遺品
男に裏切られたことが余程ショックだったのか、夕雨季に食事をどうするか声をかけたが、食べたくないから大丈夫と断られ、渉は内心ほっとしていた。自分自身も、今は食欲がなく、腹が減っている感覚も鈍っていた。
夕雨季が明日の午前中に、荷物を取りにもう一度男と暮らしていたマンションに、出かける事を聞き、二人はお互いの部屋で夜を過ごした。
ベッドに寝転び、軽く瞼を閉じた。窓を叩き付ける激しい雨の音が、今の渉には心地よく感じていた。
渉は、夕雨季がさっきリビングで過ごしていた間、凛のクッションの上に座っていた事に、無性に違和感を感じて気持ちが落ち着かなかった。
ごく、当たり前の日常の光景に、全く知らない女が居るのだ。渉は、平然を装いながらも、気が滅入りそうなくらい、くらくらした感覚に紅茶の香りとそれを啜りながらそれを誤魔化していた。
渉は、夕雨季に一緒に住むことを口走った自分に、後悔はしていなかった。お互い、大事にしていた形を失った。それでいて、夕雨季は行き場がなかった。利害一致だと、渉は思っていた。渉自身は、自分の日常の穴を埋める何かが欲しかった。それが、夕雨季なのではないかと安易に思いつつ、夕雨季に対しても内心すまない気持ちもあったが、今は、この部屋に誰かが居る事で、凛を亡くした事への理性が、冷静でいられる事が十分に分かっていた。
そのまま、眠りについてしまい、目が覚めた時にはすっかり窓の外が明るくなっていた。夕雨季は出かけてしまったようで、がらんとした部屋の中でまばゆい光が、リビングに差し込み、渉は軽い眩暈を起こしかけた。
凛が死んで、同時に夕雨季が現れ、この部屋に住むことになった。と、言っても夕雨季は少し考えたいと言っていた。もしかしたら、一時的かもしれない。それでも、急激な日常の変化にも関わらず、リビングの空間は変わらなかった。夜になったら、凛が帰ってくるのではないかと思う程、いつもと変わりない光景に、渉は我に帰ろうとした。
ゆっくりと、自分の部屋の向かいにある、凛の部屋のドアを開けた。相変わらず、物があまりない閑散とした部屋だった。
マットレスにピンクのカーテン。小さな植木は何という植物なのかは、渉は全く分からなかったが、凛は可愛がっていた。
ふわりと香る凛が使っている香水の匂いが、微かに感じられ渉の胸が締め付けられた。この部屋に入ったのは、そう多くはない。蛍光灯が切れた時には、渉が脚立を出して交換したり、虫が入って来たと言って大騒ぎし、やれやれとそれを捕まえて窓の外に放した事があった。
窓辺に置いてあるマットレスに視線を移すと、あの時の記憶が過った。渉は、一度だけ凛と寝た。あの時は互いに無我夢中だった。凛の顔には涙の跡があったのを、渉は今でも鮮明に覚えている。原因は教えてくれなかった。凛は、渉が帰宅すると部屋で泣きじゃくっていた。声を殺していたせいで、酷い嗚咽が聞こえ、凛の部屋に入るなり渉は凛を、自分の腕の中に抱えていた。
渉の中にある凛への愛おしい想いは、凛には伝わらなかった。伝える事もしなかったが、渉は、凛が自分の気持ちに気が付いていながら、気付かないふりをしているのではないかと、感じていた。
凛の父親に昨日病院で、
『何でもいいから凛の荷物をすべて送ってくれ』
と、頼まれた。引っ越し業者まで頼むまでもない荷物の量で、凛はここに来た時もほとんど荷物がなかったが、暮らし始めてからも服が数枚、化粧道具、靴、スーツケース、小さな植木と文庫本が数冊だけだった。
ダンボールにそれらを詰める作業をしようと、渉は凛の部屋の窓を開け、服をクローゼットから取り出した。洒落っ気のない、いたってシンプルな服ばかりでアクセサリーをつけている姿を見たことがなく、部屋を見渡してもそう言ったものはなかった。
凛がここに来る前の事を、渉は聞かなかった。結婚していたのか、実家から出てきたのか、それとも夕雨季のように同棲していたそこから出てきたのか。
快活で良く喋る方だけど、自分自身の事はほとんど話さず、聞かれたことには答えてくれたが、渉は込み入った事情はどこか気を遣ってしまい避けて通ってしまっていた。
しかし、病院で凛の父親の話を聞き、凛の素性がうっすらと分かった気がした。
