
夕雨季は、コーヒーの入ったカップをじっと見つめた。暗い表情で落ち込んでいる夕雨季に、日和は言葉をかけた。
「なってみないと、分かんない事もあるよ。あれこれ考えて頭でっかちになっても、それはそれで、慎重でいいかも知れないけど。御堂君は、子供が出来てもちゃんと夕雨季を守ってくれそうだけどね」
「うん………。流れに委ねようとも思ったけど、自分自身の心のどこかで、それに抵抗している自分が居る事も、分かってたの」
「不思議よね。10年も付き合ってても、終わっちゃう恋人同士も居れば、たった半年で出会って結婚して子供二人もいる私もいる。人生、いつどこでどうなるか分かんないよ。それに、なんだっけ? 同じ名前の年下君とか、こないだの披露宴会場で出会った人とかは、どうなの?」
日和は笑みを見せ、興味津々で夕雨季に聞いてきた。
「もう、二人ともそんなんじゃないよ」
「だって、いきなり同居したり、食事に連れて行かれて、連絡先交換したり。モテ期なんじゃない?」
上目遣いで日和が見ていたが、夕雨季は呆れた顔をして横に首を振って見せた。
「佐伯君は、なんだろ………私に弟が居たら、あんな感じなのかなぁ? って思う。 男の子っては分かってるけど、そう言う意識はないよ。それに、あの強引な男! 自分勝手だし、ズケズケと言いたい事言ってくるし、連絡先交換したのも強引よ。ホント、サイアク」
「あはは。夕雨季のその“サイアク”が、すっごく力入ってる。その人、年上?」
「もー。からかわないでよ。年? うーん………多分ね40くらいかな? ルックスはスポーツマンみたいな爽やかな感じだったけど、中身よ! あれ、ホント無理!!」
「でも、電話かかってきたり、メッセージ来てるんでしょう?」
「来てるけど、無視してる」
「あー。かわいそう、その人」
「何、日和。あの男の肩持つ気?」
夕雨季は冷やかな目で、日和を見て言った。日和はニタリと笑んで夕雨季の視線を交わした。
「えー。だって、いいかも知れないよ? 運命の出会いなんて」
「だから、そんなんじゃないって! もー。海くん、お母さん何とかして」
夕雨季は、きょとんとしている海に言葉をかけると、海はくるりと顔を日和の腹に向け、がしっとしがみついていた。
「夕雨季ぃ。うちの子怖がらせないのねー」
「そんなことしてないでしょう。日和が、そんな事言うから」
「でも、返事はしてあげたら? 断るにしても。じゃないと、ちょっとかわいそうよ」
「うん………それは、そうだけど。返事して、更にヒートアップされるのも怖いかなと」
「やだ。夕雨季、自信あるじゃん?」
夕雨季の顔を見てニタニタとした笑みの日和に、夕雨季は小刻みに首を横に振った。
「そうじゃなくて、逆上されても嫌だなって。なんか、あの人自己中っぽいから」
「どうなるやらね。でも、何か進展あったら教えてね」
「もー。面白がってるでしょう?」
呆れた夕雨季に、日和は楽し気に笑んでいた。話しているうちに、時間がかなり経ち、夕飯の支度など始めるであろう日和に気を遣い、夕雨季はそろそろ帰ると言って、席を立った。
「旦那さんに、よろしくお伝えして」
「うん。もうそろそろ、波乗りから帰ってくるわ」
「今日は、楽しかった。ありがと。ばいばい、海くん」
玄関先で母親の足にしがみつきながら、夕雨季を見上げている海に手を振ると、小さな掌がひらひらと動いた。
「あ、嬉しい。海くん、ばいばいしてくれた。やっと、慣れてくれたかな?」
「ばいばい」
可愛らしい小さな声で、海が夕雨季にそう言った。そうして、夕雨季は日和の家を後にした。
日が暮れかけて、夜が始まろうとしている。まだ薄明るい群青色の背景と、日が暮れて暗く映し出された街並みがシルエットのようで、この時間の光景が夕雨季は好きだった。
駅前のコンビニで缶ビールと、果実のサワーを買い、袋を下げて歩く。
ほんの少し前なら、降りる事もなかった駅や街。
