カモミールティー
夕雨季は、眉間に皺を寄せふくれっ面で眺めの良い窓の外を見ていた。見ていたくはなかったかが、テーブルに向かい合わせに座っている、強引な男と顔を合わせたくなかったからだ。ガーデンホテルからほど近い、都内の高層ビルの最上階からは、その高さを抜いて東京タワーが見えていた。
男は、一方的に話していた。ガーデンホテルに泊まる予定だったが、キャンセルに来た事を。
「おかげで、こんな美人さんに出会えるなんて、俺ってラッキーだよ」
男はずっと黒縁メガネの奥に見える目を細め、目尻を下げてにこやかだった。
「だからって、どうして私があなたに、ここへ連れてこられないといけないんですか」
静かで落ち着いた雰囲気のレストランで、夕雨季が目についたのは、案内されたテーブル席に『Reserved』の文字が書かれたゴールドの置物があった事だった。
「そうか、俺、名前行ってなかったですね。小野崎 夏生と言います。キミは?」
大人びた余裕のある態度と、突拍子もない自己紹介に夕雨季は面食らいながらも、おずおずと答えた。
「久住 夕雨季です」
「夕雨季さんか。俺ね、今日、ある人にサプライズしようと思っててさ、この店予約して、ガーデンホテル予約しておいたんだけど、チャラになっちゃってさ。けど、ここの料理は美味いんだよね。せっかくだから、誰かと一緒に食べようと思ってさ」
「だからって、見ず知らずの私を連れてくることは、どうかと思いますが」
「でも、夕雨季さんは来てくれた。さっきよりも化粧が似合っててキレイになりましたし。あのメイクのおねーさん、上手でしたね」
夕雨季は言葉を飲み込んだ。披露宴の会場には居づらかった。涙を堪え切れず出てきたものの、もう航と瑠羽の二人を見ている事は出来なかった。泣いてぐちゃぐちゃになった顔を、直してもらえた事も、正直言えば救われたとさえ思えた。しかし、小野崎の強引な態度には、混乱させらるばかりだった。
「小野崎さんは、普段からそんなに強引な方なんですか?」
「俺? どうだろ? そんなことはないと思うけど。割とマイペースかもね。ただ、強引にさせたのは、夕雨季さんと出会えたからかもね」
にこり笑みながら照れる事もなく、すらすらと小野崎の口から出た言葉に夕雨季は呆れてしまっていた。
テーブルにシャンパンが運ばれ、ウエイターがグラスにそれを注いだ。グラスの底から細いラインを描くように、気泡が揺れ動いて上がっていた。
「さ、乾杯しよう」
小野崎に合わせ、夕雨季はゆっくりとグラスを手に取った。そうして、グラスを軽く重ねると、高く細い音が小さく響いた。
口に含むとフルーティーで上品な香りと、さっぱりした甘みが口の中に広がった。
「美味しい………」
夕雨季がぽそりと口に出すと、小野崎は満面の笑みで夕雨季を見ていた。
「やっぱり、いいですね。美味しい酒に食事には、綺麗な人と一緒にするのが一番だ」
面食らうような言葉ばかり言われ、夕雨季は少し顔を赤らめてしまっていた。見たところ、40代くらいだろうか。ノーネクタイのスーツ姿で痩せすぎてもなく程よい体格で、日焼けした肌に茶色の短い髪が爽やかな印象だった。二重の形のいい目だなと思っていると、小野崎と目が合ってしまい、あからさまにさっと視線をそらしてしまった。
「はは。露骨だなぁ。そう言えば、夕雨季さんはさっき、どうして泣いていたの?」
「そう言う事、普通聞きます? 気を遣っていただけないんですか?」
反発した夕雨季に、小野崎は怯みもせずに、にこりとしたまま、夕雨季を見ていた。
「そうだね。俺が気になるから。どうしてかなって」
小野崎の笑みが、楽し気な印象を感じていた夕雨季は、反対に不快感で胸の中がむかむかしていた。どうして、こんな人に身の上話をしないといけないのだろうかと、腹立つ気持ちを落ち着かせるように、一口シャンパンを飲み込んだ。
一呼吸置いた夕雨季は、話を待ち構えている小野崎と顔を合わせた。そうして、夕雨季はヤケになって航との事を小野崎に話した。話を聞いている間、小野崎は表情豊かに驚いたり哀し気に目を細めたり、うんうんと頷く仕草をしていた。話を、聞いてくれる人なのだと夕雨季は小野崎に気を緩めかけた。