仕事は、写真の仕事をしていると言う事は凛から聞いたことがあった。しかし、部屋のどこを見てもカメラも他の関連した物たちも何一つ存在しておらず、渉は凛の話がどこまで本当なのか分からなかったが、そんなことはどうでも良かった。
渉にとっては、凛が来て一緒に暮らしてからと言うもの、日常に光が差したようで、毎日が楽しかった。それでいて、自分の存在を凛だけが分かっていてくれれば、いいとさえ思えた。仕事では、チームを組みながら地道な研究に、他の連中(他の部署のチーム達)は分かってくれない。大学院を出て、更に研究を続けられる会社に入っても、両親は無関心だった。姉には、研究ばかりで室内に籠っている渉を『研究オタクで暗い』と遠巻きに見ていた。
もともと、人と接するのは得意ではなかった。内気な性格でもあり友人と言える人間も数少ない。将来、会社で仕事をするならば、営業なんてもってのほかだと、自分に不向きな事は百も承知だった渉は、研究が継続できる仕事を選んだ。そうすれば、限られた人員としか会話もせず、営業する事もないからだ。
クローゼットの奥にしまい込んであった、スーツケースを引っ張り出した。
「懐かしいな………」
使い古されたスーツケースを平置きし、凛と初めて出会った時の事をふと思い出したが、昨日の夕雨季の出来事が混乱し、渉は小さく首を横に振った。
スーツケースは鍵が開いていた。中を開けるとそこに一眼レフのカメラと黒い表紙の本が存在していた。
渉は、ゆっくりと黒い表紙の本を取り出した。大きさや中の厚みのある素材の物から察するに、アルバムなのではと渉は思った。
表紙をめくると、セロファン紙と印刷物の独特な匂いが鼻に付いた。そうして、黒い台紙に張られた写真に目を止めた。鮮やかに写されたポートレートだった。ページをめくっても、更に同じ男性の写真だった。20代半ば………自分と同じくらいの年だろうか。茶色い髪が二重の目にかかり、鬱陶しそうだった。骨ばった顔の輪郭に薄い唇をしていた。写真の男は、楽し気にキャンプのテントを貼る作業をしたり、ダッフルコートを着た男が、雪だるまを作っているのだろう、大きな雪玉を転がしたりしていた。四季折々、様々な場所で映された男の写真の最後には、カメラ目線の男の写真が台紙の中央に張られていた。写真を撮る相手を愛おし気に見つめるその視線の先が、凛だと思えた瞬間、渉はパタンと音を立ててアルバムを閉じだ。
そうして、それを床の上に置くと、渉の胸の中に、得体の知らない気持ちの悪い何かを感じた。それは、まるで胸の中を侵食するように、どんどん広がり崩れようとした時に、渉はそれが名前も知らない写真の男に対する、嫉妬心だと気が付いた。
渉にとっては、今まで感じたことのない、まるで怒りの感情に近いようなそれを、素直に受け止める事が出来なかった。
すっと立ち上がり、その場から離れると自分の部屋に行き、鞄から煙草を取り出し火をつけた。普段は吸わない方だが、仕事に煮詰まったり、気分転換したい時に時々吸う事があった。今は、そうする事で、この感情を落ち着かせようとしていた。しかし、頭の中に印象強く残る男の顔が、残像して消えなかった。
「いったい………誰なんだよ。アイツ………」
低い声で呟きながら、吸い込んだ煙を吐き出したけれど、胸の中の感情は吐き出せずに残っていた。
凛の父親に、アルバムを送ろうか迷ったが、結局それは送ることは躊躇した。送らずに、自分が処分しようかどうか迷っていた。すると、自分の部屋の鞄の中でスマートフォンのマナーモードの低い機械音が聞こえていた。鞄から取り出すと、自分の物ではなく、凛のスマートフォンだった。画面には“父”と一文字、表示されていた。
渉は、緊張する気持ちを抑え、呼吸を整えて電話に出た。
「凛の父親ですが、佐伯君ですか?」
「はい。そうです」
スピーカー越しの凛の父親の声は、まだどこか力ない低いトーンの印象だった。
「凛の荷物なんだが………送っていただくとき、この電話はしばらく佐伯君が預かってくれないか?」
「え? 電話をですか?」
「そうなんだ………実は、私も家内も今どきの機械は使えなくてね。凛が勤めていた会社には何とか伝えられたが、交友関係とかは全く分からないから、もしその電話に連絡が来たら、凛が死んだ事を、伝えて頂けないか………。無理にとは言わない………けれど、すまないが、力になってくれないか」
