ハリノムシロ
週明けから夕雨季は、怒涛のような仕事の波にのまれた。女性社員だけで運営している、雑貨のネット販売会社で、企画から広報、商品の発注まで掛け持ちしていた。もともと、少人数の会社と言う事もあり、経理以外は他の業務を社員が掛け持ちしながらの、仕事だった。
webデザイナーとの打ち合わせ、アクセサリーのハンドメイド作家との取引や、梱包作業後の発注などで、連日残業していた。
そのおかげで、航との事を思い出し落ち込む暇はなかったが、時折、ふと息抜きをしていると、隙間を縫って頭の中に入り込み、ため息と食欲を奪って行った。
金曜の昼間に日和からのメッセージを見て、夕雨季は愕然とした。
『明日、ガーデンホテルのロビーで14時に待ってるね。一緒に居るから、大丈夫よ』
招待状が届いたのは、3か月前の事だった。大学時代の後輩が結婚すると、招待状に出席のサインをして返信した。日和とは同じ大学で、後輩も共通だった。そうして、航や瑠羽とも共通している人物だと気が付いた夕雨季は、披露宴で二人に会うであろう事を察し、デスクに顔を突っ伏すと、その場で無駄な抵抗感を胸いっぱいに膨らませ、その反動で胸にムカついた感覚がこみあげてきては、吐き気を抑え苦しくなっていた。
まるで、処刑台に向かうようなこの上ない絶望感に立たされている。そう思えた夕雨季は、これまでがむしゃらに仕事していたエネルギーが急激に途絶え、ほんの少しでも気を緩めてしまうものならば、目から涙が溢れ出そうで、それを必死に堪えながらパソコンのキーボードをカタカタ打ち込んではミスが出て、バックスペースを力なく連打していた。そうして、ため息を吐き出す、悪循環な流れがループされていた。
後輩を祝福するためなのだがその反面、航と瑠羽の関係を目の当たりにするために、着飾り祝福の気持ちを持参して出向かないと行けないのだと思うと、仕事帰りにレンタルして来たパーティードレスを持った自分が馬鹿らしく、虚しさで酷く気持ちが草臥れてしまっていた。
「ただいま………」
渉の部屋に来て、1週間が経とうとするがまだ違和感があり、慣れないでいた。遠慮しながら、小さな声でそう言うと、リビングの方から
「お帰りなさい」
と、渉の声が聞こえ出迎えに来てくれた。
風呂上がりでタオルを肩にかけ、石鹸の柔らかい匂いが夕雨季の草臥れた気持ちを和ませた。
「今日も、残業お疲れさま………? おめかしして何処か行くの?」
渉は細く長い指で、夕雨季の持っていた紙袋から見えたドレスを指していた。
「明日、大学の後輩の結婚式なの。披露宴に出席するのに借りてきたの」
「ふーん。深緑色すき」
渉はドレスを見てそう言った。微かに笑んだ表情に、夕雨季はつられて顔を綻ばせた。
「ふふ。私も好き色なの。あ、そうだ。帰りにコンビニでこれ買って来たんだけど、一緒に飲む?」
夕雨季は、手に持っていたコンビニのビニール袋から缶ビールを取り出して、渉に見せ小さく笑んだ。すると、渉は表情を曇らせながら、苦笑いして小さく横に首を振って見せた。
「俺、ビール苦手で………。苦くて」
「そうなんだ。お酒は飲めなくはないの?」
夕雨季の言葉に、渉は伏し目がちになってぽつんと言った。
「甘いのなら………」
唇を尖らせ呟いた渉のそのしぐさに、夕雨季はぷっと吹き出してしまった。
「ごめんね。なんか、っぽいなぁって思って」
「? 何が?」
「なんとなく。甘いものとか好きそうな感じがしたから」
「それって、子供とか言いたい?」
小さくムキになった渉に、夕雨季は笑顔で否定した。
「嫌な思いしたなら、ごめんね。けど、なんか佐伯君の事見てたら、ほっこりしちゃった」
三日月型の目がなくなってしまうくらい、夕雨季は笑顔を見せた。
「じゃぁ、こっちをあげる。これはどうかな?」
「どんだけ飲むつもりなんですか?」
呆れた渉に夕雨季は、袋から出したカルピスサワーを差し出すと、渉はそれを受け取った。
「景気づけよ。明日の戦いに備えないとねー」
荷物を部屋に置きに向かい、部屋着に着替えた夕雨季はリビングに来て渉と一緒に乾杯した。
「お疲れさまー」
「いただきます」
礼儀良く渉は夕雨季にそういうと、ぷしゅっと音を立てて缶を開け、ゴクリと一口、カルピスサワーを飲んだ。
「平気?」
様子を伺う夕雨季に渉は、口元に付いた水滴を手の甲で拭った。
「へーき。喉渇いてたから、シュワっとするのおいしい。甘いし」
渉の声は低いトーンなのに、何処か幼げな印象だった。生乾きの黒い髪から、形のいい耳が見えると、うっすらとピンク色になっていた。風呂上りだからだろうかと、夕雨季は思ったが、渉の頬も同じ色になっている事に気が付き、アルコールに弱いのだろうと察した。
