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表面張力  作者: フジイ イツキ
8/18

思い出に住みつく住人

 飲みかけのカモミールティーを部屋のデスクの上に置き、夕雨季とのやりとりに胸の中が靄付いた渉は、部屋の鍵を手に取ると、外へ出かけた。

生ぬるい夜風が身体を撫で心地よさがあった。等間隔に並んでいる街灯を、辿るように歩いていた。

 渉は、夕雨季を責め立てるつもりはなかった。夕雨季に言いながら、渉は自分自身に言葉を置き換えていた。伝えたくても、聞きたくてももう、凛はいない。

二度と答えは返ってこない現実と、自分もいつか凛を忘れ、新たな女性を想う日がくるのだろうか………と。

しかし、今の渉にとって、それは考え難い事だった。

 等間隔だった街灯が途切れ、暗がりになった公園の石畳の坂道を下り歩いた。渉は、このまま夜の闇に姿を消してしまいたいくらいだった。できる事なら、凛との想いだけを抱えたまま、静かに闇に溶け込んでしまいたかった。

 公園のベンチの近くには、街灯の明かりが照らしていたが桜の木の葉が茂り明るさを覆ってしまい、それが渉にはちょうど良い間接照明のようだと思えた。

 ベンチに腰掛け、渉は自分の中にしまっていた凛との思い出の箱を開けると、心地良くそれでいて、微かに胸を締め付ける切なさを身体に感じた。

 凛は良く、本を読んでいた。文庫本の小説や専門書、絵本を読んでいた時もあった。それらは、全て、図書館から借りてきていた物だった。

「買って物を、増やしたくないの。それに、紙の古びた匂いが好きだから。静かだし。いろんな知識が詰まっているし。はしゃぎたい気持ちを抑えながら、大人しくしているの。そんな自分の気持ちのギャップも好き。それもあって、図書館は好き。子供の頃に、おじいちゃんの家にあった、百科事典を見るのが好きだった。自分の知らない得体の知らない何かが、ページを捲る度に現れる、あのドキドキ感。それに、芸術史の大きくて重い本があって、写真になっているんだけど、全部カラーで。能面がバーンとページを捲った時に現れた時には、あまりの怖さに、身が凍ったわ。写真だから、何も起きないのに、そこからお面がお化けみたいに現れて、襲い掛かってくるんじゃないかって、怖くなって。静かに本を置いて、猛ダッシュでおじいちゃんに、しがみつきに行ったわ」

 目尻に皺を作り、笑いながら凛は、渉に思い出話をしてくれた。その時も、図書館から借りてきた絵本を広げ読んでいた。凛がそれを読んでいる間、渉はテレビをぼんやり眺めるふりをして、凛を見ていた。

渉は、こうして凛と近すぎない距離感で顔を見ている時間がとても心地よく、好きだった。しばらくすると、凛の表情がどんどん曇り出した。哀しいストーリーなのだろうかと、ゆっくりとページを捲る手が止まり、凛は小さくため息を吐くと、涙をポロリと零した。

「凛………?」

 渉が、微かな声で呼んだ。凛は、絵本を閉じるとそれを渉に差し出した。

そうして、渉はそれを広げて読み始めた。

絵本と言っても、大人向けのようで、背景のグラデーションが、その時の天気や、主人公の気持ちを表すような薄い色使いと、簡単に描かれる場面のある主人公の女の子。文章の後に、絵が続く。

海の上で暮らしていた女の子がある日、通りすがりの男の子に恋をして、自分の暮らしていた場所から旅立、彼を追いかけていく。単純な内容の絵本だった。前向きになれそうな、そんな感じがしたが、凛は涙を流していた。

「私なら………そこで男の子と一緒に暮らしていたかった。行ってしまえば、戻れなくなるのに………」

 凛の言葉に、渉は凛の中で置き換えられた何かなのかと察したが、それ以上何か言う事はなく、凛の頭に手を軽く乗せ撫でながら、

「俺は、船酔いの絵がシュールで面白かったなぁ」

 と、言うと凛もぷっと吹き出して、涙を止めて小さく笑った。

「そうね。ゲーゲー吐いていたね」

「豪快だよね」

 凛の髪に触れ、渉は笑んだ凛の顔を見ながら、至福を身に沁みていた。凛との日常が増えていく度に、その小さな事の一つ一つが愛おしく大事に思え、自分の胸の中に宝物のようにしまっておいた。

 風呂上がりに、頭にタオルを巻いて出てくる凛。ショートの髪が少し伸びていた頃があり、凛はいつもそうして現れた。

「お母さん巻」

「え?」

 凛が、冷蔵庫からスポーツドリンクをコップに注ぎ、テレビを見ていた渉に声をかけた。「この間ある人の家で、こうしてタオルを巻いてお風呂からあがったら、その人に言われたの“お母さん巻”って。その人のお母さんが、お家でそうネーミングしたんだって。なんか、その言葉が私気に入っちゃって。言ってみたかったの。ふふ」