航以外の男と暮らしている日常が、今の自分の日常となって溶け込んでいる事に、ふと気が付いた夕雨季は、不思議な感覚に捕らわれていた。
航と暮らしていた日常は過去で、今こうして渉の居るマンションに当たり前のように戻って行く自分自身に、違和感がなかった。そうして、自分の呑むビールと、渉が飲めそうなお酒を買って、コンビニの袋を下げて歩いてるのだ。
渉の好意で部屋を借りているが、いつまでもそうしているわけにも行かない事は、分かっていた。一時的な居場所と心つもりしているが、また新たに環境を変えて一人で暮らしていく事が、夕雨季の気持ちの何処かで足を竦ませていた。
マンションに戻ると、玄関に女性のパンプスがお行儀よく並んでいた。
渉の客だろうかと、おずおずとリビングに入って行くと、キッチンから魚介系の料理の匂いが漂っていた。
「おかえりなさい。あ。初めましてね」
女性は、清楚な黒髪を後ろに束ね、ノースリーブの白いブラウスにロングスカートを履き、エプロン姿で夕雨季に挨拶をした。何処か、面影が誰かに似ているようだと夕雨季は思った。
「初めまして………。あの、あなたは?」
「私、渉の姉の歩美です。あなたは、凛ちゃんのお友達? それとも、渉のお友達?」
「あ、私は久住 夕雨季と言います。こちらで佐伯君にお部屋を貸していただいてる者です」
「そうなの? 凛ちゃんと3人になったのね? よかった、お夕飯、多めに作っておいて。皆で一緒に食べてね」
穏やかに笑んだ顔や、物静かに話す歩美が、渉に似ていると夕雨季は思った。
「あの………」
夕雨季が凛の事を切り出そうとした時、外出していた渉が帰宅してリビングに現れた。
「姉さん。来るならくるって、言ってよ」
キッチンで料理を作っている歩美に、渉は動じずに声をかけた。
「おかえり。渉、凛ちゃんも帰ってくる? お夕飯、アクアパッツアとラザニアなの。たくさん作ったのよ。それにこの間、いっくんに作ったら、美味しいって言ってくれたから、うまくできてると思うの」
物静かでクールな渉に比べると、どこか天真爛漫な雰囲気で、ふんわりとした印象の人だと夕雨季は思った。そうして、渉が表情を曇らせ凛が亡くなった事を話すと、柔和な表情を残したまま、哀し気な目をして歩美は料理に戻った。
「そうなの………。夕雨季さん、渉はね、凛ちゃんの事好きだったの。だけど、夕雨季さんが居てくれて良かった。この子、独りきりだったら、塞ぎこんじゃってたんだと思うから」
「余計な事、言わなくていいから」
鋭く冷たい言葉を渉は、淡々とした表情で歩美に言った。
「何しに来たの?」
渉の態度はいつになく冷やかだった。夕雨季は、買ってきた飲み物を冷蔵庫に入れると、洗面所に行き、手を洗うのに席を外した。姉弟の仲は良く分からないが、みずいらずにして居た方が良いのかもしれないと、夕雨季は気を遣っていた。
「お母さんも心配しているのよ。家に来ないから」
「偵察?」
「そんなんじゃないわ。ちゃんと食べているか、元気でいるのかって。だから、こうしてご飯作りに来てみたの。凛ちゃんの事は、残念だったね。素敵な人だったのに。私も好きだったな。とても、自由で元気で、キラキラした人だったわね」
リビングの扉越しに、ぼんやりと届く二人の会話が聞こえていた。夕雨季は、洗面所の鏡に映る自分の顔を見た。そうして、日和の家で話した自分の事を思い出した。航と結婚し、自分と航に似た子供が居る生活。
自分は、母親になるなんて考えもできなかった。しかし、航には近い将来、瑠羽との子供が生まれるのだろう。自分にはできなかった事を、航は瑠羽に求めたのだろうか………。
鏡に映る、草臥れた表情の自分の顔を見つめ、大きくため息を吐いた。
「夕雨季さん? こっち、来たら? 別に、気を遣わなくていいよ。もう、姉さん帰るから」
ぼうっと立っていた夕雨季は、渉に声をかけられ、はっと我に返った。
「あ、うん」
「元気ないね? どうかしたの?」
「ううん。なんでもないよ」
