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表面張力  作者: フジイ イツキ
3/18

居場所

 渉に案内され、夕雨季は部屋にスーツケースを運んだ。ガラリとしたフローリングの部屋には、片隅にダンボールが3箱積み重なっているだけだった。

「これ、使ってください」

 渉から差し出された、白いタオルを受け取ると、夕雨季は礼を言った。

「ありがとう。お言葉に甘えて、使わせていただきます」

 渉が部屋を出た後、夕雨季はスーツケースを開け着替えた。必要最低限の荷物を、詰め込んだつもりでいたが、当時は怒りや受け止めきれない複雑な感情に振り回され、大した所持品を詰めていなかった事が分かると、疲労感が肩に重くのしかかった。

「やだ、会社の社員証と資料、置いてきてる………」

 血の気が引くような絶望感で、肩がカクンと落ちた。もう一度、マンションに戻らないといけない事が分かると、夕雨季は渋々スマートフォンで航に『明日、必要な荷物をもう一度取りに行きます』とメッセージを送ると、普段は返信が遅い航から、即にレスポンスが届いた。

『わかった。何時ごろになる? 申訳ないから、その時間は俺、部屋空けておく』

『午前中』

 そう返信すると、夕雨季はスマートフォンを置いて部屋を出た。リビングには、既に着替えた渉がキッチンでお湯を沸かしていた。渉はタオルを肩にかけ、黒いTシャツにジャージを履いたラフな格好だった。

「コーヒー? 紅茶? お茶? 何がいいですか?」

 物静かな渉の声は、やかんに火をかけ沸騰している音と、換気扇の回る音にかき消されそうで、夕雨季は微かに聞こえたその声に、

「ありがとう。じゃぁ、コーヒーを」

 そう答えた。そうして、夕雨季はリビングを見渡した。

 ベージュのカーペットの上には、濃い茶色の木目調のローテーブルが置いてあり、あとはテレビがあるだけの、殺風景なリビングだった。

「適当に、座ってください」

「あ、うん」

 渉に言われ、夕雨季は淡いピンクのクッションの上に座った。

「どうぞ」

 シックな黒い陶器のマグカップに入ったコーヒーは、カップに同化しているように、中に何が入っているか分からず、ただ薄っすらと見える水蒸気がその表面を揺らぎ、宙を舞っていた。

「砂糖とミルク、入れますか?」

「大丈夫」

 夕雨季が答えると、渉は自分のカップに口を近づけ、ふーっと息を吹きかけながら紅茶を啜った。

 静かな部屋に、窓の外で振り続ける豪雨と雷の音が聞こえていた。

 夕雨季は、何か会話をしなくてはと、沈黙に落ち着かない気持ちでいた。渉は、黙ったまま、紅茶の香りと窓に振り付ける雨をぼんやり眺めていた。そうかと思うと、スエットのポケットからスマートフォンを取り出し、画面に視線を落としていた。

「雨………一晩、降り続くみたいです。夕雨季さんが良ければ。客用の布団もありますから」

「あ、ありがとう………」

 夕雨季は、見ず知らずの男と一つ屋根の下過ごす事態に、内心驚いていた。会って間もない渉に対して、不思議と警戒心が薄れていた事にも驚いていた。

「ここって、どこなのかな?」

 突拍子もない夕雨季の質問に、渉は動揺せずに小さく首を傾げた。

「あのね、私、一緒に住んでた恋人にいきなりフラれちゃって、部屋出てきたんだけど。そのことで、あまり考えもせずに電車乗り継いでて………気が付いたらここに居たんだけど」

 夕雨季は、話しながら自分の行動を思い返し、渉になんでこんな話をしているのだろうと、自分自身に呆れていた。

「随分、無鉄砲ですね………でも、キライじゃないです。そういうの」

 微かに口角を上げ、渉はぽつんと言った。

「あはは………」

 苦笑いした夕雨季に、渉はさらに口を開いて言葉をかけた。

「東京。○○市です。○○区の隣です」

 渉の言葉に、夕雨季は頭の中に地図を描いた。そうして、自分がそれほど大した移動をしていないことに気が付き、小さな子供の家出のようだと、さらに呆れかえっていたのだった。

「そうなんだ。私、○○区から来たから、近いね………」

「………」

 渉は黙ったまま、目を伏せていた。色が白く、二重で長いまつ毛をしていて、とてもきれいな顔立ちをしている人だと、夕雨季は渉の顔を見て思った。

「もし………」

 俯きながら、渉は小さく息を吸って、静かに話し出した。その言葉に、夕雨季は渉の顔に見とれていた自分に気が付き、ハッと視線を逸らした。

「もし、夕雨季さんがよければ………一緒に住みませんか?」

 渉は顔を上げ、夕雨季と視線を重ねた。渉は、真っ直ぐに夕雨季を見つめていたが、悲し気な印象が漂うのは、まだ目が充血しているのと下がった眉が意志の強さと反して、それを夕雨季に感じさせていた。