 渉は、凛がほのぼのと、その言葉に和んでいる姿の反面、この間のある人が引っかかり、

「そうなんだ」

 と、笑む事もなく視線をテレビに戻すと、凛と過ごしていた見知らぬ誰かに小さな嫉妬を抱いた。凛は、時々外泊をすることがある。仕事なのか、旅行なのかは全く分からない。男の影がある事は、なんとなく察していた。しかし、この部屋に凛が他人を連れてきた事は、なかった。

 

 夜の公園は人気があまりなく、時折ウォーキングをしている人達が通り過ぎる。静かで薄暗い公園のあちこちで、小さく鳴り響く虫の音をかき消すように、公園の近くで、電車が通過する音が時々聞こえていた。

 渉は、ふと凛が読んでいた絵本を思い出した。

ベンチに深く腰掛け、両足を曲げて身体に寄せ、身を丸めた。そうして、両膝の上に顔を突っ伏し、両腕で頭を包んだ。この世界のどこを探しても、もう凛に会う事は二度とない。だから、自分の世界に家を作り、そうして凛を想いながら満たされない気持ちを、満たしていると錯覚している、自分の中にある凛の思い出に住みつく住人なんだと思った。何もかも失くして、その小さなその世界に、暮らしていとさえ思えた。

 

 帰宅すると、夕雨季が昨日の自分のように、ローテーブルに顔を突っ伏して眠っていた。

いつも、凛が座る席に、夕雨季は座っていた。クッションは、凛との思い出を夕雨季との日常に置いておきたくなく、渉はこの間クッションを凛の部屋に二つとも片付けてしまった。

テーブルの上には、空いたティーカップと缶ビールが2本並んでいた。寝息を立てている夕雨季の顔をそっと覗き込むと、まつ毛が濡れ頬には涙の跡が渇いて残っていた。

 渉は、自分の言葉に傷ついたのだろうか、それとも今日の出来事を蒸し返し、元カレの事を思い出して泣いていたのだろうか。

少しだけ考えたが、渉は考えるのを止めてタオルケットを取りに、夕雨季の部屋の扉を開けた。凛の部屋に比べると、荷物があったが押し入れにスッキリしまい込み、部屋はがらんとしていた。そうして、押し入れからタオルケットを取り出すと、部屋の中で携帯電話のマナーモードのバイブ音が聞こえた。部屋の隅に充電されたスマートフォンが置いてあり、画面が光っていた。

ふと、それを覗き込むと、電話の着信に“小野崎 夏生”と表示され、渉は驚いた。見覚えのあるその名前を、夕雨季の身体にタオルケットをかけながら、今朝、凛の携帯に電話をかけてきた男だと思い出した。

「………ん」

 夕雨季の身体にタオルケットがかかると、夕雨季は閉じていた瞼をクシャリとしかめ、目を覚ました。

「私、寝ちゃってた………佐伯君、タオルケットありがとう」

 夕雨季の声は寝起きで、掠れていた。

「昨日、俺も掛けてもらった。ありがとう」

「ふふ。おあいこだ………」

 力なく笑った夕雨季は、ゆっくりと立ち上がると、ティーカップと空いた缶ビールをキッチンに運んだ。

「お風呂、入って寝るね」

「うん。あのさ、夕雨季さん………」

「ん?」

 夕雨季がキッチンからリビングに戻り、タオルケットを手に取り部屋に戻ろうとした時、渉に声をかけられ立ち止まった。

「………いや、いい。おやすみなさい」

「ん? おやすみなさい」

 夕雨季は小さく首をかしげたが、渉がそう言って部屋に戻って行き、夕雨季も言葉をかけて部屋に戻った。

 小野崎 夏生って? 渉は夕雨季に聞きたかったが、言葉を飲み込んだ。

部屋に戻ると、凛のスマートフォンを手に取った。

着信は今朝の小野崎の電話の後、何もなかった。他に、メッセージや写真が無いのだろうかと、小野崎の存在が気になり、渉はスマートフォンの中を探した。

メールは何かの登録用のメールマガジンで、個人的なものはなく、メッセージには、小野崎との短いやり取りが残っていた。

待ち合わせなのか、場所や日時が、定期的にポツリポツリと、長く途切れる事はないが、間は1カ月近くの感覚で空いていた。写真は全く無くて、凛は必要最低限に使っていたのだろうと、その扱いに凛らしさを、渉は感じていた。

 ベッドに寝転び、部屋の明かりが眩しく、左腕を額に乗せて光を遮った。そうして、いつの間にか、眠ってしまっていた。


お読みいただき、ありがとうございました。

作中に出てくる絵本は、自分が昔読んだ絵本をイメージしてみました。


お話はまだまだ続きます。

どうぞよろしくお願いいたします。

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