話を聞き終わる頃には、前菜が運ばれそれを口にしながら、小野崎はアスパラとフォアグラのテリーヌを飲み込むと、ナイフとフォークを置いて膝の上に乗せたナプキンで口を拭った。
「夕雨季さんは、自分が被害者だって思ってる?」
「え?」
小野崎の言葉に、夕雨季は緩めた気持ちを再び引き締めた。そうして、口火を切った小野崎の目は真っ直ぐ夕雨季を見て捉えていた。
「あの………だって、私の知らない間に浮気されてたんです。ずっと、何もないって思ってたし。しかも、後輩が男好きなのは、彼も知ってた事だし」
「その彼が浮気した理由は、彼にしか分からないけど。夕雨季さんに対して何かを感じたから、浮ついてその子の方に走ったのかもね?」
小野崎の言葉が、夕雨季の胸にチクリとした痛みで刺していた。そうして、少し夕雨季は黙っていたが、表情を曇らせ小さく息を吸い込んで口を開いた。
「私にも理由があるって、言いたいんですか?」
「そうかもね。行きずりで終わってもなく、長く続いていたなら、夕雨季さんにはない何かが、その彼にとっては、必要だったのかもね? 話してくれて、ありがとう。料理、美味いから話題変えて楽しもう」
小野崎はほうれい線に皺を作り、にこりと笑んでそう言ったが、夕雨季は小野崎の言葉に捕らわれたまま、浮かない表情をしていた。
「じゃぁ、俺が何か楽しい話をしよう」
それからの事を、夕雨季はあまり覚えていなかった。小野崎はべらべらと終始喋っていたが、それは店内に流れるBGMのようで、気に留める事はなかった。
運ばれてくるコース料理に口を付けても、さっぱり味が分からず口に入れては咀嚼してそれをコクンと飲み込む、今、この場でしなくてはいけない作業なのだと、夕雨季はそれに徹する事にしていた。料理が終われば、この場から去ってもう二度と、小野崎と会う事も無くなる。マンションに帰って、渉に話を聞いてもらおう。
今日のこの様々な出来事を、そうして目の前にいる強引でマイペースな男についての愚痴を聞いてもらいたい一心だった。
帰り際、小野崎が連絡先を交換したいと、しつこく迫られ仕方なしにそれを受け入れた。どうせ、連絡が来ても無視してしまおう、そう思うくらい夕雨季は今回限りで小野崎との関わりを断ち切りたかった。
披露宴会場のホテルからは連絡がなく、夕雨季はパーティー装飾一式をレンタルしていた髪に飾った花飾りが、ホテルでも見つからないのだろうと、途方に暮れていた。帰り道、湿度の高く生温い夜風に当たりながら、マンションに向かった。
エレベーターの蛍光灯に蛾が一匹入り込み、小さな羽音が聞こえていた。
部屋のドアを開けると、明かりがついていた。渉の革靴がお行儀よく揃えてあったのを見つけると、夕雨季は廊下のドアのガラスを覗き込み、渉がリビングに居ない事を確認すると、渉の部屋のドアの前に立ってノックをした。
「佐伯君、居る?」
夕雨季が尋ねると、部屋から渉が返事をした。そうして、渉が話を聞いてくれると分かると、夕雨季はほっとしていた。すると、部屋の扉が開き渉が、夕雨季が失くした花飾りを差し出した。それを受け取り、安堵の思いで部屋に戻りパーティー用のドレスを脱いだ。まとめた髪を解くと、整髪料の香りと汗が混ざり合った匂いが鼻に付いた。
部屋着に着替え、化粧をクレンジング付きのシートで落としながらふと、小野崎の顔とさっきのディナーの出来事が過り、化粧を落とす手に力が入ってしまいゴシゴシと顔をシートで擦っていた。
部屋を出ると、リビングにカモミールの香りが漂っていた。
「いい香り………」
「カモミールティー、入れてみたよ」
テーブル置かれたガラスのティーカップに、カモミールティーが注がれていた。夕雨季は、吸い寄せられるように、席にストンと座るとカップを手にして息を吹きかけると、ゆっくりと少しずつカモミールティーを啜った。
その香りと暖かい液体が身体に流れ沁み込むように、夕雨季の気持ちを癒した。小さな吐息をつくと、顔を上げて渉を見た。渉は、目を伏せたまま、ゆっくりとカモミールティーを口にしていた。
「今日ね………」
弱弱し声で夕雨季はゆっくりと話し出すと、渉は
「うん」
と、相槌を打って視線を上げて夕雨季を見た。