「そ、そりゃ、突然部屋出ちゃって戻るとこないし、友達も結婚して子供いて大変そうだし、行くとこないから、嬉しいお話なんだけど………少し、考えさせてくれるかな? けど……行き場がないから、少し居させていただけると、正直助かる………」

 夕雨季は、渉の唐突な申し出に面食らい、動揺してしまっていた。声が上ずって、話し方がぎこちなくなっていた。そんな、夕雨季に比べ、渉は落ち着いている様子で更に、微かに顔の表情が綻んでいたように、夕雨季には見えていた。

 夕雨季は、身の上話をしながら渉にも質問を少しずつ投げかけ、お互いを認識していた。そうしないと、渉は自分から話をする事がなく、物静かにただまったりと時間を過ごしているように察したからだ。

 渉は、大学院を出て今は、レンズ会社の研究開発をしていると教えてくれた。25歳と言う年齢に、夕雨季は大学生かと思っていたと打ち明けると、渉は夕雨季から視線を逸らし、

「会社でも、同じような事を、良く言われます………」

 と、小さな不満を抱いた一面を目の当たりにし、夕雨季は渉のちょっとした感情表現に、笑んでいた。

 部屋数の多い、このマンションの話を持ち掛けると、亡くなったばかりの同居人は1年前に暮らしていたが、それ以前は渉の姉と暮らしていたと話してくれた。

「姉に、父親が買ってくれたんです」

「この部屋を?」

「はい。両親は、姉を溺愛してるから………。美容整形の医師をしているんですが、結婚したので、今は都内に家を買って住んでます」

「そうなんだ………。けど、佐伯君の事も、ご両親、自分の子供なんだから可愛いんじゃないかしら?」

 夕雨季の言葉に、渉はピクリと身を止めた。そうして小さくため息を吐くと、うなだれて首を横に振った。

「俺が、何をしてもあの人達は認めないから………。それより、名前で呼んでくれないんですか?」

 家族の話を切り返すように、渉にそう聞かれると、夕雨季の胸の奥がドキッと締め付けられた。

「名前………じつはね………」

 名前を意識してしまい、苗字で話しかけていた事に何の問題もないだろうと、安心していた夕雨季は、渉に更に要求されてしまい、白状する事にした。

「字は違うけど、同じ名前なの。今日、別れたばかりの恋人と………」

「同じ名前か………。夕雨季さんが辛いなら、無理にとは言わない。けど、俺、分けたいんだ」

「分ける?」

 夕雨季が問うと、渉は渇いてきた黒い前髪を白く長い指で流すと、形のいい二重の目が夕雨季の目を捉えた。

「会社とか、他人には佐伯って呼ばれる事に違和感ないんだけど。逆に、そう言う人から名前で呼ばれるのは、嫌なんだ。友達とか、近しい人には名前で呼んでもらいたいし、逆だと違和感があるんだ。俺の勝手な価値観なんだけどね」

 夕雨季は、渉が自分を見つめたまま話している間、急に胸の奥がざわざわと、落ち着かない気持ちになっていた。先に視線を逸らしたのは、夕雨季の方だった。渉に見つめられ、その胸の奥のざわめきを、見透かされてしまいそうだったのと同時に、不確かで得体の知らない不思議な気持ちに、意識したからだった。

「慣れて、自分の気持ちにもゆとりがでたら、言えるかも………」

 夕雨季はそう、渉に答えた。


 翌日、航と住んで居たマンションに戻ると、航は出かけていた。

 自分の日常の一部が昨日の出来事を境に一転し、今こうしてリビングから見える光景に、とても居心地が悪く、胸の中にざらついた違和感があった。

 自分の部屋の扉を開け、ブランド物のボストンバックをクローゼットから出し、必要な荷物を詰め込んだ。そうしている間にも、昨日の出来事がフラッシュバックし、怒りや虚しさが混ざり合い、ふつふつと沸いてくると、涙がボロボロと零れ落ちていた。

 この10年、小さな事で喧嘩はしたが、平穏に仲睦まじい関係だと、夕雨季は思っていた。自分自身が航を嫌いになった訳ではなく、愛おしい気持ちが根底にあるがゆえに、夕雨季はこの現実にやるせない思いでいた。

 航は、別の相手を選んだのだ………。1年も前から浮気をされ、二股をかけられ、挙句の果てに、相手が妊娠し、その相手を選んだのだ………。

 自分に追い打ちをかけるように、夕雨季は呪文のように頭の中で言葉を繰り返した。そうでもしないと、自分の気持ちに踏ん切りがつかなかった。

 どうしようもないんだ………。

 その言葉で想いに蓋をし、大きくため息を吐き、涙を拭って鼻をティッシュでかんだ。

 必要な物をバックに詰め込み、入りきらないものは、紙袋に追加で詰め込んだ。それ以外の物は、航に勝手に処分してもらおうと思っていた。それくらいは、当然するべきだと、夕雨季は思っていた。

