過去の男
遠くで聞こえる蜩の鳴き声。夕暮れのオレンジ色をした光が、家の廊下に薄暗く輝き、がらんとした静かな家の中に、それが渉に寂しさを引き立てていた。
渉は、これが夢の中だと気が付いた。ここは渉の実家で、しかも幼少の頃の自分の世界観を見ているのだと言う事も。家族4人で暮らした戸建は、祖父の代から住んで居る建物で、床や柱には傷が蓄積されていたが、綺麗好きな父がいつも、家政婦に拭き掃除をさせていたおかげで、艶やかな状態を保っていた。
ベランダに向かうと、洗濯物が干しっぱなしになっていた。バスタオルや家族の服が、オレンジ色の夕日に染まり、生温い風になびいていた。土日は、家政婦が休みを取っていたため、家事は母親が全て、渉に託し、両親は姉と出かけたり、両親だけで出かけたりと、渉はこの家の中で、休日を一人で過ごす時間が多かった。
洗濯物を取り込みたたむのは、渉の役目だった。取り込んだ洗濯物は、夏の日差しで干からびて、ごわごわしていた。ハンガーや洗濯バサミからそれらを手に取ると、天日干しした匂いが鼻についた。渉は、この匂いが嫌いだった。取り残されたような、寂しさを思い出させる匂いに、夢だと分かっていても、胸が苦しくなって涙が零れ落ちた。
目が覚めると、リビングのテーブルに顔を突っ伏して寝ていたようで、テーブルには涙で小さな水がたまり、頬が濡れていた。肩にかけられたタオルケットは、夕雨季が掛けてくれたのだろう。
時計に目を移すと、朝の7時を回っていた。遮光カーテンの隙間から、日の光が床に細い線を映していた。リビングの隣の部屋の夕雨季はまだ寝ているようで、渉は静かにその場を離れ、出かける支度をした。
ワイシャツに袖を通し、クローゼットからネクタイに手を伸ばすと、汗ばむ室内の気温にこれから襟元を閉めて外へ出る事に、気が引けた。しかし、会社の開発商品の発表会の為に、渉は渋々ネクタイを締めた。
身支度を整えていると、スマートフォンのバイブ音が響いた。自分のを確認した後、画面が何も表示されていない事から、凛の物を手に取った。
“夏生”と表示されている着信に、渉は見知らぬ相手の電話を取る事に、抵抗感があったが、凛の父親の頼みを思い出し、仕方なしに電話に出た。
「はい」
「………凛の番号では、ないですか?」
電話をかけてきた夏生と言う男は、渉の声に驚き尋ねた。
「そうですが、彼女は先週亡くなりました」
「え………?」
夏生はそれを聞いてショックだったのか、長い沈黙が通話中に経過していた。渉は、静かに相手の言葉を待っていた。
「それ、本当なんですよね?」
「はい。先週、心筋梗塞で倒れてそのまま搬送先の病院で、亡くなりました。携帯は、凛のお父さんからの希望で、しばらく預からせていただいてます」
「その………君は?」
「同居人です」
「あぁ。“渉くん”だね?」
夏生に名前を呼ばれ、渉は驚いた。
「そうですが………凛とそちらは………」
会話をしながら、渉の胸の中に暗雲が広がるような、不安を感じていた。
「小野崎 夏生と言います。凛とは古い友人………と言いましょうか。今日、凛の誕生日だったので、連絡してみたんです」
「誕生日?」
渉の反応に、夏生がすぐ言葉を投げかけた。
「一緒に暮らしていて、凛の誕生日も知らなかった?」
夏生の言葉は、不意を打たれた渉の胸に突き刺ささり、鈍い胸の痛みと張り付くような不快な感覚が残った。
実際、渉は凛の事を詳しくは知らなかった。年齢は知っていたが、誕生日を話したり、祝う事など互いになかった。返す言葉もなく、渉が黙っていると夏生が、
「それじゃ」
と、一言そう言うと、電話を切った。
後味の悪い映画を観終わったような、胸の中がスッキリしないもやついた気持ちが残り、渉の中に夏生と言う男の存在が、一緒に居座っていた。
ガーデンホテルに着くと、既に同僚の相原と新井が来ていた。他にも式やイベントが催されるようで、人が多く賑やかだった。
「おはよう、佐伯君。さ、新井君も一緒にこれ、主任からの配布資料」
相原は渉と新井に束ねられた資料を手渡し、タイムテーブルや今日の役割について説明した。