とっさに、ぎこちなく否定した夕雨季は、リビングを抜けて自分の部屋に鞄を置きに行った。
料理をオーブンにかけ、焼きあがれば出来上がると言ってエプロンを脱ぎ、歩美は一息つくのに、紅茶を入れた。
「夕雨季さんも、どうぞ」
ダージリンの香りに誘われ、夕雨季は部屋から姿を現してぺたんと座った。渉は既に、紅茶に口を付けていた。
「夕雨季さん、この子しっかりしているでしょう?」
歩美に聞かれ、夕雨季は渉の方を見たが渉は黙ったまま、会話を聞いているようだった。
「あ。はい………」
「私も母も、身体が弱くて。父はとても威厳のある人で。けど、私たちをちゃんと大事にしてくれていて。家の事は母にさせずに、家政婦雇ってました。男は家族を守るものだと、よく、渉にも言い聞かしていて。父は、財力があったので、家政婦さんにあれこれやらせてましたが、家政婦さんが休みの日は、渉に家の事、させてたんです。男の子なのに、家事、よくできる子でしょう?」
歩美に言われ、日常の事を思い返すと確かに、部屋も綺麗で洗濯物もきちんと定期的にしていたし、掃除も行き届いていた。そうして、大きく頷く夕雨季を見て、クスッと笑んだ。
「“財力ない奴は、自力でなんとかしろ。そうして、母さんや姉さんを、この家を守れ”って、ガキの頃に言われたの、今でも忘れない。俺、父親が嫌いなんだ」
渉は、夕雨季を見て話した。その目の奥に、何処かいつにない力強さがある事を、感じとっていた。
「父は、私には甘くて、渉にはとても厳しかったの。今でもそうだけど。けど、渉が家に寄り付かなくなって。渉、あれでも、お父さん心配しているのよ。母さんに言われてるけど、それは、お父さんが気にかけてるからって、渉もどこかで気が付いてたくれてたら、いいね」
歩美の声が渉に響いているのだろうかと、夕雨季は渉を見ていた。渉は、黙ったまま紅茶に口を付けていた。きっと、分かっているだろうと、夕雨季は思いたかった。
「そろそろ帰るね」
歩美が席を立ち、鞄から車のキーを手に取った。
「突然来るの、止めて欲しい」
「分かったわ。これからはちゃんと連絡するね。じゃぁ、夕雨季さん渉の事よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げて玄関で挨拶をする歩美に、夕雨季も頭を下げ、
「いえ、こちらがお世話になっているので。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
と、答えた。
歩美の作った料理は、どれも美味しかった。洒落て手の込んだ料理を作れる事を褒めたが、渉の反応は薄く、歩美が来て少しいつもと様子が違っていた。
「渉くん? どうかしたの?」
食器を洗っている渉に、夕雨季は声をかけた。すると、渉は手を止めてじっと夕雨季を見た。
「いや。急に、姉さんが来るから。あれこれ、余計な事話すし。それより、今、ふつーに、名前で呼んでくれた!」
渉に指摘され、思い返すと確かに名前で呼んでいた事を思い出した。
「お姉さんの話とか、渉君の名前呼んでたから、何となくつられたのかもしれないね」
「そう。じゃ、姉さんが来た事もまんざら悪い訳じゃなかった。夕雨季さんは、元気になったの? さっき、何となく様子が変だったけど」
渉の表情が解け、穏やかに笑んだ顔を見て夕雨季の気持ちが綻んだ。
「うん。元気になったよ。美味しい料理食べたし。ビールも飲んだし」
「それなら、よかった。俺も、甘いお酒ごちそうになったし」
顔を見合わせ、二人で笑い合った。航とは得られなかった、胸をくすぐるような感覚があって、夕雨季はそれが心地よく感じていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
友人の子の成長が早いなと、年賀状やSNSなどを通して感じます。
お話はまだまだ続きます。
どうぞよろしくお願いいたします。