 リビングで、書き留めたメモをテーブルに置くと、マガジンラックの足に身体がぶつかり、その隣にあったローテーブルの上の何かが雪崩落ちた。

「もー。ちゃんと片付けておいてよ………」

 がっかりする思いで夕雨季は、冊子や書類のそれらを手に取ると、身が凍り付いた。

 出産向けの雑誌に結婚式場のパンフレット、そうしてその間から薄い紙が挟んであった。そこには、婚姻届けの茶色で印字された用紙に航と並んで記載してあるもう一人の名前に、夕雨季はさっき引いた感情がひるがえり、根底にあった愛しい気持ちすら微塵もなく消え果てしまっていた。

 喉が急に渇き、夕雨季はキッチンでコップに水を注ぎ、ゴクゴクと喉に流した。はーっと、息を吐いて、ふと水切りカゴに視線が止まると、見たこともないマグカップが置いてあることに気が付き、既にここに原因の根源となっている溝上みぞかみ 瑠羽るうが来ている事を察した。瑠羽の性格を良く知る夕雨季は、あの冊子と婚姻届けは、意図的に今日、自分がここに来る事を踏まえて、あえて目につくように置いたのだろうとさえ察していた。

 瑠羽は、夕雨季と航の大学の後輩で、よくサークルで一緒になっていた。当時から、瑠羽の男好きは悪い評判になっていて、合コン先やサークル内でも狙った獲物を逃さない、ウサギの容姿をしたハイエナのようだと、女子受けの途轍もなく悪い印象だった。

 職場も、大学のつてで航と同じ会社に就職し、社会人になってからも何度か、航が飲み過ぎて職場の同僚に担ぎ込まれて帰宅した時に、瑠羽も一緒に居たのを覚えていた。

 夕雨季は、大学を出た後は瑠羽との関わりがなかったが、航は会社でも顔を合わせていた事に、心の片隅で心配はしていたがそうしていても、気持ちが草臥れてしまう事だし、まして、航を信じていようと思っていたから、そんな心配をすっかり忘れていた。

 大学時代に男を取られ、悔し泣きして嘆いていた女友達や後輩達を慰めていたが、今になって自分がそんな仕打ちを受けるなんて。培っていた10年を奪った矛先が、瑠羽に傾いたが、悔しがっていても仕方のない結末なんだと、夕雨季は自分の感情をねじ伏せようと必死だった。

『あの子の為に、泣いたり怒ったり感情費やすなんて、もったいないよ』

 当時、被害に遭っていた女友達にかけていた、慰めの言葉を思い出し、夕雨季は自分自身に言い聞かせると、なんだか可笑しくなってしまい、笑いだしていた。

 部屋の鍵をポストに入れ、日常だった部屋を出ると、自分の居場所を失ってしまった事に虚しさが広がった。

 仕方なしに、再び渉の部屋に向かいながら、友人の日和ひよりにメッセージを送り、現状を報告した。すると、直ぐに電話が鳴り取ると日和からだった。

「大丈夫、夕雨季っ!!」

「日和ぃー。私もとうとう、やられちゃったよー」

 ケラケラと笑いとばしながら話す夕雨季に、日和は落ち着いて話しかけていた。

「笑いごと? 笑えるくらいなら、いいけど………。どうするの、これから。うちに来る?」

「ありがと。大丈夫だよ。旦那さんに悪いし。もうすぐ二人目生まれるんでしょう。それに、置いてくれる先が見つかったから、心配しないで」

「そう? けど、何かあったらいつでも言ってね。夕雨季、割と一人で頑張っちゃう方だから」

「ありがと」

 日和の声に、夕雨季は落ち着きを取り戻し、不思議な心地よさを感じていた。電話を切り、住み慣れた街並みを歩きながら、駅に向かう。パン屋の香ばしい小麦の匂いや小さなスーパーの軒先に並ぶ、店主が書いているであろう手書きの値札。文字の大きさがアンバランスで、毎日どこか一つは、書ききれず“円”が途轍もなく小さくなっている。営業しているのかよく分からない、謎の雑貨屋さんはいつもシャッターが半分開いており、看板はない。しかし明かりがついていて、お客さんらしい人が身を屈めながら店に入って行くのを、見かけた時には、思わず航に即メッセージを送っていた。

 航と手を繋いで歩いた街並みだったと、思い返すと甘酸っぱい気持ちが甦りかけたところで、夕雨季は必死にそれをかき消した。

 


お読みいただきありがとうございました。

渉が住む街並みは、昔自分が住んで居た場所と架空の世界観を織り交ぜてみました。電車から見える公園は、ボートも出せるほどの広さのある池。春には桜が綺麗に咲いてました。


お話はまだまだ続きます。

どうぞよろしくお願いいたします。


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