渉と新井は大学からの同期で、同じ会社で同じ光学研究に携わっていた。同僚であり先輩の相原は、チームの中では唯一の女性で、渉と新井の指導役でもあった。
「16時から、上の階の会場で立食パーティーだって! 他のクライエントの人達と、仲良くなれるチャンスありだわ」
配布資料をめくり、タイムテーブルを目で追っていた相原は、ノースリーブのブラウスから伸びた細く白い腕でガッツボーズを作り、気合を入れるかのように、両手を握りしめていた。
「婚活パーティーじゃないですよ、相原さん」
「あら、新井君だって素敵な出会いあるかもよー。佐伯君もっ! 二人とも女っ気ないんだから。こういう時に、出会いがあるかも知れないじゃん!」
「前向きだね。俺は、いいよ。そう言うのすごく苦手だし。相原さんは、27歳だし、そろそろ結婚適齢期だから、頑張ってください」
「もーっ! どうせもうアラサーよっ! 佐伯君って、いっつもそう。ガッツがなくって、淡々として。ホント草食系よね?」
「じゃぁ、相原さんは肉食系?」
渉がテンションを変えずそう言うと、相原の姿を頭から足のつま先まで、視線を移動して眺めた。黒いセミロングのストレートの髪、黒縁メガネをかけ、ジャケットは脱いでいたが、グレーのパンツスーツ姿の華奢な体格だが、ふくよかな胸が印象強く渉には残った。
「………見た目じゃ、分かんないか」
「今、ぽそっと何か言ったでしょう!? それに、私肉食じゃないわよっ!!」
「まぁまぁ。相原さん、落ち着いて下さいって」
「ちょっと、佐伯君っ! どこ行くのよっ!」
「タバコ。吸ってきます」
掌をひらりと上げ、新井に相原を任せ、渉は喫煙所に向かって歩き出した。
披露宴も催されているようで、華やかな衣装の女性の姿を見かけた。
「あれ………?」
渉の目の前を、夕雨季が走り通り過ぎていた事に、目を疑った。けれど、間違いなく夕雨季が走って行った。瞬時にしか顔が見えなかったが、曇った表情をしていた印象だった。
「あっ! 夕雨季さ………」
走っていた振動のせいか、髪に付けていた花飾りが取れてしまい、絨毯の上に落ちた。渉は急いで拾い、手に取った。ピンクのバラの花に、艶やかな夕雨季が来ていたドレスと同じ、深緑色の葉が付いていた。
そうして、夕雨季を呼び止めようとしたが、夕雨季がその先で人とぶつかり転んでしまい、声をかけるタイミングを逃してしまっていた。
夕雨季がぶつかった男が、ハンカチで夕雨季の涙を拭っていた。けじめをつけると言っていたが、辛い戦いになったのではないだろうかと、渉は夕雨季が昨日話してくれた事を思い出し、この光景を見て察していた。そう考えている間に、ぶつかった男が夕雨季を起こし、一緒に何処かへ行ってしまった。
夕雨季を見失ってしまい、仕方なく花を持ったまま帰ったら夕雨季に渡そうと、渉は喫煙所に向かった。
喫煙所には、数名の男女が居た。どうやら同じグループのようで、彼らの輪の隅の方で航は煙草に火をつけ、煙を吸い込んだ。
「しっかし、やるよなぁ。溝上って、サークルの男、ほとんど食ってたぜ」
「瑠羽の男好きは、今に始まった話じゃないけど、とうとう、御堂さんにまでねぇ」
「あぁ。俺、夕雨季先輩の事、見てられなかった」
「俺も。溝上の腹の中に御堂先輩の子供いるらしいし。責任とるらしいぜ」
「えーっ!? なにそれっ! 略奪もいい所よねっ! 久住さん、かわいそすぎる………」
聞きたくはなかったが、すぐ近くで会話をしている彼らの話が、どうやら夕雨季の事だと察した。煙草の味がさっぱり分からない程、気持ちが彼らの話に傾いてしまい、途中まで吸っていたそれをもみ消すと、喫煙所を出て行った。
喫煙所での彼らの話を思い返し、渉は夕雨季が酷く辛い思いで、彼らと顔を合わせたのだろう。だから、夕雨季はあんな顔をして、走って行ったんだと、渉は思った。今、どうしているのか、さっきの男は一体誰なのか、マンションに帰って来たら、どんなふうに接すればいいのか、渉の頭の中が混乱していた。
夕雨季の付けていた花飾りを自分の鞄の中に、潰れないようにそっとしまった。
発表会では、渉達の光学研究開発チームが作成した対物レンズについて、クライエントや大勢の参加者が会場を埋め尽くしていた。