「結婚式って、戦いなの? 怖いね」
ふわりとした口調で、渉は夕雨季に話しかけた。口数が少ない渉が話しかけるのは、アルコールが入った事で、程よく酔っているのではないかと思った。
「怖いよー。別れた男と寝取られた女も一緒に来るからね」
表情は笑んでいたが、夕雨季の口調は冷やかだった。
「ハリノムシロだね」
普段から控えめな声のボリュームの渉の言葉に夕雨季は、静かな空間なのに息を吐きながら言った渉のその声がかき消されそうだったが、言葉を受け止めると本当に針の筵に自ら飛び込まないといけないのだと、痛感していた。
「行くのやめれば? 俺だったら、そんな所だと分かっていたら行かないけど」
ゴクンと缶ビールを飲み込んで、夕雨季は渉が言ったようにできるなら、どれだけ楽なのだろうかと思えた。披露宴に行かなければ、自分たちが別れた事の事実や、航と瑠羽の幸せぶりを目の当たりにする事もない。まして、周囲の大学時代の友人や後輩達から、哀れみの目を向けられることもないのだと思うと、渉の言う通りに明日は行くの、やめてしまいたいと現実逃避しかけた。
「俺は、臆病だから。修羅場とか、好きだった人が他の人と一緒に居るの、見たくない」
「そうだね………私も本当はそうしたい。でも………」
「でも?」
缶ビールの水滴がつーっと流れ落ち、テーブルの上に小さな水たまりができたそれを目で追い終えると、夕雨季は視線を上げて渉を見た。ほろ酔いでふわふわした柔らかい表情の渉に、夕雨季は一瞬顔を綻ばせたが、気を引き締め渉を見て言った。それは、自分自身に喝を入れるためだった。
「逃げちゃダメなんだって思うの。二人を見て自分の感情がどうなるのか、今は良くわからない。でも、私自身のけじめをつけるためにも、ハリノムシロに出向かないと」
「夕雨季さんは、強いね………。凛みたいだ………」
渉の口からぽつりと出た知らない女の名前に、夕雨季は胸が引っかかった。そうして、その名前が、ここに暮らしていた亡くなった女だと言う事に、すぐに気が付いた。
「私は、強くないよ。けじめ付けたいだけ。けど、凛さんは強かったのね」
夕雨季は静かに答えた。そうして、辛い思いをしているのは、自分だけではない事に気が付いた。慰めの言葉にもならないが、渉が感じた凛の印象だけをそのまま、言葉にして投げかける事で精一杯だった。
渉は、カルピスサワーの缶を空け切る前に、酔いつぶれてテーブルに顔を突っ伏し寝入ってしまった。何回か声をかけたが、起きる気配がなかったため、夕雨季はタオルケットを肩にかけてあげると、自分の部屋に戻って行った。
14時15分を過ぎても、日和の姿が現れず夕雨季はスマートフォンを片手に、ホテルの入り口を交互に何度も見ていた。電話しようか、メッセージを送ろうかと思った時に、日和からの電話がかかって来た。
「もしもし? 日和、どうしたの?」
「あ、久住さんですか?」
男の声がスマートフォン越しに聞こえ、夕雨季は一瞬困惑したが、それがすぐに日和の夫である事に気が付くと、返事をしていた。
「日和が、破水して。今、病院なんです………式は出られない事と、一緒に居てあげられないでごめんねと、日和から伝言されましたので」
「そんな時に、私の心配なんて………ありがとうございます。元気な赤ちゃん産んでって、お伝えしてください」
「分かりました。ありがとうございます」
電話を切ると、夕雨季は一人でこの先に行かないと行けないと言う現実に、身構えした。そうして、気持ちを引き締めるように息をすーっと、大きく吸い込んだ。
たくさんの円卓の中、セッティングされた自分の席に向かうと、目の前には既に航と瑠羽の姿があった。にこやかに会話をしていた二人が、夕雨季に気が付くと、航は表情を曇らせ夕雨季から視線を逸らした。瑠羽の表情は明るく、余裕のある笑みを夕雨季に投げかけ、掌をひらひらさせると、
「久住センパイ! こんにちはぁ」
と、声をかけてきた。
平然を保とう。自分の感情は何処かにしまい込んで、後輩の式を祝福しよう………。そんな自分への暗示は、瑠羽の存在であっという間に崩れてしまっていた。胸の中に残っている航への愛情までもが、瑠羽を目の前に、奪い取られてしまうようだった。
「………」
挨拶なんて社交辞令な言葉は、夕雨季には持ち合わせていなかった。口を開いてしまえば、航に対して問い詰め、行き場のない自分の感情を投げつけてしまいそうだった。
瑠羽は、髪をアップにして、小さな花をちりばめて飾っていた。もともと、あっさりとした顔立ちで、化粧映えのするよく言えば、有効に化粧を生かしている顔だと夕雨季は思っていた。存在感のあるエクステのまつ毛が、蝶の羽のようにパタパタと瞬きをするたびに動いていた。