「彼と後輩に披露宴で会ったんだけど、やっぱりね………辛かった。どうして、航は、あの子を選んだんだろうって。最初は、どうして、どうして………って自分の中にある航の気持ちが、どんどん溢れてたんだけど………隣に座ってる瑠羽が、堂々とした態度で“今は、私のモノなのよ”って、見せつけられるようで………私、ダメだった。もう、航は取り戻せなくって、私の居場所はもう、航の隣にはないんだって………哀しくなった………」
夕雨季は、話しながら涙をボロボロと流し、鼻をすすっていた。渉は、だまったまま、夕雨季の話に耳を傾けながら、時々、ティーカップに口をつけ、長いまつ毛を重ね目を伏せた。
夕雨季は頭の中で、披露宴での二人を思い出していた。航の気持ちから放り出されてしまい、瑠羽が隣になった疎外感と、胸の中に残っている行き場のない航への愛情を抱えたまま、亡霊のように浮遊しているようだった。
「そのあとで、人から“自分にも浮気される原因があったんじゃない”かって、言われて………」
夕雨季は、小野崎の顔が一瞬過ったがそれを頭の中で振りほどくように、店から出た後からずっと考えていた“原因”を頭の中に解き放った。
けれど、考えてもヒットする原因が頭の中で引っかかることがない。
些細な喧嘩をした後でも、翌日には普通に会話をしていた。身体を重ねる事も、航から求められることもあった。休みの日には、一緒に過ごすことも変わらなかった。
仕事の帰りが遅かったのは、仕事なのだろうと思っていたが、今となっては定かではなないと夕雨季は思っていた。
「けど………よく分からない。私の何がいけなかったんだろう………」
「分からないなら、その人に聞けばいいよ。だって、事を起こした張本人なんだから。でも………」
夕雨季が渉の言葉に驚き、顔を見ると渉は真っ直ぐに夕雨季を見ていた。
淡々とした表情と冷やかな温度を感じるその眼差しが、夕雨季の胸を微かに締め付けた。
「原因がわかった所で、例え夕雨季さんに落ち度があったとして、それを直してまた、その人とよりを戻そうと思うの?」
夕雨季は、渉の言葉に心が揺らいでいた。瑠羽の元から戻ってきてくれるのなら、また、二人で一緒に暮らせるのならと、ついこの間まで過ごしていた穏やかな日常を懐かしく思っていた。
「相手は、一度は夕雨季さんの後輩と寝て、子供までいるその人と、前のような変わらない気持ちで、もしくは、その事も受け止めた上で、更にその人を想って暮らして行く事ができる?」
「どうして、そんなに問い詰めるの?………私はただ、どうして航が浮気したのか、それが私に何かいけないところがあったのか、それが何かって、そう思っただけなのに………」
「ごめん………。言い過ぎた。けどね、夕雨季さん」
渉は椅子を引き立ち上がると、夕雨季の傍に立った。カモミールの香りと混ざった、石鹸の香りがうっすらと、夕雨季の鼻に漂った。
「原因を突き詰めても、その人は、もう、心変わりして別の人の元に居る。それが現実。原因が何であれ、夕雨季さんは、夕雨季さんのままで、俺はいいと思う。女の人も、心変わりが割と潔さそうだから、夕雨季さんもまた、誰か目の前に現れて人を好きになるのかもね。おやすみなさい」
渉は、半分残ったカモミールティーの入ったカップを手に取ると、部屋に戻って行った。
パタンと、リビングの扉が閉まる音と共に、夕雨季の中でふっと感情の糸が切れ、声を殺して号泣した。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになっていた。小野崎の言葉、今日の披露宴での二人の姿、渉は最後にああ言ったが、責め立てられたような言葉ばかりが強調して残ってしまい、酷く哀しかった。
それと混同しながら、航の優しい一面、一緒に過ごした幸せな日々が頭の中に浮かんでは、胸を締め付けた。
心の奥底で、まだ、航を想っている自分がいる事も、手を伸ばして再び航の手を掴めたらと思う気持ちも、渉の言うように今、この現実を考えればもう、どうしようもない事なのだと、気持ちを反芻させながら、ざあざあと降り続く雨のように、泣き続けた。
お読みいただき、ありがとうございました。
コーヒー派の自分ですが、時折口にするハーブティーは、気持ちをほっとさせてくれます。
お話は、まだまだ続きます。
どうぞよろしくお願いいたします。