渉は、力ない声で自分の娘よりも若い男にすがるように頼む、凛の父親がとてもちっぽけに感じながら、それでいて娘の為にここまでする親心に胸が痛んだ。
「………分かりました」
「ありがとう! ありがとう!」
凛の父親が上ずった声で、電話の向こうで半泣きしているであろう、鼻をすすりだす音が聞こえ、渉はどうしていいか分からず、黙ってしまった。
半年の目途と言う約束で、凛の父親からの電話を切った。
「ただいま………」
部屋の外から夕雨季の声が聞こえ、渉はスマートフォンを鞄に戻し、部屋を出た。
「お帰りなさい」
玄関でサンダルを脱いでいる夕雨季は、スポーツバックや紙袋を持参し、渉が渡した合鍵を使い、佇んでいた。
「遠慮しないで、どうぞ」
余所余所しい夕雨季に、渉が声をかけながら夕雨季が持ってきた荷物を全部持って歩き出した。
「自分で持ちます。ん?」
夕雨季の言葉に構わないでいた渉は、夕雨季の方を振り返ると小さく首を傾げた。
「タバコのにおい………」
「あ、ごめん。嫌でした? 俺、時々吸うんです………気分転換に。今度から、ベランダで吸うね」
「あ………はい」
「夕雨季さんは吸わない?」
「うん。吸わない………ふふ」
煙草の臭いが不快に思ったのかと渉は気にかけたが、夕雨季がクスクスと笑いだしているのを見て、拍子抜けした。
「どうしたんですか?」
「佐伯君、敬語とタメ口が混ざっててなんか、面白くって」
「あ………俺、あんまり人と話すの苦手で。敬語とかも少し苦手なんです」
「人と話すの苦手って。職場で同僚の人と会話はするでしょう? それに、会社の人とか年上の方に敬語使うでしょう?」
「そうだけど………うまく使えなくて。それに、研究チーム年近い人が割と多いからつい、タメ口使っちゃう」
「そうなんだ。お家でも敬語だと、佐伯君疲れそうだね?」
夕雨季はにこりと笑んでいた。昨日の雰囲気とは変わって、何か吹っ切れたようなだけど笑っているのは空元気かなのか、渉には分からなかったが、なんとなく楽しそうにしている雰囲気は感じていた。
「そうですね………じゃぁ、タメ語で」
夕雨季の荷物を部屋に置き、既に13時を過ぎていたが昼飯を誘ったが、夕雨季は、
「お腹空いていないから、大丈夫」
と言って、荷物を荷ほどきし始めた。
余程、男と別れたことがショックなのだろうかと思ったが、渉はキッチンに行き冷蔵庫の中を見渡すと、ヨーグルトを見つけスプーンを二つ用意すると、テーブルの上に置いて、夕雨季を手招きして呼んだ。
「少し、食べないと。力出ないよ」
テーブルの上にちょこんと置いてある、カップ入りのヨーグルトを見つけると、夕雨季は顔を綻ばせた。笑むと、目が三日月型になり、ほうれい線がくっきりと口角が上がると同時に浮き出るが、それは頬骨とその筋肉がくっきりと膨らみ形がはっきりするせいだろうと、渉は思った。
「ありがとう」
二人でカップのヨーグルトを食べ、渉はヨーグルトをすくったスプーンから、ヨーグルトが口の中で消えていくその後味を楽しむように、スプーンをくわえたまま、それを舌でなめていた。
黙々とヨーグルトを食べながら、渉は夕雨季を盗み見た。ちびちび口に運びながら、小さなため息が時折漏れる。少し感がえた後、渉は小さく息を吸って言葉をかけた。
「話したくなったら、愚痴でも何でも言ってください。溜めるより吐く方が楽な時もあるでしょう? 俺、あんまりそう言うのないから分からないけど。よく、会社の同僚で女の人が“ちょっと、きーてよ! もーっ!”って、あーだこーだ話して、話すだけ話してすっきりしてるんだけど、なぜかお礼言われるんだよね? 別に、俺、聞いてただけだけどね? って」
淡々と話している渉に、夕雨季が三日月型の目を更に細め、にこりと笑んだ。
「ありがとう」
今日は、立て続けに礼を言われる日だな………と、渉は侵食した胸の中を、彼らからかけられた言葉で、綻ばせていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
匂い。
昔の衣類はとてもツンとする防虫剤だったなぁと、思い出しました。
花火の残り香や線香の煙の匂いは嫌いでないですが、個人的には煙草の煙は苦手です。(喫煙者の方がご覧になっていたら、失礼いたしました。気を悪くなさらないで下さい)
お話はまだまだ続きます。どうぞよろしくお願いいたします。