隣に座る予定だった日和が居ないため、夕雨季は他に会話をする相手がいないでいた。両隣のもう片方には、大学の後輩ではない、見知らぬ女性が座っていた。
「ほら………やっぱりそうでしょう」
「ホントー! 溝上さん、前に御堂先輩の事いいかもって、言ってた事あったよね」
「久住センパイ、可愛そう………」
「仲良かったのにね。御堂先輩も、溝上さんと付き合うなんて、サイアクね」
ひそひそと後ろのテーブルの席から聞こえた話し声に、夕雨季は航と瑠羽とのこの現状が、既に他の人にも知られている事を察した。
披露宴の様子は一切、頭に入らなかった。ただ、皆に合わせ拍手をするだけで精一杯だった。披露宴の間、ずっと夕雨季は航との事が本当に終わってしまったのだと言う現実を、目の当たりにしていた。
自分自身はもう、過去の女なのだ。一緒に時を過ごす事も、思った事を伝えて、喜びや悲しみを分かち合う事も、あの大きな掌に、自分の手が包まれることも無いのだ。航の隣は、目の前の現実の通りで自分ではなく、瑠羽になってしまっているのだと。
昨日の夜、渉に『けじめ』などと立派な事を言ったが、それがこれほどまでに辛く、哀しい事だと感じていた。
居てもたってもいられなくなり、ゆっくりと席を立ち、必死に堪えていた涙を流さないよう、会場を出た。その瞬間、糸が切れたように、涙がボロボロと流れ出した。
トイレに駆け込もうと、赤い絨毯の上を走り出した夕雨季は、人に顔を見られたくないと、俯きながら走っていると、人に気づかずにぶつかってしまった。
「すみませんっ!」
ぶつかった衝撃で夕雨季は、履いていたピンヒールに絨毯が食い込み、バランスを崩してしりもちをついていた。
「大丈夫? ごめんなさい。俺も、よそ見して歩いてたから………」
顔を上げると、目の前に屈んで心配そうに夕雨季の顔を覗き込んだ男と、目が合った。夕雨季の顔は、涙で流れ落ちたマスカラや、ファンデーションがドロドロに流れていた。
「こりゃひどい。身体、痛いとこあります?」
男は着ていたスーツのポケットからハンカチを差し出し、夕雨季の涙を拭っていた。茶色の短めの髪に、黒縁メガネを小さな鼻にのせてかけていた。二重の茶色い瞳をしていた男の目を見たまま、夕雨季は小さく首を振ると、
「大丈夫です………」
そう答えた。
「式に感動したんですか? それとも失恋しちゃったとか」
男は夕雨季に手を差し出すと、身体をゆっくりと引き上げた。
「あなたには、関係ない事でしょう」
「お、泣いてた割に元気じゃないですか。気が強い人、いいね」
日に焼けた華奢な男の手に、自分の手を乗せたまま、夕雨季は向かい合った男の顔を見上げた。
「けど、そのまま戻るにも、帰るにもその顔じゃ、注目の的になりそうだ。行こう」
「えっ!? ちょっと! 何するのっ!!」
男に手を引かれ、夕雨季はホテルのメイクルームに連れて行かれた。化粧品の香りが入り交ざり、独特の香りがする室内にクラッシックのピアノ曲のBGMが弱弱しく流れていた。
「おねーさん、この人の顔、直して、いい女にしてください」
メイクルームの係りの女性に言い、夕雨季の両肩を後ろから掴んで、差し出した。
「かしこまりました」
係りの女性は、夕雨季の顔を見て驚き、男の言葉と態度にクスリと笑っていた。
「ちょっと! 何、言ってんですかっ!!」
「じゃ、またあとで。おねーさん、頼みましたよ」
男は軽やかな口調でそう言うと、メイクルームから去って行った。
「あの人、ホテルの方ですか?」
「いいえ。多分、お客様です。お連れの方ではないんですか?」
鏡の前に案内され、スツールに座った夕雨季は、係の女性に勢いよく反論した。
「違いますっ! 全く、知らない人です………あっ! ないっ!!」
鏡を見ると、髪に付けていたピンクのバラの花飾りが無くなっていた。
「何処かに落としちゃったんだ………。借り物なのにどうしよう………」
「ホテル内でしたら、見つかり次第、お客様にご連絡差し上げます。探しておきますね」
係りの女性の言葉に、夕雨季は頷いた。
されるがままにメイクを直されながら、さっきまで身体中に沁みわたっていた哀しみや、涙が治まっていた事に気が付き、耳に入り込むピアノ曲に耳を傾けて気持ちを静めていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
小説を書く時は、音楽とコーヒーをお共にしてます。音楽は、作品のイメージに選んで聴いています。
お話はまだまだ続きます。
どうぞよろしくお願いいたします。