壇上では、45歳で最年長のチームリーダーをしている朝野が、これまで作り上げた製品について、説明していた。
試行錯誤の中、研究を重ねた成果をどれだけの人達が受け入れてくれるのだろうかと、渉は作り上げた達成感と共に、周りの反応が気になっていた。発表が終わり、トイレから戻ってくると、廊下で相原が渉の元に駆け寄って来た。
「おっそい! 佐伯君っ! 挨拶に来て!」
相原に手を引かれ、渉はクライエントの人達と挨拶をし、名刺交換をしていた。慣れない交流に、面食らいながらも今回の研究の事について、感心する言葉をもらい、渉は照れくさそうに感謝の言葉を返していた。
「こんな、若い人達が開発しているんだね。最先端でハイスペックな物が出来ましたね。光学性も高く、作動距離も長く取れると言う物が出来ると、研究者側には、顕微鏡を使ったより良い研究ができるでしょう。ありがとう。これからも、頑張ってくださいね!」
50代くらいだろうか、一人の男性に握手をしながら声をかけてくれた。名刺に視線を落とすと、大学教授だと分かった。
「ありがとうございます」
渉は深く頭を下げた。自分達の作り上げた物が、認められ受け入れられているその言葉の一つ一つに、喜びを感じていた。
「あ! あの人っ! 佐伯君。あの人、知ってる?」
相原が近づき、肘で渉の身体を突くと耳打ちした。相原の指す相手に視線を当てると、背の高いがっしりとした体格の男性が、他の人と会話をしていた。筋の通った高い鼻と、堀の深い顔立ちで、落ち着きのある印象だった。
「知らない。誰?」
「御堂さん。取引先の開発部の部長さん。前、うちの研究部に営業で来た事あるわよ。覚えていない? いいなぁ。かっこいいなぁ」
相原の言葉に、渉は意識が傾いた。そうして、その男の姿をしっかりと目におさめていると、後ろから“わたる”と、名前を呼ばれ、渉は振り向いた。
「航っ! そろそろ、詩織ちゃんの二次会行かないと」
立食パーティーにしては、少し華やかなピンクのドレスに、頭に小さな花をちりばめた、可愛らしい雰囲気の女性が、渉の向こう側に立っていた航を呼んでいた。一瞬、女性と目が合ったが、気にも留めずに渉の前を通り過ぎると、航の方へ駆け寄っていた。
「あー………なにあれ? 彼女かしら? いや、妻かしら。ショックー」
相原が肩を落とし、羨ましそうな目で会場を去っていく二人を見ていた。その隣で渉は、さっき喫煙所で聞いた話が頭の中を過る中、彼らが、夕雨季の痛みの根源だと気が付いた。
渉には、目の前の二人はどこにでもいるような、恋人同士のように映っていた。その彼らが、夕雨季にとっては辛く、苦しい想いをしている対象なのだと思った。自分にはどうする事もできない。ただただ、夕雨季の辛さを思うと、彼らから視線を逸らしてしまっていた。
立食パーティーの後の打ち上げに、途中まで顔を出すと、頃合いを見て渉は帰って来た。酒が入った相原や、他の同僚たちに絡まれるのが嫌だった。相原に引き留められたが、それを振り切り、渉は部屋に戻って来た時には、夕雨季はまだ居なかった。
堅苦しいネクタイやワイシャツを、脱ぎ捨てると汗ばんだ身体を流そうと、風呂に入った。賑わった時間から抜け、一人ゆっくりと静まり返った空間で湯船につかりながら、湿度の高い空気を吸い込み、息を吐く。両手で浴槽の湯をくみ取ると、顔に付けてもう一度息を吐いた。吐いても吐いても、なぜか今朝からずっと、夏生の存在が引っかかり、胸の中から吐ききれずにいた。
風呂から上がってもまだ、夕雨季は帰宅していなかった。
渉は、一人で今日の発表会の祝杯をした。ワイングラスに氷を入れ、シードルを注ぐと発砲の小さな気泡がはじけていた。しばらくそれを放置し、氷が解けかけアルコールが薄まった頃合いを見て、渉はごくりとそれに口を付けて飲み込んだ。リンゴの爽やかな香りと氷で薄まった甘い味がした。アルコール臭と微かな熱が鼻腔に後から感じていた。
ワイングラスを眺めながら、渉は凛との事を思い出していた。アルコールの弱い渉に、凛は一緒に白ワインを飲もうと誘い、グラスに注いだが少し口を付けただけで、身体がカーッと熱くなっていた。それを見た凛は、渉のグラスに数個の氷をグラスに入れてくれた。
「少し、解けたら薄まるから、そうしたら飲みやすくなるかもね」
と、言いながら普段はそのまま飲む凛も、一緒になって氷を入れていた。グラスを持ち、凛はいつもフットプレートの縁に小指を添えて飲む。その仕草が、渉は色っぽく見えた。
「キレイ………」
「ん? なに?」
渉が凛の視線の先を見ると、グラスの水滴を見ているようだった。氷がすっかり解け、わずかにワインが残ったグラスの表面に、水滴が付いてるのを見ているようだった。
「ほら。部屋の明かりに反射して、水滴がキラキラしてる」
凛に言われ、渉はそれをまじまじと見た。水滴とワインが残ったグラスに部屋の蛍光灯の光が反射し、七色の光を小さく映し出していた。渉にとっては、光の屈折によるものだと、ただそう思っていたが、凛はそれをうっとりと見とれるくらいの価値観を抱いていた。
「ダイヤモンドとか、キラキラしたイミテーションより、こういう自然と偶然にできた物が、私はキレイだと思う」
凛はあどけない明るい表情で瞳を輝かせ、しばらくそれを見つめていた。渉はグラスではなく、凛の顔を見て愛おしい気持ちに胸が膨らみ、目を細めて微かに笑んでいた。
日常の些細な出来事だったが、とても穏やかで静かな時間だった。それでいて、渉にはとても居心地がいいひと時だった事を思い出していた。
シードルを飲みながら、渉は凛が気に入った光の屈折ができるのを待っていた。そうして、できた小さな七色の光を見ても、それを見てくれる凛が居ない事に虚しさだけが募ると、小さくため息を吐きだした。
部屋に戻り、机の引き出しにしまっておいた、凛の残したアルバムを手に取った。
壁に背を持たれ、ベッドに座るとアルバムを再び開いた。
男のとても自然体な写真と、どの写真も楽し気に何かをしている。海で、テトラポットに乗った男の写真は、ジャングルジムの天辺まで登った、子供のような無邪気な印象があった。
ページをめくりながら、もしかすると、今朝の電話をかけてきた夏生は、この男なのではないだろうか? と、数少ない情報から考え込んでいた。
微かに物音が聞こえ、夕雨季が帰宅したのだろうと、渉はすぐに分かった。日中の出来事を思い返し、夕雨季はどんな様子なのだろうか、どう言葉をかけてやればいいのか、渉は戸惑ってしまい、部屋からすぐに出られずにいた。しかし、ホテルで拾った花飾りを返そうと、動き出そうとした時だった。
部屋のドアをノックする音が聞こえると、夕雨季が声をかけてきた。
「佐伯君、居る?」
「うん。おかえりなさい」
「ただいま………お願いがあるの。この間佐伯君が言ってた、私の“ねぇ、聞いてよ、もう”聞いてくれる?」
夕雨季の“ねぇ、聞いてよ、もう”には勢いがなく、その声はドア越しだったが弱弱しく、潤んでいるような印象だった。酷く落ち込んでいるのではないかと、渉は思っていた。アルバムを閉じて引き出しにしまうと、部屋のドアを開けた。
「いいですよ」
と、声をかけた渉の目の前には、酷く疲れ気落ちした様子の中、微かに笑んだ表情が痛々しいと感じた。
「今、リビング行きます。あ、そうだ。夕雨季さん、これ」
渉は、仕事用の鞄の中から夕雨季が落とした花飾りを取り出し、少し押しつぶされてしまい形を整え、それを夕雨季に差し出した。
「うそ………どうしてこれを、佐伯君が持ってるの?」
驚いた夕雨季に、渉は仕事で同じホテルに行っていた事を話した。そうして、夕雨季を廊下で見かけ、落ちた直後にそれを拾ったが、見失ってしまったと、ぶつかった男の事までは口に出さないでいた。
「そうだったの。ありがとう。良かった。ホテルから何も連絡ないし、もう、弁償しないとかなって思ってたの」
夕雨季は笑む力も弱弱しく、微かに顔を綻ばせていた。
「着替えたら、お話聞いてくれる?」
「うん」
渉は夕雨季の酷く草臥れた後姿を目で送り、直ぐにリビングに行った。
お読みいただき、ありがとうございました。
今回のサブタイトルは、前回、投稿した時と変えてます。
まだまだお話は続きます。どうぞよろしくお願いいたします。